2011年7月5日火曜日

「  」しかないんですけどね

まあ、だから、あれじゃないですかね、恫喝・横柄・傲岸のやからは、どの社会にもどの団体にもいる。どの政党にも、どの会社にも、どの学校にも、どのチームにも、どの教会にも、ね。

そして、各団体に属している人々は、実をいうと、そういうやからが全体を管理していることを苦にしている。だって、根拠も能力も無いのに、ただ威張ってるだけ。やたら要求がましい。それでいて他人に対しては常に上から目線。ごねる、どなる、すねる。だから多くの人は「嫌だなあ。いなくなってもらいたいなあ」と心底から願ってもいる。

しかし、その一方で人々は、そういうやからの持っている独特の「人を従わせてしまう魔性の力」のようなものの一部は、あわよくば利用できそうだと、どこかで期待していたりもする。

「まあ、あれだ。ああいうのも一種の必要悪ってやつだな。あんなのに自分が直接支配されることを想像するとぞっとして鳥肌がたつが、まあ、おれ/あたし以外の人たちが被害を受けてる分には別にいいや。対岸の火事はどこかしら観ていてオモロイところもあるし」というあたりで自分を言い聞かせながら許容しているところがある。

でも、やっぱりだめなんですよね、理性を用いて誠実な情熱をもって謙遜でも常に力強く肯定的に語る「革命気質の」人たちの口を封じんとするために恫喝・横柄・傲岸をもってへばり付いて来る腐りきったやからに、いったん支配権を譲ってしまった社会や団体は。その時点・その瞬間が、その社会・その団体の「死」を意味します。

でも、「残念!」(もはや古いがギター侍)。その「死」は避けがたい。

なぜならば、そういうやからに運営を任さざるを得なくなっている状況にまで追い込まれているのは、その社会・その団体が「行き詰っている」ことの何よりの証左。要するに人材難です。もっといい人(適任者)がいるなら、そんなやからに運営を任す必要は全くないのだが、いないから(適任者がね)仕方がない。

ほんと、どうしたらいいんでしょうかね。

まあ、答えはひとつ、「  」しかないんですけどね。任侠党の恫喝大臣だらけになったときにはね(今の日本が完全にそういう状態になっていると私が思っている、という意味ではありませんよ)。それにしても「  」以外にどんな選択肢があるでしょうかね。

この文章を書いている最中に「復興相、引責辞任」のニュースが、ツイッターで飛び込んできました。よし!