2013年10月11日金曜日

ファン・ルーラーのどこが面白いの?(第2回)

「ファン・ルーラーは面白い」ということを、どうすれば分かってもらえるか。それだけを考えながら思いつくままに書いています。面白ささえ伝われば本の需要が生まれるだろうと、中の人(ぼく)は単純に考えています。フォロワーが1000人になる頃には、立派な日本語版著作集が出版されていることでしょう。

前回は、ファン・ルーラーの「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)の概念に辿り着いたのでした。それは、あくまでも「神」のイニシアチブ(主導権)が確保されつつ、「神から人へ」の(演繹の)ベクトルと「人から神へ」の(帰納の)ベクトルが不断の往復運動を続ける関係性を指しています。

というふうに書きますと、ファン・ルーラーがまるで抽象的な哲学思想を展開したかのように読まれてしまうかもしれませんが、決してそういうことではありません。伝統的な(改革派の)神学の言葉でいえば、「神から人へ」のベクトルの意味は「恩恵」であり、「人から神へ」のベクトルの意味は「感謝」です。

しかも、ファン・ルーラーにとって「恩恵」とは、途中のプロセスをすべて省略していきなり「神」と「私」の間で授受が行われるものではありません。三位一体論が発動します。神が世界を創造し、御子が世に遣わされ、聖霊が教会を立てる。教会が神の命を人に伝える。その全プロセスが「恩恵」です。

ファン・ルーラーにとって「恩恵」の全プロセスに含まれるのは、イスラエル史であり、キリスト教会(コルプス・クリスチ=キリストの体)の歴史であり、キリスト教国(コルプス・クリスチアーヌム=キリスト教の体)の歴史です。また、教会の説教、聖礼典、交わり、奉仕、教会会議などが含まれます。

このように書きますと、鋭い方はピンとくるものがあるでしょう。神から人への「恩恵」の全プロセスを見つめるファン・ルーラーの目に映っているのがイスラエル史であり、キリスト教会史であり、キリスト教国史であるならば、その中で決定的に重要な役割を果たす「人間」の姿が、見えていないはずがないのです。

歴史上の「偉人」の姿だけが見えている、という意味ではありません。ここはむしろ抽象化すべきです。神の恩恵の全プロセスの中で「人間」が決定的に重要な役割を果たす。その意味は、神は「人間を用いて」地上のみわざを行う、ということです。その意味で人間は「神の道具(インスツルメント)」です。