おっしゃりたいことの趣旨が全く理解できないとも思わないのですが、「組織神学」の意義ってその程度のものなのかなあ、とことん落ちぶれたもんだなあ、まあいいけど、と思った次第です。
この件のぼくの問題意識は「アンチ神学」の問題と直接関係しています。「そもそも神学は学問なのか」(学問ではないのではないか)という誹謗をどうかわすかの問題は横に置いといて、学問の本質を「批判」に見いだすことの正当性を十分評価しつつも、「批判だけなのか」という問いが、ぼくにはあります。
「混せず、変せず、分かたれず、離れず」のようにすべてを否定形で提示する神学のプレゼン方法も、あるといえばあります。「我々は保守ではなく、リベラルでもなく、日和見でもない。ならば我々は何か。保守でもなく、リベラルでも日和見でもない者である。」 ただの同語反復ですが、すべてを「否」で自己紹介する。
「否」ではなく、打ち消しの言葉ではなく、「我々はこれである」とポジティヴに自己紹介することがもっとできないものだろうかと、ぼくはしばしば考えこんでいます。
これはどこかに前にも書いたことがありますが、いくつかの教団・教派の神学書を並べて読むと、面白いことに気づかされます。改革派の(古い)本には、「我々は一方のカトリックの極端と、他方の再洗礼派の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」という旨、書かれていることがあります。
ルーテル教会の(古い)本には「我々は一方のカトリックの極端と、他方のカルヴァン主義の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」と書かれています。「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンは、Aの人とBの人への当てこすりが必ず含まれているので、だいたいハナからケンカ腰の論述です。
「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンの方法を好んで採用してきた時代の「組織神学」は、嫌われて当たり前です。学問というよりプロパガンダだ、と思われても仕方ないです。Google Earthが出る前の、紙の世界地図のように、自国を中心に描いて「世界の中心」を示しているだけです。
「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼン方法を採用したがる組織神学には、ヘーゲルの弁証法の影響を受けた時代の教会と神学から受け継いだ要素があるはずです。なにせ「正・反・合」ですからね。「我々はAの極端の弱点と、Bの極端の弱点の両方を克服した、最強の教団だ」と言いたいのです。
しかし、それってどうなんでしょうかと、今さらながら考え込んでしまうのです。他者(とりわけキリスト教界「内部」の他者)との比較においてのみ自分の優位性を主張できると思い込んでいるタイプの神学を持つ教団・教派。なんとなく見苦しいし、みっともない。なんで比較なんだろうと思ってしまいます。
「宗教学」は正確には「比較宗教学」(comparative religion)だと昔習いました。「我々はAでもないし、Bでもない」と比較と否定で自己提示する教義学は、いわば「比較教義学」(comparative Dogmatics)です。この表現はすでに用いられているようです。
それで、ぼくが言いたいことは何かといえば、今書いている意味での「比較教義学」は、どれほど緻密な研究や論述に支えられているとしても、「それは学問の衣を着たプロパガンダである」という批判に耐えられないのではないか、ということです。
「バトルモードでなければ文章を書くことができない(そうでなければ勢いがつかない)」という人は、牧師や神学者の中には多い気がするのですが(ぼくもそうかも)、「同じ趣旨のことをノーマルモードで書いてみませんか」と言いたくなることがあります。ケンカ腰の言葉ではなく、ポジティヴな言葉で。
人のやっていることにケチつけているときはものすごく饒舌である。しかし、「自分のやっていることをポジティヴに紹介してみなさい」と言われると、ほとんど何も言えなくなってしまう、というような状態では寂しいかぎりです。何かのアンチだけで生きているような人たちの結末は、寂しいものです。
「比較教義学」などは全く無価値であると言いたいのではありません。しかしそのような提示方法は、むしろ教理史のほうに近いものなのですから、「組織神学」というより「歴史神学」のカテゴリーです。「組織神学」と「歴史神学」は対立関係にはありませんが、それぞれ固有の役割がある別々の部門です。
そして「組織神学」は、ぼくの考えでは、もっと穏やかな学問です。自分の立場をポジティヴな言葉で精密に紹介することに向いている学問です。暗闇でナイフを振り回して、だれかれなく自分以外のすべての人に無差別に切りかかるようなやり方は「組織神学」にふさわしくありません。