「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
今日の個所にパウロが描いていることは、一言でいえば、彼自身の心の中での葛藤であると考えることができます。何度も繰り返されているのは「わたし」という言葉です。この「わたし」に抽象的な意味はなく、具体的なパウロ自身のことであると考えるのが自然です。パウロは自分の心をじっと見つめているのです。そして、その中にあるのは何なのかを、ありのままに描いているのです。
パウロが自分の心の中に見つけたものは大きく分けると二つです。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。それが「ある」と言っています。
パウロは、善いことをしたいと願っているのです。悪いことをしたいと願っているわけではないのです。善いことをしたいのです。しかし、「それを実行できない」(18節)というのです。「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」(15節)と書いています。「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)とも書いています。
だから彼は「わたしは、自分のしていることが分かりません」(15節)という結論にたどり着きます。心と体がちぐはぐで、ばらばらの状態であることを、正直に告白しています。
そして、だからこそパウロは、自分の心の中に見いだすもう一つは「罪」であると言っているのです。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(17節)。
しかしこれは、考えれば考えるほど問題に満ちた発言であることは間違いありません。なぜ問題に満ちているのでしょうか。罪を犯して誰かを傷つけてしまった人が「この罪は私が犯したのではなく、私の中に住んでいる罪が罪を犯したのである」と言ったとしても、そのような言い訳を誰が理解し、受け容れてくれるだろうかということを考えてみれば、この発言のどこに問題があるかをご理解いただけると思います。「私ではなく、私の中の罪が罪を犯したのだ」などと言おうものなら、「何をわけの分からないことを言っているのか。あなたがやったんだろう」と言われるだけでしょう。支離滅裂の苦しい弁明でしかないと言われても仕方がありません。
しかし、そのことはパウロ自身もよく分かっています。自分が支離滅裂なことを書いているということをはっきり自覚しています。だからこそ彼は、とても苦しんでいます。深く激しく葛藤しています。しかし、自分が書いていることがめちゃくちゃであることをはっきり自覚したうえで、それでも彼が声を大にして主張したいと願っているに違いないことは、このわたしの心の中に「善をなそうという意志」はあるのだ、あるのだ、ということです。
彼は善いことをしたいのであって、罪を犯したいわけではないのです。罪を犯せばどういうことになるのかを知っているからです。それは、死ぬということです。罪の支払う報酬は死です。罪の先に待っているのは、地獄の恐怖と苦しみです。罪を犯して、まんまと大金をせしめた、人を出し抜いた。それで幸せになる人はいないのです。
そのことをパウロは、律法を通して学んできました。律法とは聖書です。罪を犯してはいけないということは、パウロにとっては聖書を通して子どもの頃から教えられてきたことでもあります。彼は聖書のみことばを専門的に研究してきた人でもあり、人に教える立場にあった人でもあります。
しかし、そのことと、彼自身が罪を犯してしまう弱さや欠けを持っているということとは別問題であると、彼は自覚しています。聖書のみことばをよく学び、よく知っていることと、聖書のみことばを生きることとは、必ずしも一致しないのです。
どちらのほうが大切かという議論を、私自身はパウロの中に見たことはありません。そういうことは考えない人だったのではないかと思っています。わたしたちが考えれば、だいたいのところ、聖書を一生懸命勉強するばかりで行いが伴わない人になるよりも、聖書の勉強はそこそこにして、そんなことよりも罪を犯さない正しい生き方を貫く人になるほうが善いに決まっている、というような結論に至るのではないかと思います。しかし、パウロにはそういうたぐいの議論に積極的に乗ろうとする様子は見られません。聖書を勉強することは大事なことです。知識があることは悪いことではありません。
そして、今日の個所にパウロが書いていることは、最初に申し上げたとおりパウロ自身の心の中での葛藤を描いたものであると考えることができますが、しかしそれは彼だけの話ではなく、すべての人に当てはまることであると彼が考えていることも明らかです。聖書を勉強するかしないかという問題は、その人が罪を犯すか犯さないかということと、必ずしもぴったり結びつかない面があります。そうであるならば、聖書を勉強すること自体は罪ではないのです。
そのことをパウロは述べています。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない」(13節)。「善いもの」とは律法であり、聖書です。聖書を学ぶことは罪なのか、そんなことはありえないと言っているのです。
しかしまた、そのパウロは、聖書をよく学んでいる人と聖書を学んでいない人の違いを知っています。それは、「これが神の御心である。これが正しい生き方である」ということを聖書を通して知らされていればいるほど、その善悪の基準と自分自身の姿を照らし合わせてみると、自分はいかにその基準から遠い生き方をしているかを知っているか、知らないかの違いであるということです。短く言えば、自分の中に罪があることについて、葛藤したことがあるか、したことがないか、の違いです。
だから、教会に来ると苦しくなる、という人がいるかもしれないとしても、それはある意味で当然のことでもあるのです。それは、わたしたちが病院に行って、医師の目で診てもらって、「ここに病気がある」と指摘されると、自分がまだ自覚していなかったところまで知ってしまってがっかりすることがあるのと似ています。レントゲンや超音波で調べられると人間の目では見えないところまで見えてしまいます。
だから病院には行かないという選択肢も、わたしたちにはありうると思います。すべてが見えてもそのすべてを治せるわけではないからです。ある意味で、という断り書きを付けておきますが、「ここに病気がある」ということをはっきりと自覚したうえで、その病気とうまく付き合いながら生きていくということも、わたしたちにはありうると思うのです。切って開いてそれを取り除くことができる病気と、できない病気があるからです。
それでは罪の場合はどうなのか、ということを、よく考えてみなければなりません。聖書を学ぶと「ここに罪がある」とはっきり自覚させられる面があります。それは「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです」(13節)とパウロが書いているとおりです。しかし、それでは「ここに罪がある」と指摘された人は、その罪をただちに取り除くことができるのかというと、そうではないとパウロは言っているのです。
「わたしではなく、わたしの中に住んでいる罪」が罪を犯しているのだ、と彼が言っていることの意図は、このわたし自身と、「わたしの中に住んでいる罪」とは別々のものではあるのだけれども(なぜなら、このわたしの中に「善をなそうという意志」はあるのだから)、しかし、両者はからみあい、混ざり合っているので、どこからは自分で、どこからは罪なのかを区別できないほどの状態になっているのだ。だから、それは完全に取り除くことはできないのだ、ということです。
「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(21節以下)とパウロは書いています。これもみな同じことの繰り返しです。善人としての自分と、悪人としての自分との区別がつかない。切り離すことができない。まるで多重人格者のようだ。
これは、わたしたちにとって慰めになることでしょうか、それともがっかりするばかりでしょうか。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と、まるで絶望の叫びのようなことまで書いています。
しかし、彼は絶望していません。むしろ希望に満ちています。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)と、感謝の言葉さえ述べています。
パウロは絶望してはいません。なぜでしょうか。彼にとって救いとは、自分の中の罪の部分が完全に取り除かれることを意味していないからです。
救われるとは、完璧に清い人間になることではありません。むしろ、自分には救い主が必要であると自覚し、その救い主に助けてもらうことが救いです。自分の力で何とかしろ、すべては自己責任であるとは言っていません。自分には助けが必要である、それほどに弱い人間であると自覚し、助けてもらうことが救いです。パウロはそのことを言いたいのです。
(2013年10月6日、松戸小金原教会主日礼拝)