このところ「創造論VS進化論」という、聞くたびにうんざりしてきた話題に関するツイートがやたら来るなあと思っていたら、どうやらこれですね。埼玉医科大学の准教授氏が言い放ったという
「聖書は正しく、進化論は間違い。日本人は騙されている」が、クマンバチの巣をつついてしまったようです。
この件について議論したい気持ちなどは私には全くありません。しかし、今の原発問題(特に利権問題)と絡めて考えると、さかのぼれば19世紀から懲りずに続けられてきた「創造論VS進化論」という議論の本質が見えてくるような気がするのは私だけだろうかと考えなくもありません。
いま書いたことをもう少しだけ説明しておきます。今は「聖書利権」(?)というようなものは、世界のどこを見回しても、もはや死滅しているというか、ほとんど皆無の状態なので、「創造論叩き」は「マルクス主義叩き」同様、一種の弱い者いじめみたいなものです。
他方、「進化論利権」(?)はまだあるというか、この理屈で世界が回っている感が無きにしもあらずです。世界はいかようにも多様に解釈しうるはずなのに。この既定路線に立たなければ学界から締め出されるとか、そういうのは科学的でも学問的でもないと思わなくもない。
私は、創造論は「詩」(ポエム)みたいなものだととらえています。しかし、「だからそれは非科学的なのだ」と責め立てられるのはあんまりですよねとも思う。進化論そのものというより「進化論利権」のようなものとしては、とくに新薬の開発とかの場合、「モルモットに効くのだから人間にも効く(はずだ)」というような、まるで人間と他の動物との間の区別は全く無いかのような、あまりにもシームレスすぎる関係性の論じ方とかね。
あとは「ウルトラマンガイア」の中心テーマのように扱われた「環境破壊をするような人間は環境によって滅ぼされて淘汰されるほうがよい」というウルトラマンアグルの考え方も、人間と他のあらゆるものとの関係をあまりにも連続的に考えすぎる思想傾向の産物であるといえなくもない。人間と他者との関係には「連続性」も、限りなく100%に近いと思うほどある。しかし、「非連続性」もあるのだと言えないといけない。人間が「獣化」しすぎることを、科学ないし学問の名のもとに援護・補強するのは、それはそれで危険です。
うちの長男は、幼稚園くらいの頃に教会の本棚から手に取った「子ども聖書物語」のようなもので「世界は神が創造された」という話を素朴に受けとめていましたが、小学校の高学年か中学に入った頃かに「これまで考えてきたことが一気に崩れ去った」と初めて自分から口を開いて言いました。そのとき「で、お前はどっちなの?」と私が尋ねると、「う~ん、『両方言える』でいんじゃね?」と答えました。こいつは大物になりそうだと、バカ親の親バカ心が発動しました。
もうひとつ加えるとしたら、改革派教義学の伝統的な議論の中では、「創造」(Creation)の概念は「摂理」(Providence)の概念と一対の関係にあるものとして扱われなければ意味をなさないものだとみなされてきました。「創造」とは最初の瞬間の出来事としての「つくること」。他方の「摂理」は最初の「創造」が行なわれた後の全時間における出来事としての「まもり、ささえ、そだてること」。
たとえば、我々にとっての出産ないし誕生は、神学的にいえば「創造」というカテゴリーで説明されてはならず、「摂理」というカテゴリーで説明されなければならない。なぜなら、もし我々が「創造」というカテゴリーで出産ないし誕生を説明してしまうと、事実上「我々の両親は神である」と言っているのと同じことになってしまう。しかし、我々はどう間違っても「子どもを創造した(つくった)」わけではないし、あるいは「両親がおれ/あたしを創造した(つくった)」わけではない。
自分の赤ちゃんを前にして「おれが/あたしが、こいつをつくった」とでも思っているから、虐待しようが何しようが、創造者なるおれ/あたしの思いのままだと考えている(ごめんなさいね、ちょっと言わせてもらいますが)バカ親が少なくないのではないかと感じられる昨今。あるいは、自分のペットにもつけないような(これも言わせてもらえば)恥ずかしい名前を、自分の子どもにつける親もいる。
「人間よ、なんじはいかなる意味でも創造者ではありえないし、なんじの子どもはなんじのペットではありえない」ということをトコトン言い続けるためにこそ、「創造」と「摂理」の区別、あるいは「創造」と「出産」(ないし「誕生」)との概念上の区別を厳密にする必要がある。つまり、今日においてこそ創造論を欠くことはできないと思われてならない。
「創造」というカテゴリーは、思春期の子どもたちが親に向かってよく言う(ことになっている)「おれをつくってくれと頼んだ憶えはネエ!」という言い分を一部理解しつつ、「おれ/あたしが、お前をつくったわけじゃネエ!」という親側からの反論に微妙な根拠を提供するためのマクラコトバとして意味をもちうる、と言いたいだけです。
ちなみに、いま書いた、「おれ/あたしが、お前をつくったわけじゃネエ!」という親側のセリフに続く言葉は、「お前をつくったのは神さまだからね」ではありませんからね。「おれ/あたしはお前を産んだだけだ。産むことと造ることとは全く違うことなんだよ。文句あるか?」ですからね。
19世紀から前世紀にかけての「創造論VS進化論」という押し問答は、まさに利権問題としてとらえれば、よく分かる。各国の文科省(に相当する公的機関)と学校教育における「キリスト教利権」と「非キリスト教利権」のヘゲモニー争いでした。この論争の当事者たちにとって「聖書の解釈」という点こそマクラコトバにすぎませんでした。
本当に議論はしたくありません。しかし、「創造論は詩(ポエム)である」と書いたことについてだけは、異論が吹き出す可能性が高いので、先回りして書いておきます。
私の意図は「それは詩にすぎない」(It's only a poem)というふうに、それを低く評価することではありません。それは詩をバカにしすぎています。そういうのは全世界の全歴史における歌や音楽を全否定するのと同じ態度を意味しているわけですから、とんでもないことです。私に言わせてもらえば、創造論の詩を、ジミー・ペイジの奏でるダブルネックのイバニーズに合わせて、ロバート・プラントにシャウトしてもらいたい。それくらいの思いです。
しかしまた、「創造論は詩(ポエム)である」と私が受けとるもう一つの意味として言っておきたいことは、やはり、時と場所と状況をわきまえた語り方というのがある、ということです。
あくまでもたとえばの話ですが、我々の住んでいる国(まあ日本ですが)のプリンスとプリンセスが初めての子どもを産んだとき、マスコミの前で言った言葉は「コウノトリが来てくれた」でしたよね。「聖書とキリスト教の創造論は非科学的である」とか言ってつっこむ人たちには、あのプリンスの言葉にもつっこめよと言いたいですね。詩歌(しいか)の表現を用いて語るほうが適切な場面というのが、我々の人生にはあるのです、明らかにね。
でも、逆の言い方をすれば(逆かどうかは微妙ですが)、もしあの場面、あの状況でわが国のプリンスが「いやー、じつは、おれとこいつ(隣に座っていた人)があれをしたら、これができちゃったんですよ」と言えたか(Could he say that?)。そういう言葉づかいが「科学的」なのか。そうとは言えないと思うのですよ。
改革派神学の筋道の中で「進化」(evolution)というカテゴリーをどこに位置づけられるかといえば、おそらく「摂理」のところでしょうね。「摂理」は「創造」と共に「聖定」の枠組みの中に置かれます。創造は「第一の聖定」、摂理は「第二の聖定」ですから。
しかし、某准教授氏が言い放った「人間優越論」のような考え方は、改革派神学には全くそぐわないですね。改革派神学は、人間に対して全被造性(whole creativity)の一要素というくらいの位置づけしか与えて来なかったと思います。しかし、そうは言っても「上か下か」(優位か劣位か)という区別ではなく、両者(人間と世界)の非連続性(discontinuity)については、改革派神学はむしろ強調してきたはずです。
繰り返しますと、改革派神学の筋道からいえば「創造」が第一の聖定で、「摂理」が第二の聖定なのですが、後者「摂理」の中に「進化」を位置づけることは、それほど問題ではないはずです。しかし問題は、「創造」のほうは否定して「摂理」だけを残し、その上で「摂理」の中に「進化」を位置づけてしまうとどうなるかです。そのとき我々は、誰によっても(または何によっても)造られなかった世界が過去・現在・未来を通じて永久に存在し続けている状態、ということを想定せざるをえません。
その場合には、この世界には「はじまり」(beginning)が無いし、するとまた当然「おわり」(end)も無い。そうなると、すぐさま「終わりなき日常を生きろ」みたいな話になっていくのかどうかは分かりませんが、途方もない気持ちにさせられることは確かですね。私は某准教授氏がいうような意味での進化論否定論の立場にはいませんが、「詩(ポエム)としての創造論」まで否定されると、私などは「終わりなき日常」のプレッシャーに耐えかねて世界の外側へと飛び出していきたくなるような気がします(「死にたくなる」という意味です)。
というわけで、私自身はアメリカなどの福音派の事情は(そういう教会に通ったことがないので体験的知識がゼロであるという意味で)全く知らないのですが、相手を組み伏せるような議論を好まない福音派の人たちがいるなら、その人たちとだけは仲良くできそうです。
「創造論」の基本命題は「世界を創造したのは神である」というものであることは間違いありませんが、逆命題的に言い直せば、「もし世界が永遠に存在しているのではなく、何かあるいは誰か(どなたか)によって『はじめられた』ものであるならば、この世界を『はじめた』存在を『神』と呼ぶことにしよう」というあたりのことでもあるわけなので、「この世界にははじまりも終りもない」と言い張る科学者でもないかぎり、いま書いた意味での「創造論」を否定するほどの理由はないはずなのです。
しかし、そうは言っても、感覚的にいえば、カトリックや福音派の立場に全く同意できるとは思えない。彼らがとにかく嫌うのは、医学などの生命科学や物理学などが絶対的な自立性を持って優位性を主張しはじめ、神学部の営みを「非学問的」などと決めつけて罵倒してくるような場面でしょう。神学部の側も適当にスルーしておけばいいのに、売られたケンカを買おうとする。こうした彼らの神学的な勇ましさは「諸学は神学の婢(ancilla theologiae)である」と言えていた数百年前の時代の名残かもしれませんね。