2013年10月20日日曜日

今こそキリストの慰めが必要です

ローマの信徒への手紙8・11

「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」

今日は秋の特別集会です。松戸小金原教会の礼拝あるいは集会に今日初めて出席してくださった方、また久しぶりの方を心より歓迎いたします。これからもどうかよろしくお願いいたします。

今年の特別集会のテーマは「終活について考えてみませんか」としました。今日みなさんに考えていただきたいと願っていることは、わたしたちの人生の締めくくり方をどうするかということです。もっとありていに言いますと、わたしたちの死と葬儀をどうするかです。今日は特別集会ですので、いつもより少し長めにお話しいたします。

しかし、「どうするか」と問われてもお困りになる方は多いだろうと思います。わたしたちにとって動かしがたい厳粛な事実があります。それは、わたしたちの死と葬儀はわたしたち自身がどうすることもできないことである、ということです。

自分の人生の終わりの日がいつなのかを知っている人はいません。また、自分の葬儀を自分で行うことができる人はいません。だからこそ、「どうするか」と問われても困る、答えようがない、と感じるのは、当然のことです。

そういうわけですから、どうかみなさんは、自分自身の死と葬儀について、あまりにも深刻に考えすぎないでいただきたいと私は願っています。どれだけ考えてもすんなり答えが出るようなことではありません。多くの部分を他人任せにしてくださって構いません。自分だけで答えを出そうとしないでください。周りの人たちとよく相談してください。

しかし、そのように私が言いますと、それはそれで、みなさんのうち多くの方は、なんとなく不安な顔になります。本当にそれでいいのだろうか、自分にも少しくらいは責任があるのではないだろうかとお考えになるようです。そのことも、ある意味で健全な考え方だと思います。

ですから、今日は具体的な詳しいことについては、今日の午後、「葬儀・遺言セミナー」を行うことにしました。午後のセミナーにもどうかご出席くださいますようお願いいたします。

これも動かしがたい厳粛な事実ですが、はっきりしていることは、わたしたちの人生は永遠に続くものではないということです。それは、みなさんをがっかりさせてしまうかもしれないことです。わたしたちの体と心の健康は、永久に保たれるものではありません。10年くらい前はできていたことが、今はできなくなりました。活動範囲がだんだん狭くなってきました。終わりの日は近づいています。それはそれで、本当に寂しいことです。

しかし、それはみんな同じです。こんなことを言っても何の慰めにもなりませんが。みんな同じです。だれかひとりは永遠に生きているが、他のすべての人はそうではないということであれば、不公平を嘆いてもよいと思いますが、そうではありません。すべての人が終わりの日を迎えるのです。そして、何らかの形で葬儀が行われる。だからこそ、終活は万人に共通のテーマなのです。

しかしまた、扱い方が難しいテーマであることは間違いありません。「あなたは死にます。早く葬儀の準備をしましょう。葬儀の会場はどうしましょう。お墓はこうしましょう」と矢継ぎ早に言われるとだんだん腹が立ってきます。死と葬儀は万人に共通のテーマであり、重要なテーマです。しかし、無神経な取り上げ方ではまずいと思っています。

私は松戸小金原教会の牧師にしていただいて、来年3月でちょうど10年になります。数をかぞえるようなことは意識的に避けてきたことなので、このたび調べて初めて分かったことですが、この10年間で私が葬儀の司式をさせていただいたのは11名の方々であるということが分かりました。その中には教会員以外の方も含まれています。

この方々にはそれぞれ家族がおられ、今も寂しい思いを味わっておられます。もっと長く、もっと元気に生きてくれていれば、と無念の思いを抱えておられます。今日ご出席くださっているその方々の前で、このテーマを無神経な仕方で取り上げるようなことはすべきではありません。

11名の方々の葬儀を、私は心をこめて執り行わせていただいたつもりです。いろんな点で行き届かなかったことがあったと思います。申し訳ありませんでした。どうかお許しください。しかし、どの方のときにも「本当に良い葬儀でした」と言っていただくことができました。私が言わないほうがよいことかもしれませんが、教会で行う葬儀、キリスト教に基づく葬儀は、本当に良いものです。すべての方に喜んでいただくことができました。

しかし、ここから先に申し上げることについて、私自身が「反省」という言葉を使うと、かえっておかしなことになるのですが、ときどき考えこんでしまうことがあります。それは何かと言いますと、私の両親がまだ(まだ?)健在であるということです。

両親は岡山県岡山市に住んでいます。私と喧嘩しているわけではないのですが、3年も会うことができていません。両親とも現在80歳を超えています。しかし、その両親がまだ(まだ?)生きています。もしかしたら、私はまだ(まだ?)十分な意味で死の恐怖や別れの寂しさを知らないのかもしれません。なぜなら、私は自分の肉親との死別ということを実際に経験したことがないからです。

何年くらい前のことかは忘れました。実家の母から電話がありました。父が病気で入院したという知らせでした。そのときの私が、自分でも驚くほど激しく狼狽したことを忘れることができません。

よく覚えていることは、その知らせを聞いた日、小金原六丁目のバス停で北小金行きのバスを待っていたとき、そこに立っていた男性の後ろ姿が私の父に似ていることに気づいたとき、立っていられなくなり、座り込んでしまいました。ふだんは遠くにいて、ほとんど忘れているような関係なのですが、そのときは自分でも何が起こったのか分からないほどの狼狽ぶりでした。

その後、父の手術は成功しましたので、ご心配いただくには及びません。しかし、私はまだ牧師として未熟な者であることを痛感しています。それを言葉にするととてもおかしなことになってしまうのですが、われわれ牧師は、自分の親が死ななければ本当の牧師にはなれないのかもしれません。

いま私は全くおかしな話をしているという自覚があります。親に死んでもらう話になっています。しかし、ある意味でそういうことも言わなくてはならないことかもしれません。いま申し上げていることは、わたしたちが死ぬことにも、それはそれで何らかの意味があるのではないかということです。

命は受け渡していくものです。自分の命は尽き果てても、この命を受け継いで生きていく次の世代の人たちがいます。それは必ずしも自分の血と肉を分けた子どもに限った話でもありません。大人は子どもにいろんなことを教えます。教えることも、広い意味では命を受け継ぐことです。

どうか、いま私が冷たいことを言っているというふうには受けとらないでほしいのです。しかし、皆さんに考えていただきたいことがあります。それは、わたしたちが受け継ぐべき命とは何なのかということです。

今日は教会員でない方も出席してくださっていますので、狭い意味でのキリスト教の話だけをしないほうがよいかもしれません。しかし、そのような話をすることもちょっとだけ許してください。

それは、「命を受け継ぐ」と言う場合、教会は具体的に何を考えているのかということです。ずばり結論を言います。それは信仰です。神を信じる信仰であり、救い主イエス・キリストを信じる信仰です。その信仰を受け継ぐのです。それが、わたしたちにとっては命を受け継ぐことなのです。

なぜそういう結論になるのかということも少しだけお話ししておきます。わたしたちの教会の信仰によりますと、わたしたちの命は神によって造られたものです。もちろんわたしたちは親から生まれた存在でもありますが、わたしたちの親も、その親から生まれた存在です。そして、その親も、またその親から生まれた存在でもある。この話はどんどん昔にさかのぼっていくことになります。

それでは、最初の人間の親はだれでしょうか。猿だという人もいます。そのことをいま私はただちに否定するつもりはありません。いろいろな考え方があります。しかし仮に猿であるとしても、その猿にも親がいたでしょうし、その親もさらにその親から生まれた存在であることは間違いありません。この話もどんどん昔にさかのぼっていきます。

それでは最初の命はだれが生んだのでしょうか。どんな人も否定できないことは、命を生み出したのは人間ではないということです。それではだれなのでしょうか。その存在をわたしたちは「神」とお呼びします。神がわたしたちの命をお造りになったのです。そのようにわたしたちは信じています。

しかし、それはわたしたちが信じるべきことです。わたしたちの命をお造りになったのは神であるということは、わたしたちの信仰です。それは「信仰にすぎない」という言い方さえできることです。信じない、あるいは信じることができないという可能性も、わたしたちには残されています。

しかしまた、それでは、もしわたしたちがそのことを信じないとしたら、それではわたしたちの命は誰が造ったものなのでしょうかという点は疑問のままです。分かりませんと言って済ませることもできるかもしれませんし、そのようにしている人も現にいます。

しかし、神が造ってくださったのではない、誰だか何だか分からない存在が生みだした命というものをわたしたちが受け継いでいるということになりますと、わたしたちの心は不安だらけです。ある人は、自分は悪魔の命を受け継いでいると信じ込んでいるかもしれませんし、他の人は、自分は猿の命を受け継いでいると考えているかもしれません。

そこで起こる問題があります。それは、わたしたちがそのような得体の知れない命、不気味な命を受け継いでいるかもしれないというようなことを考えている場合、わたしたちはそのような命をどこまで大切にすることができるだろうかという問題です。

もちろん、人によって違うかもしれません。しかし、わたしたちが知っていることは、わたしたちの命は、よくよく大切にしなければ、守り抜くことができないものであるということです。ぞんざいに扱ったり乱暴を働いたりすると、たちまちにして失われてしまう、そのような弱さをわたしたちの命は持っているのです。

「神を信じていない人たちは自分の命を粗末にしています」とか、「そのような人たちは他人の命を平気で傷つけます」というようなことを言いたいのではありません。そのようなひどいことは考えてはならないし、言ってもいけません。それは事実に反することです。

しかし、わたしたちの命は、ただ粗末にしなければよいとか、傷つけないようにしなければよいというようなことだけでは、足りません。もっと積極的に「しっかりと守る」とか「命がけで命を守る」というような面がなければ守りきることができないほど、わたしたちの命は弱いものです。「死んでいない状態」を「生きている」と呼ぶだけでは足りないのです。わたしたちの命は、外側からたくさんの命を注ぎ込むことによって、豊かに育み、守り抜いていくことが求められるのです。

そしてまた、もう一つ大事な点は、わたしたち人間には心があるということです。そして、その心の中でわたしたちは繰り返し、自分の人生の意味は何なのかということを、考えこんでしまいます。意味のない人生を我慢することは、わたしたちには難しいことです。

人生の意味など全く考えたこともないという人がおられるかもしれませんが、それはまだ元気な証拠です。私の命はだれからも必要とされていない不要な存在ではないか。私がこれ以上生きている意味はないのではないかというようなことを繰り返し考え始めるときは、わたしたちの人生に必ず訪れるものなのです。

神を信じる信仰が必要になるのは、まさにそのときです。

もしかしたら、そのときにはもう自分を生んだ親はいないかもしれません。親が生きているときならば、「お父さんお母さんは、どうして私を産もうと思ったの?」と尋ねることができるかもしれませんが、その問いを投げかける相手はいない。自分の子どもや友達に聞いても答えが返ってくるはずがない。そのようなとき、私の命は神が造ってくださった命であり、良い命であり、神が必要としてくださった命であるということを信じることができれば、わたしたちが生きていることの意味を見失わないでいることができるようになるのです。

なんだか理屈っぽい話になってしまっているかもしれませんが、私の申し上げたいことは単純なことです。わたしたちが生きていくためには、生きていることの意味が必要だということです。また、あなたは生きてよいと認めてもらうことが必要だということです。それをはっきりと知っている人は、もしかしたらどこにもいないのかもしれませんが、それでもとにかく、そのことを考え続けてしまうわたしたちがいます。その問いに対して答えを与えてくれるのが信仰だということです。

先ほど私が、「わたしたちにとって、命を受け継ぐこととは信仰を受け継ぐことを意味する」と申し上げたのは、そのような意味です。神を信じる信仰が、わたしたちの命をしっかりと支える力になるのです。その支えがなければ、わたしたちは生きていくことの意味を見失ってしまうほどなのです。生きることの意味を見失ってしまうと、わたしたちは本当に生きていくことができなくなってしまうのです。それは、わたしたち人間には心があるからです。

心など無ければよいのに、とお感じになるでしょうか。考えることをやめれば、悩みも無くなる、とお思いでしょうか。それは違います。悩んだり疑ったりしながら生きていくのが人生です。

神を信じる人の心の中に、神は豊かな命を注ぎ込んでくださいます。最初にお読みしました聖書のみことばには、神が死者の中からイエス・キリストを復活させたこと、そして、その神の霊があなたがたに宿っているならば、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださるということが、記されています。イエス・キリストを復活させた方(神)を信じる信仰がわたしたちの命を支える力になります。わたしたちの人生に力と意味を与えます。

それでもわたしたちの地上の人生はいつか終わりの日を迎えるのですが、失意の中で、絶望の中で、挫折感と悲壮感の中で息絶える、というのとは根本的に違う、喜びと希望に満ちた最後の日を迎えることができる。そのことが、聖書に約束されています。

本当にそうかどうかは、これはもう信仰生活ということを実際に始めていただくしかありません。この教会に通っている方々の姿を見てくださいと申し上げるしかありません。キリストを復活させた方の力によって、わたしたちは立っています。そして、よみがえられたキリストは、今も生きておられます。生きておられるキリストからの慰めをいただきながら、わたしたちは立っています。

神を信じることをまだ始めておられない方は、今日信じてください。今から始めてください。遅くはありません。神を信じることが、終活です。わたしたちの人生の締めくくりの準備です。そのことを今日どうか受け入れていただきたいと願っています。

(2013年10月20日、松戸小金原教会 秋の特別集会)