いま手元にあるのは、一昨年2011年に刊行されたばかりの『ファン・ルーラー著作集(Verzameld Werk)第四巻 下(Deel IV-B)』です。下巻だけで825ページもある、まるでお化けのような本です。この巻の目次の紹介くらいなら、疲れていてもなんとかできそうです。
『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』には次の論稿が収録されています。
「福音の愚かさ」
「神学概念としての『実現』」
「福音とニヒリズム」
「救いのプロセスにおける人間の役割」
「救いがあるということ」
「救いの実現における多様性と矛盾」
「義認について」
「義認論講義」
「信仰の本質」
「信仰の教理史的考察」
「赦し」
「回心と再生」
「再生について」
「創造と再生」
「和音を解せないロバのように」
「パワフルなのかアクティヴなのか」
「召命論講義」
「ハイデルベルク信仰問答 第86問答」
「道徳は部分的なものではあっても星座のようなものではない」
「研究と模倣」
「禁欲」
「美徳の賛歌」
「福音としての隣人」
「正義と義認」
「正義の起源」
「教会と神学における神体験」
「説教と個人の信仰生活」
「神体験、その神学的探求」
「説教における神体験」
「体験主義の光と影」
「確かさ、内省、しるし」
「神体験のいくつかのパターン」
「神体験」
「内面生活における学び」
「ウルトラ改革派とリベラル派」
「神秘主義と宗教」
以上が『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』に収録されているファン・ルーラーの論稿のタイトルです。
たぶんすぐお気づきになることは、「神体験」とか「体験主義」とか「神秘主義」というタイトルの多さです。
私がファン・ルーラーが用いている言葉を「神体験」とか「体験主義」と訳しているわけですが、暫定的にそうしているだけです。翻訳が難しい言葉です。「神体験」はbevinding、「体験主義」はbevindelijkheidです。これはオランダ改革派教会内部に17世紀に発生した流れです。
ファン・ルーラーのbevindingを「神体験」と訳すことについて、彼の英語版論文集(J, ボルト訳、全一巻)ではexperienceと訳されていますので、体験も経験も誤訳ではないでしょう。しかし誤訳の指摘を恐れることより重要なことは、その訳で読者が意味を理解できるかどうかです。
オランダ改革派教会に17世紀に発生した「体験主義」(bevindelijkheid)の流れは、16世紀宗教改革への批判や対立の意図はないものの、修正や補完の意図はありました。20世紀の教会史家はそれをオランダの「第二次宗教改革」(Nadere Reformatie)と呼びました。
ファン・ルーラーが扱ったテーマに神体験(bevinding)や体験主義(bevindelijkheid)というのが多い理由は、彼の出自にあります。彼の出身地アペルドールンは「体験主義」の流れをくむ改革派信仰の影響が強い地域なのです。彼もそれを世襲的に、しかし批判的に継承しました。