2013年10月3日木曜日

日記「トンバルデンィヴの『論概學哲』にプチ興奮しています」


学生時代に購入し、読まずに放置していた岩波文庫をパソコンで拡大して読んだら、けっこう面白い内容であることが分かり、プチ興奮しているところです。

トンバルデンィヴの『論概學哲』の部一第(と表紙に書いているのだ)です。初版が1936年(昭和11年)の岩波文庫版です。速水敬二、高桑純夫、山本光雄訳です。

以下、「序論」の中から引用します。ただし、漢字や仮名を新しくしたり、文章表現を現代的なものに変えました。また、読みやすく改行を多くしたり、句読点の位置や数を変えたりしました。

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ヴィンデルバント『哲学概論』序論より

事実、この意味で難解なのは哲学ではなくて、学校臭味を洗い落して周囲の生きた思索と自由に接触し得ないような、どこか欠陥のある著者としての哲学者たちであろう。

彼らの晦渋も、ある意味では言い逃れの立たぬものではない。彼らが、それ自体としては断じて抗議される言われのない権利や要求をしばしば用いすぎたのは確かである。

言うまでもなく、学的に形成された概念を日常生活の不正確な表現や俗語から区別するために、それに独自の名称を与え、これによってできるだけ混同や乱用を防ぐことは、場合によっては必要である。

そしてこの目的のためには、経験が教えるように、また心理学で容易に説明しうるごとく、死語から取られた外来語が最も適している。けだし、これらの語は、何か独立なかつ自分のうちに固定したものとして、現代の言葉の流れから明瞭に区別されるからである。

我々はかかる術語をつくることを科学者、解剖学者、生物学者等々には常に何の躊躇もなく許している。しかるに、このことは哲学者にはとかく禁じられがちで、哲学者がこの権利を用いすぎれば、快くは思われない。

このことは哲学から見れば不都合ではあるが、善く考えれば気持ちの悪いことではない。なぜというに、哲学者の取り扱う事物が誰にでも関係をもち、従ってまた誰もが近づきうるものであり、またそうならなくてはならないし、このためにはまた誰にでもただちに理解される言葉で言い表されなくてはならぬ、という考えがそこに現れているからである。

ただし、この考えは全く正しいものとは言えない。むしろ哲学に対してこそ、まさにそれが常識になじまれた事物を取り扱うという理由で、この考えを与えられたままの粗雑、不正確から学問上使用できる概念にまで改造するという全く特別な課題が存するのである。

ゆえに哲学にとっては、自らの労作の成果に哲学製というスタンプを押すことは常に権利であり義務であろう。ただし哲学概論にはこの実際上通用していない術語への手引きという課題が同時に生じてくる。

ところで、術語の最も深い音色は、それの根底をなすモチーフを生ぜしめた問題を熟考してのみ始めて理解される。ゆえにこの概論においてぜひなされるべきは、この問題やそれの学的取り扱いに精通することこれである。

ただし、これがためには特別な前提や才能は必要でなく、ただ根気強い自己訓練と真面目な思索があればよい。そしていかなる場合にも一つのこと、すなわちあらゆる先入見を放棄することが絶対に必要である。

自分自身ですでに考えておいたことを哲学から聞かんと要求し、あるいは単に期待するごとき人には今さら哲学の研究でもあるまい。従ってすでに一つの世界観をもち、かついかなる場合にもあくまでそれを信じていこうと決心した者は己が身のために哲学を全然必要としない。換言すれば、彼にとって哲学は、信じている上に実際証明されたという名誉が与えられる贅沢を意味するにすぎない。

この関係は、それが通例適用されがちな宗教上の独断的意見についてのみ言われることではない。むしろ、特に指摘しなければならぬことだが、日常の世界観や人生観のうちにすでに流布しているものに哲学で再会しようと思っている多数の人々の前提について何よりもまず主張されうる。

「この人は正しい。これは私がいつも主張してきたところだ」というようなことを口にするかの大衆の人気を博するのはもとより容易であるが、ただし、実際決して名誉ではない。これはたとえば、詩人の言うように、公衆の口に合う雑炊である。

およそ哲学を真面目にやろうとするほどの者は、哲学の光で世界や人生が今まで見えていたとは別な姿になることを覚悟しなければならぬ。必要な場合には、哲学に入門したとき持っていた前提を犠牲に供する心構えがなくてはならないのである。