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| 「東京スカイツリーが見える」と言いたがっている 2024年10月24日撮影 |
【教会が好きなので教会が嫌いになりそうになる】
日本で創立以来100年越えのプロテスタント教会が少ないとも言えなくなってきた昨今の状況はうれしいかぎり。しかし、「歴史的建造物だから」「我々の『格』ならこれくらいは」などの理由で数百名収容可能規模の礼拝堂を維持しているものの、空席が目立つ「さびしい」礼拝の教会の苦しさは、私なりに理解している。
苦しみを感じている個人や集団についての言説に必要なのはデリカシー。また、私個人は現時点で「数百名収容可能規模の礼拝堂を維持している教会」の牧師ではないが、教団・教区・支分区などのつながりがあるため「部外者」とも言いがたい立ち位置にいるので、ずけずけ言うつもりはない。
逆転発想と言えるほど逆ではないが、最近よく考えるのは、どれほど広い礼拝堂で空席が目立つような気がするとしても、果たしてそれは「空席」なのかと、その教会自身が自問自答することが大切かもしれないということ。古めかしい横長のベンチにぎゅうぎゅう詰めで座りたいと思う人は、もういないだろう。
それと、「数百名収容可能規模の礼拝堂を維持している教会」の牧師がたが、教団・教区・支分区や対外的な仕事で忙しいからか、原稿なしのアドリブトークライブかと思える、ずいぶん雑駁な説教をしておられる気がして心配している。説教準備しかすることがない牧師の説教のほうが聞きごたえがある場合があると思う。
足を引っ張る意図は無い。日本のキリスト教宣教の進展だけが私の願い。1990年春、日本基督教団東中国教区の常置員会だったかで補教師受験資格にかかわる面接を受けたとき「日本の」を言うと「アジアの視点が欠落している」と私を非難したどなたか(不明)の言葉を忘れたことは無い。私が気に入らなかったらしい。
昨日出席した会合で初めて知った。教団総会に出された重要な議案が「時間切れ審議未了廃案」になることを願った人たちが総会閉会時刻直前に「カウントダウン」をして提案者を侮辱したという話。私が教団を離れていた間(1997年1月から2015年12月まで)らしい。私は詫びる立場にないが、申し訳なく思う。
