2025年8月18日月曜日

博士の従者ではない

キリスト教歴史資料室(牧師館内) 2024年10月24日撮影

【博士の従者ではない】

宗教法人うんぬんの話ではないし、教団・教派の「構造」の話に近いが同じではない。自分の属するグループのようなものがあり、その中に博士(Th. D.)の学位を持つ神学者がいて、その人の判断がグループを拘束するほどの力を持っていれば、自分で考えなくて済む教師(牧師)が増えて、私なども助かる。

そういう「構造」になっていない場合や、そもそも何のグループにも属していない教師(牧師)たちは、すべてを自分で考えなくてはならない。あえて大げさに言うが、キリスト教史2000年分をカバーするだけの規模の本の自己所有が必要。それができない場合は、だれかのコピー、または従属関係に置かれる。

極端な言い方なのは自覚している。買って持っているというだけで1ページすら読めていない本がかなりあることを隠すつもりはない。すべての教師(牧師)がTh. D.である必要は当然ない。自分で考え、自分で判断できる自由を得るためのコストはけっこう重いということを認識してもらいたくて書いている。

今これを書きながら福沢諭吉さんの『学問のすゝめ』を思い出していることも隠さないでおく。基本的なことは何でも自分でできるようになるために学問がある、自分にできないことがあってそれを学ぶ気がなければ誰かに従属する立場に置かれざるをえない、というわけだろう。教師(牧師)も同じだと思う。