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| 説教の準備としてファン・ルーラーを読む |
【『希望の神学』(1964年)出版前の「希望の神学」批判】
次週「終末と希望」と題する説教をするために、ファン・ルーラーの論文をいくつか読んだ。ひとつは「教会はそれ自体で目的でもある」(De kerk is ook doel in zichzelf, 1966)、もうひとつは「聖書の未来待望と地上の視点」(Bijbelse toekomstverwachting en aards perspectief, 1968)。
もうひとつ「ファン・セルムス教授への応答」(Antwoord aan professor Van Selms, 1958)も読んだが、これは終末論というより予定論の議論。刺激的だったが、次週の説教とは直接関係ない。内容について書くと説教で話すことが無くなるので、それはお楽しみ。興味をひかれたのは、今回読んだ版の特質。
「教会はそれ自体で…」は論文集『待望と成就』(Verwachting en voltooiing, 1978)、また「聖書の未来待望と…」は『神学論文集』第2巻(Theologisch werk Deel 2, 1971)に収録され、私も遅くとも1998年までには所有していた。しかし、オランダ語力に欠け、読んだとは言えない状態で放置していた。
本日読んだのは、2007年刊行開始の『ファン・ルーラー著作集』(Verzameld Werk)に収録された版。驚いたのは、「教会はそれ自体で…」の既出版はファン・ルーラーがドイツ語で発表したものを別の人がオランダ語に訳したものだったこと。「聖書の未来待望と…」は著者の死後、別の人が手を加えた形跡があること。
「別の人」と言っても、前者は友人牧師、後者はファン・ルーラーの妻の可能性が高いので、さほど不自然な話ではない。後者の妻は、1970年に62歳で突然亡くなった夫が未整理のまま遺した大量の論文をかき集めて、全6巻の『神学論文集』(Theologisch werk)のうち第1巻を除く5巻分の編集を担当した人。
新しい『著作集』(Verzameld Werk)には、「教会はそれ自体で...」はファン・ルーラー自身がドイツ語に訳す前に書いたオランダ語のオリジナルテキスト、また「聖書の未来待望と...」は(おそらく編集者によって)えんぴつで書き込まれた〝改変〟を排したオリジナルテキストが、それぞれ収録されている。
内容には触れないが、ほんの少しだけ。「教会はそれ自体で目的でもある」(1966年)がなぜ最初ドイツ語で発表されたかと関係ある。初出は1960年12月8日にボンでモルトマンの弟子たちを対象に行った講演。『希望の神学』(1964年)が出版される前に「希望の神学」を批判するためにドイツに乗り込んだ。
ファン・ルーラーを読むのは楽しいが、個人的な趣味に過ぎないと思われているかぎり、没頭しきれない。商売はごく初期の頃に研究費捻出のために検討したが、今は全く考えていない。ポイント稼ぎをする立場にもない。しかし、ファン・ルーラーの「遺言」が利いてくる状況にすでにあるし、強まっている。
