2025年7月2日水曜日

教理説教の副産物

『ファン・ルーラー著作集』翻訳中


【教理説教の副産物】

教理説教が助かるのは、聖書と今を教理史でつなげること。「聖書はこう。我々はどう」と途中2千年分を無視する話し方をせずに済む。教派性を加味して「聖書はこう。宗教改革者はこう。我々はどう」と言ったところで、500年ほど無視している。哲学や心理学でつなぐのは、わざわざ教会で聞く話かどうか。

教理説教の準備として『ファン・ルーラー著作集』をまず読むようにしている。ファン・ルーラーがすごいのは、古代教父から現代神学まで引き出しが多いこと。衒学的につまみ食いで名前を挙げているだけのようなのと全く違う。どの教父、どの神学者についても、長文なのに平易で的確な解説をしてくれる。

この先私が何をどれだけ学んでも、アウトプット先は日曜日の礼拝説教とブログだけ。かつて「ファン・ルーラー研究会」でしていたように、キャッキャ言いながら面白がってファン・ルーラーを読む会を再開できるといいが、そこまでの気力がまだ戻っていない。当時は合宿研修や公開講演会までしていた。

言うだけ番長でないところをたまには見せないと信頼してもらえないので、今撮った。「ファン・ルーラー著作集」を急ピッチ翻訳中。出版は夢のまた夢。私の仕事ではない。もっと売れる人の名前でないと。私は教会の役に立てばいい。翻訳はごく限られた専門家向けになるだろう。リソグラフで間に合う。

2025年6月25日水曜日

ジークアクス全話視聴完了

 


【ジークアクス全話視聴完了】

ジークアクス最終回を昨夜から4回観ました。関連があるようなので初ガンダム全話、Z(ゼータ)ガンダム全話を当時は1話すらまともに観ていませんが、ジークアクス最終回直前5分前までに視聴完了。正史(というそうで)で、まだZZ(ダブルゼータ)と逆シャアがあるそうですね。近日中に観終えたい所存。

かれこれ半世紀前のアニメファン(オタクだとかは私は断じて言わない。後代の加筆っぽい)を見下げる思いは私は無い。スリム&スマートなバスケ部員(限定)と応援者がたか、大学受験のことしか関心がなかった方々以外は、大なり小なりアニメファンだったのではないかと思うし、私も例外ではなかった。

「ガンダム」はリアタイで観ていない。私だけでないかもしれないが、私だけかもしれない。私がテレビの観すぎで左目だけ仮性近視になったことに両親が対応して1972年から1984年まで家からテレビが撤去された。1984年大学入学と同時に実家にテレビが再導入されたので、私が理由であることは間違いない。

「ガンダム」は正直どうでもよかったが、ジークアクスを全話観た感想として意外なほど面白かったのかもしれないと思わされた。「向こう側のキラキラ」とかは、私個人とは微妙にずれる数年から十数年あとの後輩(と言わせていただく)の感覚かもしれないが、私は知らない。メタ視点で観ることができた。

亡き両親に感謝すべきかもしれない。たぶん観たかったのだろうテレビを、私の左眼視力減退を理由に家から取っ払った。そうかどうか必然性の証明はできそうにないが、私はテレビ漬けの洗脳から解放されている。今の私はかれこれ10年以上、テレビ漬けの生活をしていない。中毒性を回避できていると思う。

(別に反応を求めていませんよ)

2025年6月20日金曜日

「教会の外に救いなし」のキプリアヌスの生涯を調べる

私の書斎のキプリアヌスについて書かれた本


【「教会の外に救いなし」のキプリアヌスの生涯を調べる】

手持ち資料を頼りにキプリアヌスについてまだ調べている。あるのは『偉大なる忍耐・書簡抄』日本語版(初版1965年)、F. L. クロス『教父学概説』(1969年)、E. ファーガソン編『初期キリスト教辞典』(1990年)、「聖なるキュプリアヌスの行伝」『殉教者行伝 キリスト教教父著作集22』(1990年)。

西暦200年頃生まれ。誕生日不明。アフリカのカルタゴの比較的裕福な家庭出身。学者として名声を得た後、45歳頃キリスト教入信。私財を売り払って施し、教会の長老になる。48歳か49歳の頃カルタゴの司教に選ばれる。入信からの期間が短すぎたため反対者が多かったが、教会員からの厚い支持を得ていた。

50歳(西暦250年)のとき、ローマ皇帝デキウスがローマ古来の宗教を再興するための政策として大規模なキリスト教迫害開始。自分は目立つ人間だと自覚していたキプリアヌスは、身をさらすと教会員が危険な目に遭うと考えて潜伏。書簡を用いて牧会しようとした。このあたりは評価が分かれそうなところ。

多くの教会員が帝国軍の迫害に堪えられず、数週間で棄教。後日、教会への復帰を求める人たちにキプリアヌスは、最初は厳しい態度を取るが、やがて方向を改める。自分も潜伏したことと態度の軟化が関係あったかどうかはまだ分からない。「逃げちゃだめだ、逃げちゃだめだ」と言える状況だったかどうか。

キプリアヌスは55歳から2年間、異端や分派で洗礼を受けた人が教会復帰する場合には「再洗礼」を授けるべきかどうかでローマ司教ステファノ1世と論争。キプリアヌスは「授けるべき」、ステファノは「授ける必要はない」。論争中ローマ総督に逮捕され、斬首。F. L. クロスによると「258年9月14日」死去。

ここから先は私の想像を多く含む。キプリアヌスにとって洗礼において大事なことは、水そのものの効力でなく、三位一体の神への信仰告白が伴っているかどうか。「偽りの水を恐れるな!」と喝破する線。私はこういう人は嫌いではない。『行伝』に描かれているキプリアヌスの殉教前のやりとりも意志の人。

「なぜなら教会の外に救いはないからである」の一文を含む「第73書簡」は西暦256年の半ばに書かれたものとされる。この内容も「洗礼」の問題。三位一体の神への信仰を伴わない入会儀礼は「洗礼ではない」ので、異端や分派から「教会」に来た人に「洗礼」を授けるべきであるという論理。整合性がある。

キプリアヌスの生涯は実に興味深い。ロドニー・スターク『キリスト教とローマ帝国』(新教出版社、2014年)で取り上げられていた西暦2世紀から3世紀にかけてローマ帝国で大流行した疫病の罹患者への献身的対応とキリスト教宣教の進展との関係の件は、キプリアヌスとの関係が重要であることに気づいた。

2025年6月19日木曜日

キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる

キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)


【キプリアヌスの「教会の外に救いなし」の意味を調べる】

昨日(6月18日)、キプリアヌス『偉大なる忍耐・書簡抄』(創文社)が古書店から届く。第73書簡の「なぜなら教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)の意味を調べたかったが、本『書簡抄』には全81書簡中5、8、52、54、56、57、77の計7書簡しかないことが分かった。

今日(6月19日)、キプリアヌスの「教会の外に救いなし」のテキストをドイツ語版でやっと見つけた。ドイツ語は責任を持てないが、要は「異端の洗礼もどきは洗礼ではないので、異端から教会への入会者に対して洗礼式を執行すべき」という話のようで、現代でも受け入れられているルールのように読める。

キプリアヌス『書簡集』第73書簡21(ドイツ語版)
https://bkv.unifr.ch/de/works/cpl-50/versions/briefe-bkv-8/divisions/421

初見の印象にすぎないが、この箇所にキプリアヌスが「教会の外に救いはないからである」(ドイツ語版 weil es außerhalb der Kirche kein Heil gibt)と書いているときの「教会」(der Kirche)は、父・子・聖霊なる三位一体の神への信仰を共有していない「異端」(der Ketzerei)の対義語である。

そして、この箇所全体(第73書簡21)でキプリアヌスが最も言おうとしていることが「異端から教会に来た方々には洗礼を受けていただかなくてはなりません」(Und darum müssen sich diejenigen taufen lassen, die von der Ketzerei zur Kirche kommen)であることは、ドイツ語が苦手な私でも分かる。

言い換えれば、キプリアヌスは「異端の洗礼の無効性」を語っているだけである。異端にだまされた人々にきっぱり手を切ることをすすめる流れといえる。それと、もしかして当時「教会の外に救いなし」という標語かことわざのようなものがすでにあって、それをひょいと持ち出しただけのような印象もある。

キプリアヌスの意図がかろうじて判明して、私は安堵している。西暦3世紀(200頃-259頃)の人が書いた「教会の外に救いはないからである」(quia salus extra ecclesiam non est)という一言が、文脈から切り離されて独り歩きし、時空のはざまを漂流し、1800年後の我々の心をざわつかせる。いろいろすごい。

2025年6月18日水曜日

まだ始まっていない

 【まだ始まっていない】

1999年に数名と立ち上げたファン・ルーラー研究会は2014年に解散した。オランダ語テキストに基づく研究を続けている方々の消息は不明。ファン・ルーラーは1908年に生まれ、1970年に62歳で亡くなった。我々が研究会を立ち上げた時点で彼のテキストはすべて完結していた、はずだったが、事情が変わった。

1970年12月以降、ファン・ルーラーの蔵書と未公開論文を彼の妻が保管していたが、1990年代にご子女がたがユトレヒト大学図書館と古書店へ譲渡・売却。未公開論文を多く含む『ファン・ルーラー著作集(Verzameld Werk)』の刊行開始が2007年。約10年で完結予定だったが、2025年現在いまだ完結していない。

ファン・ルーラーの「古い」著作集(Theologisch Werk)は全6巻で、出版は1969年から1973年まで。小規模ではないが網羅的でなく、読解において多くの想像力を必要とするものであった。それがどうだ。「新しい」著作集(Verzameld Werk)は超弩級。全7巻だが、分冊が多く、現在11冊。これでまだ続きがあるという。

ファン・ルーラー『神学著作集』(Theologisch Werk)全6巻(1969-1973)

ファン・ルーラー『著作集』(Verzameld Werk)全7巻(2007-現在刊行中)

今書いていることの趣旨は私の釈明である。「まだファン・ルーラー、ファン・ルーラー言っているのか」と私に面と向かって言う人はさすがにいない。しかし、そう思われている節はある。「まだ?いやいや、とんでもない。まだ言っているのか、ではなく、まだ始まっていない」とお答えしたい気持ちである。

しかしファン・ルーラーの「新しい」著作集のおかげで、ファン・ルーラー研究は飛躍的に前進した。想像力で補っていた部分が彼自身の字で説明され、整理されつつある。組織神学・教義学はOSでありプラットフォームなので、それ自体は面白くないかもしれないが、思想の自由空間が飛躍的に広がる。

「新約は旧約の巻末用語小辞典である」「キリストの贖罪は緊急措置であり間奏曲である」「終末においてキリストの受肉は解消される」などの発言で危険視されることも多かったファン・ルーラーだが、「新しい」著作集のおかげで、前後の文脈が解明されて来ている。嫉妬を受けやすい人気の神学者だった。

先週読んだばかりのファン・ルーラーの文章にボンヘッファーに対する敬意ある批判が記されていた。真の成熟は脱宗教ではなく、宗教を持つことこそ成熟であると。言えば言うほど不人気な言葉だっただろうし、その状況は今も変わらない。時代の流行に直角に逆らい、不人気な言葉を語れる勇気の人だったと言える。

私は自分が権威なき者なので、ファン・ルーラーの言葉の陰に隠れて支えてもらおうと考えて来たところがある。しかし、彼の敵があまりに多く、支えてもらうどころか、一緒に苦しむ場面が多かった。プラットフォームは使い倒すに限る。私自身が良い実を結ぶことで、彼の神学の使い勝手を証明するしかなさそうだ。

2025年6月16日月曜日

1890年の信仰告白を初めて読む

 【1890年の信仰告白を初めて読む】

旧日本基督教会の1890年の信仰告白を直視するのは初めて。日本基督教団信仰告白に似ているのだろうと予想していたが違う。気になる言葉遣いもある。なぜ「凡(おおよ)そ」なのか、なぜ「之(これ)」なのか。「之」が指すのは「イエス・キリスト」(之?)でいいのか「完全(まった)き犠牲」なのか。

「聖霊が(原文「は」)我等が魂にイエス・キリストを顕示す」が聖霊の内的証示(testimonium Spiritus sancti internum)を指しているのは分かる。失礼な発想かもしれないが、ひながたは何かを考えてしまう。1890年時点の旧日本基督教会にカール・バルト(1886-1968)の影響はありえない。バルト4歳。

「キリストに於(お)ける信仰」(?)も翻訳調を強く感じる。外部から持ち込まれたひながたの日本語訳だと言ってもらえれば納得するが、日本語としてこれで理解できた人は相当すごい。批判の意味で書いていない。日本基督教団信仰告白にはこの種の謎の要素は見当たらない。日本語としてこなれている。

2025年5月31日土曜日

ファン・ルーラーの予定論ノート(1941年)を読む

 

ファン・ルーラー『著作集』(Verzameld Werk)第4A巻(2011年)


【ファン・ルーラーの予定論ノート(1941年)を読む】

いま続けている日本基督教団信仰告白に基づく教理説教。次回は「神の恵み」。恵みの選びの教理、予定論。ファン・ルーラーの1941年の予定論が『著作集』4a巻(2011年)で世界初公開。オリジナルは全495頁の手書きノート。『著作集』で全250頁(本文184頁+校註66頁)。待望の一冊。それを読んでいる。

1941年といえば太平洋戦争の始まりの年。当時ファン・ルーラーはヒルファーサム教会牧師。ユトレヒト大学神学部教授になるのは1947年。同年、神学博士号請求論文提出。教会の牧師として働きながら博士論文を書き、予定論の巨大なノートを書きためていたことになる。そのノートをいま読むことができる。

ファン・ルーラーの予定論を私の説教にただちに反映できるかどうかは分からない。一方のカイパーとバーフィンクの「新カルヴァン主義」予定論と、他方のバルトの予定論の緊張関係が意識されている点はベルカウワーの予定論と共通している。予定論は私にとって最大の神学的関心事なので慎重でありたい。

余計なことかもしれないが、「予定論」を2、3行の文章で批判し、悪いほうのラベルを貼って片づける人たちが少なからずいる。そんな簡単な話ではないと思うが、その傾向は止まらない。なんとかしなければと長年頭を抱えて来たが、ファン・ルーラーの巨大な予定論を読めるようになったのは良い知らせ。

2025年5月22日木曜日

ファン・ルーラーは「ラテン型」贖罪論を選ぶ

聖書とアンセルムスとアウレンとファン・ルーラーの贖罪論を学んでいる
アンセルムス『クール・デウス・ホモ』岩波文庫版

【ファン・ルーラーは「ラテン型」贖罪論を選ぶ】

ファン・ルーラーの「イエスの苦しみの意味」(1956年)を読む。『著作集』4a巻収録。キリストの苦しみと死による救いは「何からの」救いかについて従来説を7つ挙げ、「答えが多様なのは、教会は飽くことなく問い続ける謎を扱っているからだ」と言う。並の勉強量の人には言えない言葉。公平かつ寛大。

ファン・ルーラー自身はアンセルムスの充足説に感謝すると言っている。それはグスタフ・アウレンの3類型の「古典型」でも「主観型」でもなく「ラテン型」の贖罪論だが、ファン・ルーラーとしては改革派教会信仰告白諸文書が「ラテン型」贖罪論に基づいていることも、それを選ぶ理由の中に挙げている。

罪(zonde ゾンデ)を負い目ないし罪悪感(schuld スフルト)としてとらえるのがファン・ルーラー神学の特徴。新共同訳聖書で主の祈り(マタイ6:12、ルカ11:4)が「負い目」。オランダ語聖書でマタイ6:12はschuld。キリストの贖罪で我々から取り除かれるのはschuldであるとファン・ルーラーは考えた。

キリストの贖罪によって「負い目」(schuld)を取り除かれた我々は 「ふつうの地上の世間の生」(het gewone aardse, wereldse leven)に戻される。より高次元の超自然性は追加されず、負い目を取り除かれるだけなので、新しい一日を白紙の状態から始めようではないかとファン・ルーラーは呼びかける。

グスタフ・アウレンの『勝利者キリスト』(原著1931年)の英語版(1961年)と日本語版(1982年)も読み返している。アウレンはルーテル教会の立場からアンセルムスから改革派教会にうけつがれた「ラテン型」贖罪論を批判。どの立場を選ぶかは最終的には各自に任されているとしか私には言いようがない。

2025年5月16日金曜日

当ブログ「説教」アクセスランキング

当ブログ「説教」アクセスランキングを作りました。「関心を持たれた」というより「心配された」に近そうですし、桜美林大、東京女子大等ビッグネームや、著名な教会に助けていただきましたが、私生活丸出しのほうがアクセスが多いです。応援いただきたくお願いいたします。


第1位 「私は福音を恥としない」

聖書 ローマの信徒への手紙1章16~17節 

日付 2018年3月18日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/03/18.html


第2位 「どうすれば親孝行できるか」

聖書 ルカによる福音書16章27~31節

日付 2018年6月20日(水)

場所 桜美林大学(東京都町田市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/20obirin.html


第3位 「ツルになりたかった牧師」

聖書 コリントの信徒への手紙一1章18~25節

日付 2018年7月22日(日)

場所 日本基督教団王子北教会(東京都北区)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/07/22.html


第4位 「信仰が与えられる」

聖書 ローマの信徒への手紙4章1~12節

日付 2018年6月10日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/10.html


第5位 「どうすれば天国に行けるか」

聖書 ルカによる福音書14章21~24節

日付 2018年6月18日(月)

場所 東京女子大学(東京都杉並区)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/06/18twcu.html


第6位 「大いなる光キリストの誕生」

聖書 ルカによる福音書2章1~14節

日付 2017年12月24日(日)

場所 日本基督教団上総大原教会(千葉県いすみ市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2017/12/24.html


第7位 「敵を愛しなさい」

聖書 マタイによる福音書5章43~48節

日付 2018年8月19日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/08/19.html


第8位 「天国と十字架」

聖書 マタイによる福音書20章1~19節

日付 2018年1月28日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/01/28.html


第9位 「信仰の力」

聖書 ローマの信徒への手紙1章8~15節

日付 2018年2月18日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/02/18.html


第10位 「罪人を招く」

聖書 マタイによる福音書9章9~13節

日付 2018年9月23日(日)

場所 日本基督教団昭島教会(東京都昭島市)

URL https://ysekiguchijp.blogspot.com/2018/09/23.html

(2025年5月16日現在)

2025年5月11日日曜日

聖書と生活

日本基督教団足立梅田教会(東京都足立区梅田5-28-9)


説教 「聖書と生活」

テモテへの手紙二4章1~8節

関口 康

「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです」(2節)

「されば聖書は聖霊によりて、神につき、救ひにつきて、全き知識を我らに与ふる神の言にして、信仰と生活との誤りなき規範なり」(日本基督教団信仰告白)

「日本基督教団信仰告白に基づく教理説教」の2回目です。私は1冊の本を書こうとしているわけではありません。教会ブログで公開しているのは説教原稿です。実際の礼拝では、もっと多くのことをお話ししています。礼拝に来てくださっている方々にご理解いただけば、目標達成です。ご意見があればぜひご来会ください。お待ちしております。

前回から「聖書とは何か」についてお話ししています。ファン・ルーラー(Arnold Albert van Ruler [1908-1970])の文章を参考にしつつ、聖書が「ユダヤ人によって書かれた書物」であることが「外部の真理」であることを意味し、聖書の教えを受け入れることが過去の歩みとは異なる方向への「転換」をもたらし、「回心」をもたらすということをお話ししました。

今日は前回の続きです。今日取り上げるのは「旧新約聖書は、神の霊感によりて成り」という条文です。聖書の霊感(れいかん)の教理と言います。

証拠聖句はテモテへの手紙二3章16節「聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ」です。「霊感」と聞くと「霊感商法」を連想する人が多い時代になりました。しかし「霊感」とはインスパイア(inspire)のことです。名詞形はインスピレーション(inspiration)です。ごく普通の文脈で用いられています。

聖書が「神の霊感によって成った」とは「神の霊」すなわち「聖霊」の導きの下に100パーセント人間によって書かれたことを意味します。それ以外の意味はありません。

「神の霊は、神ご自身ではない」と考えられることもありますが、それは誤解です。神の中から噴き出した気体(?)や、流れ出た液体(?)のようなものを想像するのは間違いです。

次回は三位一体の神について学びます。「神の霊」は「父、子、聖霊なる三位一体の神」としての「聖霊」ですので、端的に「神」(God)です。聖書の霊感の教理も、「聖書は〝聖霊なる神〟の導きによって(人間によって)書かれた」と言っているだけです。

ですから、この教えは決して難しい話ではありません。むしろ、すっきりした気持ちになれるほど、聖書は100パーセント人間によって書かれた書物であると、何の躊躇もなく説明することができます。そこに魔術の要素はありません。

「その説明で大丈夫ですか。我々が今まで教えられてきたことと違うのですが」とお思いの方がおられるでしょうか。「聖書は神さまが書いたものであって、人間が書いたものではない」でしょうか。この「聖書は人間によって書かれたものではない」という考え方は、私は最も危険だと考えています。

ある朝、マタイは目を覚ましました。すると、机の上にイエス・キリストの生涯を描く福音書が置いてありました。パウロも目を覚ましたら、同じように、いろんな教会や個人に宛てた手紙が机の上に置いてありました。しかし、彼らにはそれを書いた記憶がありません。彼らが寝ている間に、意識を失っている間に、聖書のすべてが書かれましたというようなことは起こりませんでした。それはオカルトの世界です。

聖霊なる神は、人間の中で、人間と共に、人間を活かし用いて、働いてくださいます。人間の理性も感情も判断力も、人間の真・善・美も、活かされたままです。聖霊はわたしたちの身代わりに死んでくださることはないし、私たちの身代わりに聖書を書いてくださったりもしません。聖霊が働いてくださっている間、人間は眠っているわけではないし、気絶しているわけでもないし、サボっているわけでもないのです。その点を間違うと、全キリスト教がオカルト化します。

そういうことではなく、聖書の霊感の教理は、(三位一体の)聖霊なる神ご自身が私たち人間に接触し、私たち人間へと影響・感化を及ぼし、浸透し(沁みていき)、私たち人間に感銘・感動を与えてくださる過程を経て「インスパイア」された人間が聖書を記した、と言っています。

しかし、そこでストップです。神は聖書の著者の人間性も歴史性も排除しません。そこでもし人間性の排除が起こるなら、それを「洗脳」というのです。私たちが聖書を読むときに、当時の歴史について調べたり考えたりする必要があるのは、聖書は100パーセント人間が書いた書物だからです。

日本基督教団信仰告白が聖書について書いている「誤りなき規範」の「誤りなき」の意味は、「無謬性」(インフォーリビリティ:Infallibility)のことだと考えるのが妥当です。「無謬性」は「無誤性」(インエランシー:inerrancy)との比較で考えるのが理解しやすいです。

インフォーリビリティ(無謬であること)は「フォール(堕落)していない」という意味です。インエランシーは「エラー(誤記)がない」という意味です。日本基督教団信仰告白が肯定しているのは前者(「聖書は堕落していない」)のほうであって、後者(「聖書は誤記がない」)のほうではありません。

聖書に「誤記」はあります。しかし、「堕落していない」とは「神のみこころにかなっている」ということです。その意味は、聖書に記された言葉を読んで、その教えを信じたとしても、その教えに基づいて生活したとしても、それによって罪を犯すことにはならないので大丈夫です、ということです。

だからこそ、聖書は「信仰と生活の誤りなき規準」なのです。

(2025年5月11日 日本基督教団足立梅田教会 主日礼拝)