2013年10月13日日曜日

あなたの心にキリストが宿ります

ローマの信徒への手紙8・1~10

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」

先週学んだ個所にパウロが描いているのは、彼の心の中の葛藤であると申し上げました。パウロが繰り返して書いている「わたし」という言葉は、抽象的な「人間」を指しているだけではなく、具体的な「パウロ」を含んでいると考えるべきです。

彼は自分の心の中に、互いに対立する二つの要素があることを見つけました。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。そして、もう一つは彼の中に住みついた「罪」(20節)です。彼は善いことをしたいのです。そのような意志を持っています。悪いことをしたいわけではないのです。しかし、「望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)。そのような弱さを持っていることを自覚し、激しい矛盾に苦しみ悶える思いを抱いているということを、正直に告白していました。

しかし、それではパウロはどうなってしまうのでしょうか。一生の間、矛盾を抱え、苦しみを感じながら、それをじっと耐えて生きていくだけでしょうか。人生に苦しみはつきものである。すべての人間は罪人である。それはわたしたちの運命であり、宿命である。わたしたちにできることは「人生は苦しいものだ」と悟ってあきらめることだけでしょうか。

そうではないとパウロは信じています。彼はあきらめていません。あきらめるどころか、パウロが続けて書いているのは、衝撃的な言葉です。

「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)。

何が言いたいのでしょうか。話は突然飛躍しているように思えます。直前までのパウロは、自分の罪深さを嘆き、葛藤に苦しんでいる様子を描いていました。しかし突如として、イエス・キリストに結ばれている人は罪に定められることがないと書いている。これはどういうことでしょうか。

理解のためのヒントになるのは、「従って」(1節)がかかっている範囲はどこまでかということです。7章1節以下の「結婚の比喩」までさかのぼることができそうです。あるいは6章1節以下に書かれている、わたしたちがイエス・キリストと結ばれるのは洗礼を受けることによってであるという話までさかのぼることもできそうです。

洗礼を受けている人は、イエス・キリストと結ばれているのです。その「結ばれる」ということの意味は、人間同士が結婚することとほとんど同じ意味でパウロは書いているということもすでに申し上げました。しかし、それは何一つ怪しげな意味はありません。イエス・キリストとわたしたちが共に生きることを意味しています。これがヒントです。

これが何のヒントになるのでしょうか。7章の終わりまでにパウロが書いていたことは、彼の心の中の葛藤です。しかし、葛藤しているのはパウロです。いわば独り相撲です。自分一人の心の中の堂々巡りです。しかし、イエス・キリストと結ばれている人は、孤立していません。それは、結婚が一人で生きることを意味しないのと同じです。彼はどれほど自分の心の中で葛藤し、独り相撲をとろうと、彼はもう独りではないのです。

もちろんわたしたちは結婚しても、家族があっても、まるで独りで生きているままであるかのように生きてしまう、そのような弱さや冷たさを持っています。けんかは絶えません。しかし、それでも結婚しているかぎり、独りではありません。

家族のだれかが葛藤に苦しみ、のたうちまわっているのを無視する家族があれば、それは鬼です。しかしイエス・キリストは鬼ではありません。わたしたちが苦しんでいるとき、わたしたちと結ばれ、共に生きてくださる救い主イエス・キリストがわたしたちをかばってくださり、抱きしめてくださり、助けてくださるのです。そのことにパウロは希望を見いだしているのです。

だから、ある意味でわたしたちは、イエス・キリストと結ばれた後も葛藤し続けることができるのです。苦しみ続けることができます。もしわたしたちを助けてくれる存在が不在であり、なにもかも自分でやり遂げなければならないとしたら、苦しくても寝込んでいる場合ではないのです。しかし、助けてくれる家族がいれば、安心して苦しむことができますし、安心して倒れ込むことができます。イエス・キリストと結ばれている人たちは、いわばそういう状態にあるのです。

しかし、いま申し上げたことは、たとえです。またこれは十分に納得していただけるたとえであるとは言えません。抽象的な話にとどまっています。わたしたちの現実の感覚とはずれるものだということも分かっているつもりです。しかし、いま申し上げていることは、今日の個所の初めにパウロが「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません」と書いていることは、直前の個所に描かれている彼の罪の葛藤と苦悩の内容と矛盾するものではないということです。

どうして矛盾しないのでしょうか。罪の葛藤に苦しんでいるパウロを罪のないイエス・キリストがかばってくださるからです。そのことをパウロは次のような言葉で書いています。

「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(2~4節)。

ここにパウロが書いていることは、さっと読んでぱっと理解できるような、易しい内容ではありません。非常に難しいことが書かれています。しかし、大事なポイントを申し上げておきます。

父なる神は、御子イエス・キリストを、わたしたちと同じ人間の肉をもつ存在として、この世界に派遣されました。しかし、イエス・キリストの肉とわたしたち人間の肉とは違いもあります。それは、わたしたちの肉には罪が練り込まれてしまい、もはや切り離すことができない状態になってしまっていますが、イエス・キリストのうちには罪はないという違いです。

その罪のないイエス・キリストの肉が、わたしたちの罪深い肉の代わりに犠牲の供え物として神にささげられることによって、わたしたちの肉が本当は受けなければならない罰をイエス・キリストの肉が代わりに受けてくださったとみなしていただき、神はそれ以上の罰を求められなかったのだ、という話です。

こんなふうに言っても、何のことかさっぱり分からないかもしれません。神さまがお定めになった律法の要求に基づく神御自身による取り立てに対して、すぐにすべてを支払うことができない状態のわたしたちの代わりにイエス・キリストが支払ってくださるのだという話であれば、少しはお分かりいただけるでしょうか。余計に分かりにくくなったでしょうか。

ここで疑問を持つ方がおられるかもしれません。それは、イエス・キリストが肩代わりしてくれるというようなことになると、イエス・キリストに結ばれている人たちはイエス・キリストにすっかり甘えてしまって、自分では約束を守らなくなってしまうのではないだろうかというような疑問です。

そうかもしれません。それでいいと開き直るつもりもありません。しかし、そのようなことを考えることがあるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。だれかに甘えるくらいなら、だれかに助けてもらうくらいなら、生きている意味はないと思えるのは、わたしたちがまだ元気な証拠です。わたしたちの中に、償いぐらい自分で働いて返すことができると思えるほど、力が残っているのです。

しかし、自分のすべてを失って、白旗を上げてギブアップする。「助けてください」と叫ぶ。支払いを待ってくださいと懇願する。そのときの哀れで惨めな思いを知っている人は、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」(4・5)神の恵みの意味を理解できると思います。寝たきりになり、自分では何もできなくなり、人に認められることも、人に喜んでもらえる奉仕も全くできなくなっても、それでもなお、自分の存在の意味と価値があると主張し続けてくださる神がおられるのだ、ということの意味を理解できると思います。

現実問題として、まだ守れていない約束があり、まだ果たせていない義務があり、まだ返すことができていない借金があるという場合には、わたしたちの心が穏やかになることはないでしょう。どうにもならない苦しみを毎日味わい続けることもあるでしょう。

そして、「イエス・キリストが共にいてくださる」と、教会の皆さんや牧師さんは言うけれども、それではいったいイエス・キリストというのはどこにいるのですか。具体的にそれはどういう意味なのですか。この教会の礼拝堂の中には十字架もありません。イエスさまはどこにおられるのですか。このようなことをわたしたちは何度となく考えこんでしまいます。私も考えます。これが答えだと言える正解はありません。

しかし、パウロが言っていることは、はっきりしています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(9~10節)。

ここで「神の霊」と「キリストの霊」は、別々ではなく、同じ存在です。それは「聖霊」であり、聖霊とは(父なる)神とキリストとの霊です。パウロにとってイエス・キリストが共にいてくださるということは、神とキリストの霊である聖霊、わたしたちの心に宿ることを意味しています。わたしたちの心の中に、父なる神とイエス・キリストが宿ってくださるのです。

しかしそれは、心霊現象のようなこととは全く違います。聖書の学び、礼拝出席、教会生活の中で、イエス・キリストを知り、信じることによって、わたしたちの中にイエス・キリストの姿が鮮やかに描き出されるのです。そのことが聖霊の注ぎによって起こります。

そのような聖霊を与えられて生きることができるようになることが、わたしたちにとっての本当の救いであるということを、パウロは信じています。

(2013年10月13日、松戸小金原教会主日礼拝)