2013年10月26日土曜日
「第18回 カール・バルト研究会」報告
「ろくろ回し」と言うそうですね。 ぼくは今夜初めて知りました。
「第18回 カール・バルト研究会」、盛り上がっています。
神学は深夜に営むものです。 深い真理と共に、深い眠りにつけそうです。
「第18回 カール・バルト研究会」、楽しいです。
2013年10月25日金曜日
「第18回 カール・バルト研究会」(10月25日)にご参加ください(宣伝動画)
2013年10月25日(金)午後9時~11時(日本時間)「第18回 カール・バルト研究会」を行いますので、ぜひご参加ください。詳しくは動画をご覧ください。
2013年10月24日木曜日
ぼくの目標は「牧師になること」です
「何をやりたいのか」
目標は、初めから、はっきりしているんですけどね。
高校3年の夏休み、昨日出てきた証拠資料によれば「1983年8月9日」に、ぼくは「牧師になること」にしました。
「1983年8月9日」は火曜日だったようです。教会主催の「高校生修養会」の最中だったことは間違いありません。火曜日は、おそらく修養会の初日です。
時刻までは特定できません。開会礼拝の最中か、その後かです。その前日までは思い浮かぶことがありえなかった思いが、突然わき起こって来たという感覚でした。
しかしそれは、一時の気の迷いとか、ただの思いつきという感じでもなくて、謎解きの「たねあかし」のようなものでした。
だから、そのとき「あっ」と声をあげたかどうかは記憶にありませんが、まさに「あっ」でした。「謎はすべて解けた」という思いに満たされ、ただちに牧師に相談しました。どうすれば牧師になれるかを教えてもらいました。
「1983年」というと、ちょうど30年前だったのですね。そういうキリ番のようなことは、すぐ忘れてしまいます。
30年前から、ぼくは一日も迷ったことはありません。
ぼくの目標は「牧師になること」です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
こういう答えではダメなのでしょうね。
あと一味、何かが足りないのかな。
真剣に考えてみます。
目標は、初めから、はっきりしているんですけどね。
高校3年の夏休み、昨日出てきた証拠資料によれば「1983年8月9日」に、ぼくは「牧師になること」にしました。
「1983年8月9日」は火曜日だったようです。教会主催の「高校生修養会」の最中だったことは間違いありません。火曜日は、おそらく修養会の初日です。
時刻までは特定できません。開会礼拝の最中か、その後かです。その前日までは思い浮かぶことがありえなかった思いが、突然わき起こって来たという感覚でした。
しかしそれは、一時の気の迷いとか、ただの思いつきという感じでもなくて、謎解きの「たねあかし」のようなものでした。
だから、そのとき「あっ」と声をあげたかどうかは記憶にありませんが、まさに「あっ」でした。「謎はすべて解けた」という思いに満たされ、ただちに牧師に相談しました。どうすれば牧師になれるかを教えてもらいました。
「1983年」というと、ちょうど30年前だったのですね。そういうキリ番のようなことは、すぐ忘れてしまいます。
30年前から、ぼくは一日も迷ったことはありません。
ぼくの目標は「牧師になること」です。
それ以上でもそれ以下でもありません。
こういう答えではダメなのでしょうね。
あと一味、何かが足りないのかな。
真剣に考えてみます。
わたしの小羊を飼いなさい(19歳の証し)
驚くものが出てきました。
東京神学大学の学部1年のとき、奉仕教会だった日本基督教団桜ケ丘教会(東京都杉並区下高井戸)の教会学校のクリスマス会でおこなった「証し」の原稿です。
19歳になったばかり。読み返すと恥ずかしい。文章は下品だし、今なら決して使わない言葉づかいが出てきます。だけど、変わってないなと思うところ多々あり、進歩の無さにがっかりしました。
以下、全文を書き写しました。ジョン・ウェスレーばりの「回心記念日」の記述がありますが、あまり気にしないでやってください。
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「わたしの小羊を飼いなさい」
ヨハネによる福音書21・15
こんにちは。ここにははじめての人とはじめましてでない人がいらっしゃいますね。僕がこの教会にお世話になってはや9カ月が過ぎようとしています。
僕の方があなたたち、この教会の人たちから学ぶべき立場としてやってきたのに「先生」とか呼ばれて何だかヘンな気持がして、なんとなく妙な居心地だったのですが、あんまり「フニャフニャ」した「先生」だと、あなたがたのつまづきになるから、「先生」と呼ばれた以上、「はい」と答えるようにしています。
そのせいだか何だか知りませんが、ここに来たばかりの時、ここの人たちは、誰ひとりとして僕をミセイネンだと信じてなかったようでしたね。「しっかりしてる」と思ってくれているのだか、「オッサン」だと思っているのだか、思わずちょっと悩んぢゃいそうになりました。
そんなこんなで、「東京神学大学」という大学にいって、「学生」の上にずうずうしくも「神様」の「神」の字をつけてあるくようになったわけですが、この大学を卒業して、僕はいったい何になるのでしょうか。そうです、牧師になるのです。
ここには大先生の子女もおられますが、牧師という仕事がどんな仕事か、どんなに大変か、どんな喜びがあるのか、よくご存じだと思います。決して楽ではありません。ではそんなことを知っていて、この関口はどうしてそんなものになろうとしているのか、こんなアホに牧師なんかつとまるのかよと思っている人もいるはずです。
僕は、小さい時から牧師になろうと夢見てきたわけではありません。驚くなかれ、去年の8月9日に何の予告もなく、神様が、僕に「牧師になれ。私の羊を飼いなさい」とご命令なさったのです。そんなバカなと思う人は、聖書をもう一度ひらいてみてください。びっくりするようなことが、決して人間の力ではなく、神様の力によって行われているということが分かるようになるでしょう。
僕の中学、高校時代は、両親に教会に連れて来られていたにもかかわらず、教会がきらいでした。友達には、ぼくが教会にいっていることを内緒にしたりなんかしていました。何だか照れくさくって、偽善者っぽくて、かっこ悪いような気がしたからです。
日曜日、友達はみんな朝どころか昼ごろまで寝ているのに、朝っぱらから僕は何しに教会にいかなければならないのか、と思っていました。ここがポイントです。「いかなければならない」ということが、私にとってつまづきでした。あなたがたの中にも、そのような人がいるでしょう。
聖書でも、うそみたいな信じられない話を見つけると、教会にいきたくない言い訳のために、「聖書なんてうそっぱちだ」といって親に反抗していた、ものの本質のわからない人間が、このようにして変えられたのは、祈りの力によるものでした。
僕が「牧師になること」を母親に話した時、確かに初めて母親に打ち明けた時、「わかっていたよ」との返事が返ってきて不思議に思ったいきさつに、これからちょっとふれたいと思います。
かつて私の母が若かりしころ、一度は本気で献身の決心をしたということなのです。しかし、その頃の時期的背景も関係するのですが、母はその決意を折ってしまったのです。そして、その意志を自分の息子にかけたのだそうです。黙ってひたすら祈っていたのだそうです。そのことを母は一言も私に言ったことがありませんでした。一言も「牧師になってほしい」という言葉を聞いたことがありませんでした。ただ祈りにささえられて、私は成長してまいりました。これらのことを知って私は主を賛美し、感謝し、本当に私は(生きているのではなく)生かされているのだ(!)ということを感じました。
これからも、あなたたちとのおつきあいがあると思いますが、どうぞよろしく。私の願いは、みんなが牧師になるようにとかいうことでは決してなく、心からクリスチャンとしての自覚を持ってくださるようにということなのです。それが僕たちにとっていちばんうれしいことであります。
たくさん友達を教会にさそってきましょうね。この位で証しを終ります。
(1984年12月22日、日本基督教団桜ケ丘教会CS中学科クリスマス会)
2013年10月22日火曜日
吉村昇洋さんの『気にしなければ、ラクになる。』(幻冬舎、2013年)がついに届きました
昨年(2012年)の「いのりフェスティバル」で吉村昇洋さんとぼくとオタキングさんが鼎談することになっていたのですが、ぼくの都合がつかなくなりました。
ぼくは教会員の葬儀による出演キャンセルでしたので後悔も未練も持っていませんが、吉村さんとは事前の打ち合わせのときに一度お会いして、とても素晴らしい方だと分かりましたので、その吉村さんとご一緒できなかったことは残念に思っています。
しかし、その後、吉村さんとはFacebookでお友達になっていただき、また最近はTwitterでもフォローし合う関係になったりしまして、実際にお会いしたのは一年以上前のたった1時間の打ち合わせのときだけなのに、なんだかとても親しい気持ちになれる方だと、こちらで勝手に思っています。
その吉村さんの最新著、『気にしなければ、ラクになる』(幻冬舎、2013年)がバカ売れしているらしいと、風の便りで知りました。
これはぜひ読ませていただきたいと思いながら、「圧倒的な強敵」と立ち向かうだけの自信が無くて、買うのを躊躇していましたが、
昨日ついにAmazonでポチッと押してしまいました。
吉村さん、
確かに届きましたので、これから読ませていただきます。
ファン・ルーラーにおける「体験主義」への関心について
いま手元にあるのは、一昨年2011年に刊行されたばかりの『ファン・ルーラー著作集(Verzameld Werk)第四巻 下(Deel IV-B)』です。下巻だけで825ページもある、まるでお化けのような本です。この巻の目次の紹介くらいなら、疲れていてもなんとかできそうです。
『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』には次の論稿が収録されています。
「福音の愚かさ」
「神学概念としての『実現』」
「福音とニヒリズム」
「救いのプロセスにおける人間の役割」
「救いがあるということ」
「救いの実現における多様性と矛盾」
「義認について」
「義認論講義」
「信仰の本質」
「信仰の教理史的考察」
「赦し」
「回心と再生」
「再生について」
「創造と再生」
「和音を解せないロバのように」
「パワフルなのかアクティヴなのか」
「召命論講義」
「ハイデルベルク信仰問答 第86問答」
「道徳は部分的なものではあっても星座のようなものではない」
「研究と模倣」
「禁欲」
「美徳の賛歌」
「福音としての隣人」
「正義と義認」
「正義の起源」
「教会と神学における神体験」
「説教と個人の信仰生活」
「神体験、その神学的探求」
「説教における神体験」
「体験主義の光と影」
「確かさ、内省、しるし」
「神体験のいくつかのパターン」
「神体験」
「内面生活における学び」
「ウルトラ改革派とリベラル派」
「神秘主義と宗教」
以上が『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』に収録されているファン・ルーラーの論稿のタイトルです。
たぶんすぐお気づきになることは、「神体験」とか「体験主義」とか「神秘主義」というタイトルの多さです。
私がファン・ルーラーが用いている言葉を「神体験」とか「体験主義」と訳しているわけですが、暫定的にそうしているだけです。翻訳が難しい言葉です。「神体験」はbevinding、「体験主義」はbevindelijkheidです。これはオランダ改革派教会内部に17世紀に発生した流れです。
ファン・ルーラーのbevindingを「神体験」と訳すことについて、彼の英語版論文集(J, ボルト訳、全一巻)ではexperienceと訳されていますので、体験も経験も誤訳ではないでしょう。しかし誤訳の指摘を恐れることより重要なことは、その訳で読者が意味を理解できるかどうかです。
オランダ改革派教会に17世紀に発生した「体験主義」(bevindelijkheid)の流れは、16世紀宗教改革への批判や対立の意図はないものの、修正や補完の意図はありました。20世紀の教会史家はそれをオランダの「第二次宗教改革」(Nadere Reformatie)と呼びました。
ファン・ルーラーが扱ったテーマに神体験(bevinding)や体験主義(bevindelijkheid)というのが多い理由は、彼の出自にあります。彼の出身地アペルドールンは「体験主義」の流れをくむ改革派信仰の影響が強い地域なのです。彼もそれを世襲的に、しかし批判的に継承しました。
『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』には次の論稿が収録されています。
「福音の愚かさ」
「神学概念としての『実現』」
「福音とニヒリズム」
「救いのプロセスにおける人間の役割」
「救いがあるということ」
「救いの実現における多様性と矛盾」
「義認について」
「義認論講義」
「信仰の本質」
「信仰の教理史的考察」
「赦し」
「回心と再生」
「再生について」
「創造と再生」
「和音を解せないロバのように」
「パワフルなのかアクティヴなのか」
「召命論講義」
「ハイデルベルク信仰問答 第86問答」
「道徳は部分的なものではあっても星座のようなものではない」
「研究と模倣」
「禁欲」
「美徳の賛歌」
「福音としての隣人」
「正義と義認」
「正義の起源」
「教会と神学における神体験」
「説教と個人の信仰生活」
「神体験、その神学的探求」
「説教における神体験」
「体験主義の光と影」
「確かさ、内省、しるし」
「神体験のいくつかのパターン」
「神体験」
「内面生活における学び」
「ウルトラ改革派とリベラル派」
「神秘主義と宗教」
以上が『ファン・ルーラー著作集 第四巻 下』に収録されているファン・ルーラーの論稿のタイトルです。
たぶんすぐお気づきになることは、「神体験」とか「体験主義」とか「神秘主義」というタイトルの多さです。
私がファン・ルーラーが用いている言葉を「神体験」とか「体験主義」と訳しているわけですが、暫定的にそうしているだけです。翻訳が難しい言葉です。「神体験」はbevinding、「体験主義」はbevindelijkheidです。これはオランダ改革派教会内部に17世紀に発生した流れです。
ファン・ルーラーのbevindingを「神体験」と訳すことについて、彼の英語版論文集(J, ボルト訳、全一巻)ではexperienceと訳されていますので、体験も経験も誤訳ではないでしょう。しかし誤訳の指摘を恐れることより重要なことは、その訳で読者が意味を理解できるかどうかです。
オランダ改革派教会に17世紀に発生した「体験主義」(bevindelijkheid)の流れは、16世紀宗教改革への批判や対立の意図はないものの、修正や補完の意図はありました。20世紀の教会史家はそれをオランダの「第二次宗教改革」(Nadere Reformatie)と呼びました。
ファン・ルーラーが扱ったテーマに神体験(bevinding)や体験主義(bevindelijkheid)というのが多い理由は、彼の出自にあります。彼の出身地アペルドールンは「体験主義」の流れをくむ改革派信仰の影響が強い地域なのです。彼もそれを世襲的に、しかし批判的に継承しました。
2013年10月21日月曜日
オランダ語つらいなあ(ぶつぶつ)
ゲキ疲れてます。
一泊修養会、定期大会、特別集会。
「バース、掛布、岡田のバックスクリーン三連発」
を彷彿するスケジュールは
さすがのぼくさえ、神経弱りました。
こんなときの慰めは、前世紀末から決まっていて、
それは「ファン・ルーラーの本を読むこと」ですが、
オランダ語つらいなあ。
オランダ語読みたいんじゃなくて、
ファン・ルーラー読みたいんだけど。
だれか心温まる日本語に訳してくれませんか。
多くの人が慰められると思うけど。
神学生!オランダ語がんばれ!
だめ?
2013年10月20日日曜日
今こそキリストの慰めが必要です
ローマの信徒への手紙8・11
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
今日は秋の特別集会です。松戸小金原教会の礼拝あるいは集会に今日初めて出席してくださった方、また久しぶりの方を心より歓迎いたします。これからもどうかよろしくお願いいたします。
今年の特別集会のテーマは「終活について考えてみませんか」としました。今日みなさんに考えていただきたいと願っていることは、わたしたちの人生の締めくくり方をどうするかということです。もっとありていに言いますと、わたしたちの死と葬儀をどうするかです。今日は特別集会ですので、いつもより少し長めにお話しいたします。
しかし、「どうするか」と問われてもお困りになる方は多いだろうと思います。わたしたちにとって動かしがたい厳粛な事実があります。それは、わたしたちの死と葬儀はわたしたち自身がどうすることもできないことである、ということです。
自分の人生の終わりの日がいつなのかを知っている人はいません。また、自分の葬儀を自分で行うことができる人はいません。だからこそ、「どうするか」と問われても困る、答えようがない、と感じるのは、当然のことです。
そういうわけですから、どうかみなさんは、自分自身の死と葬儀について、あまりにも深刻に考えすぎないでいただきたいと私は願っています。どれだけ考えてもすんなり答えが出るようなことではありません。多くの部分を他人任せにしてくださって構いません。自分だけで答えを出そうとしないでください。周りの人たちとよく相談してください。
しかし、そのように私が言いますと、それはそれで、みなさんのうち多くの方は、なんとなく不安な顔になります。本当にそれでいいのだろうか、自分にも少しくらいは責任があるのではないだろうかとお考えになるようです。そのことも、ある意味で健全な考え方だと思います。
ですから、今日は具体的な詳しいことについては、今日の午後、「葬儀・遺言セミナー」を行うことにしました。午後のセミナーにもどうかご出席くださいますようお願いいたします。
これも動かしがたい厳粛な事実ですが、はっきりしていることは、わたしたちの人生は永遠に続くものではないということです。それは、みなさんをがっかりさせてしまうかもしれないことです。わたしたちの体と心の健康は、永久に保たれるものではありません。10年くらい前はできていたことが、今はできなくなりました。活動範囲がだんだん狭くなってきました。終わりの日は近づいています。それはそれで、本当に寂しいことです。
しかし、それはみんな同じです。こんなことを言っても何の慰めにもなりませんが。みんな同じです。だれかひとりは永遠に生きているが、他のすべての人はそうではないということであれば、不公平を嘆いてもよいと思いますが、そうではありません。すべての人が終わりの日を迎えるのです。そして、何らかの形で葬儀が行われる。だからこそ、終活は万人に共通のテーマなのです。
しかしまた、扱い方が難しいテーマであることは間違いありません。「あなたは死にます。早く葬儀の準備をしましょう。葬儀の会場はどうしましょう。お墓はこうしましょう」と矢継ぎ早に言われるとだんだん腹が立ってきます。死と葬儀は万人に共通のテーマであり、重要なテーマです。しかし、無神経な取り上げ方ではまずいと思っています。
私は松戸小金原教会の牧師にしていただいて、来年3月でちょうど10年になります。数をかぞえるようなことは意識的に避けてきたことなので、このたび調べて初めて分かったことですが、この10年間で私が葬儀の司式をさせていただいたのは11名の方々であるということが分かりました。その中には教会員以外の方も含まれています。
この方々にはそれぞれ家族がおられ、今も寂しい思いを味わっておられます。もっと長く、もっと元気に生きてくれていれば、と無念の思いを抱えておられます。今日ご出席くださっているその方々の前で、このテーマを無神経な仕方で取り上げるようなことはすべきではありません。
11名の方々の葬儀を、私は心をこめて執り行わせていただいたつもりです。いろんな点で行き届かなかったことがあったと思います。申し訳ありませんでした。どうかお許しください。しかし、どの方のときにも「本当に良い葬儀でした」と言っていただくことができました。私が言わないほうがよいことかもしれませんが、教会で行う葬儀、キリスト教に基づく葬儀は、本当に良いものです。すべての方に喜んでいただくことができました。
しかし、ここから先に申し上げることについて、私自身が「反省」という言葉を使うと、かえっておかしなことになるのですが、ときどき考えこんでしまうことがあります。それは何かと言いますと、私の両親がまだ(まだ?)健在であるということです。
両親は岡山県岡山市に住んでいます。私と喧嘩しているわけではないのですが、3年も会うことができていません。両親とも現在80歳を超えています。しかし、その両親がまだ(まだ?)生きています。もしかしたら、私はまだ(まだ?)十分な意味で死の恐怖や別れの寂しさを知らないのかもしれません。なぜなら、私は自分の肉親との死別ということを実際に経験したことがないからです。
何年くらい前のことかは忘れました。実家の母から電話がありました。父が病気で入院したという知らせでした。そのときの私が、自分でも驚くほど激しく狼狽したことを忘れることができません。
よく覚えていることは、その知らせを聞いた日、小金原六丁目のバス停で北小金行きのバスを待っていたとき、そこに立っていた男性の後ろ姿が私の父に似ていることに気づいたとき、立っていられなくなり、座り込んでしまいました。ふだんは遠くにいて、ほとんど忘れているような関係なのですが、そのときは自分でも何が起こったのか分からないほどの狼狽ぶりでした。
その後、父の手術は成功しましたので、ご心配いただくには及びません。しかし、私はまだ牧師として未熟な者であることを痛感しています。それを言葉にするととてもおかしなことになってしまうのですが、われわれ牧師は、自分の親が死ななければ本当の牧師にはなれないのかもしれません。
いま私は全くおかしな話をしているという自覚があります。親に死んでもらう話になっています。しかし、ある意味でそういうことも言わなくてはならないことかもしれません。いま申し上げていることは、わたしたちが死ぬことにも、それはそれで何らかの意味があるのではないかということです。
命は受け渡していくものです。自分の命は尽き果てても、この命を受け継いで生きていく次の世代の人たちがいます。それは必ずしも自分の血と肉を分けた子どもに限った話でもありません。大人は子どもにいろんなことを教えます。教えることも、広い意味では命を受け継ぐことです。
どうか、いま私が冷たいことを言っているというふうには受けとらないでほしいのです。しかし、皆さんに考えていただきたいことがあります。それは、わたしたちが受け継ぐべき命とは何なのかということです。
今日は教会員でない方も出席してくださっていますので、狭い意味でのキリスト教の話だけをしないほうがよいかもしれません。しかし、そのような話をすることもちょっとだけ許してください。
それは、「命を受け継ぐ」と言う場合、教会は具体的に何を考えているのかということです。ずばり結論を言います。それは信仰です。神を信じる信仰であり、救い主イエス・キリストを信じる信仰です。その信仰を受け継ぐのです。それが、わたしたちにとっては命を受け継ぐことなのです。
なぜそういう結論になるのかということも少しだけお話ししておきます。わたしたちの教会の信仰によりますと、わたしたちの命は神によって造られたものです。もちろんわたしたちは親から生まれた存在でもありますが、わたしたちの親も、その親から生まれた存在です。そして、その親も、またその親から生まれた存在でもある。この話はどんどん昔にさかのぼっていくことになります。
それでは、最初の人間の親はだれでしょうか。猿だという人もいます。そのことをいま私はただちに否定するつもりはありません。いろいろな考え方があります。しかし仮に猿であるとしても、その猿にも親がいたでしょうし、その親もさらにその親から生まれた存在であることは間違いありません。この話もどんどん昔にさかのぼっていきます。
それでは最初の命はだれが生んだのでしょうか。どんな人も否定できないことは、命を生み出したのは人間ではないということです。それではだれなのでしょうか。その存在をわたしたちは「神」とお呼びします。神がわたしたちの命をお造りになったのです。そのようにわたしたちは信じています。
しかし、それはわたしたちが信じるべきことです。わたしたちの命をお造りになったのは神であるということは、わたしたちの信仰です。それは「信仰にすぎない」という言い方さえできることです。信じない、あるいは信じることができないという可能性も、わたしたちには残されています。
しかしまた、それでは、もしわたしたちがそのことを信じないとしたら、それではわたしたちの命は誰が造ったものなのでしょうかという点は疑問のままです。分かりませんと言って済ませることもできるかもしれませんし、そのようにしている人も現にいます。
しかし、神が造ってくださったのではない、誰だか何だか分からない存在が生みだした命というものをわたしたちが受け継いでいるということになりますと、わたしたちの心は不安だらけです。ある人は、自分は悪魔の命を受け継いでいると信じ込んでいるかもしれませんし、他の人は、自分は猿の命を受け継いでいると考えているかもしれません。
そこで起こる問題があります。それは、わたしたちがそのような得体の知れない命、不気味な命を受け継いでいるかもしれないというようなことを考えている場合、わたしたちはそのような命をどこまで大切にすることができるだろうかという問題です。
もちろん、人によって違うかもしれません。しかし、わたしたちが知っていることは、わたしたちの命は、よくよく大切にしなければ、守り抜くことができないものであるということです。ぞんざいに扱ったり乱暴を働いたりすると、たちまちにして失われてしまう、そのような弱さをわたしたちの命は持っているのです。
「神を信じていない人たちは自分の命を粗末にしています」とか、「そのような人たちは他人の命を平気で傷つけます」というようなことを言いたいのではありません。そのようなひどいことは考えてはならないし、言ってもいけません。それは事実に反することです。
しかし、わたしたちの命は、ただ粗末にしなければよいとか、傷つけないようにしなければよいというようなことだけでは、足りません。もっと積極的に「しっかりと守る」とか「命がけで命を守る」というような面がなければ守りきることができないほど、わたしたちの命は弱いものです。「死んでいない状態」を「生きている」と呼ぶだけでは足りないのです。わたしたちの命は、外側からたくさんの命を注ぎ込むことによって、豊かに育み、守り抜いていくことが求められるのです。
そしてまた、もう一つ大事な点は、わたしたち人間には心があるということです。そして、その心の中でわたしたちは繰り返し、自分の人生の意味は何なのかということを、考えこんでしまいます。意味のない人生を我慢することは、わたしたちには難しいことです。
人生の意味など全く考えたこともないという人がおられるかもしれませんが、それはまだ元気な証拠です。私の命はだれからも必要とされていない不要な存在ではないか。私がこれ以上生きている意味はないのではないかというようなことを繰り返し考え始めるときは、わたしたちの人生に必ず訪れるものなのです。
神を信じる信仰が必要になるのは、まさにそのときです。
もしかしたら、そのときにはもう自分を生んだ親はいないかもしれません。親が生きているときならば、「お父さんお母さんは、どうして私を産もうと思ったの?」と尋ねることができるかもしれませんが、その問いを投げかける相手はいない。自分の子どもや友達に聞いても答えが返ってくるはずがない。そのようなとき、私の命は神が造ってくださった命であり、良い命であり、神が必要としてくださった命であるということを信じることができれば、わたしたちが生きていることの意味を見失わないでいることができるようになるのです。
なんだか理屈っぽい話になってしまっているかもしれませんが、私の申し上げたいことは単純なことです。わたしたちが生きていくためには、生きていることの意味が必要だということです。また、あなたは生きてよいと認めてもらうことが必要だということです。それをはっきりと知っている人は、もしかしたらどこにもいないのかもしれませんが、それでもとにかく、そのことを考え続けてしまうわたしたちがいます。その問いに対して答えを与えてくれるのが信仰だということです。
先ほど私が、「わたしたちにとって、命を受け継ぐこととは信仰を受け継ぐことを意味する」と申し上げたのは、そのような意味です。神を信じる信仰が、わたしたちの命をしっかりと支える力になるのです。その支えがなければ、わたしたちは生きていくことの意味を見失ってしまうほどなのです。生きることの意味を見失ってしまうと、わたしたちは本当に生きていくことができなくなってしまうのです。それは、わたしたち人間には心があるからです。
心など無ければよいのに、とお感じになるでしょうか。考えることをやめれば、悩みも無くなる、とお思いでしょうか。それは違います。悩んだり疑ったりしながら生きていくのが人生です。
神を信じる人の心の中に、神は豊かな命を注ぎ込んでくださいます。最初にお読みしました聖書のみことばには、神が死者の中からイエス・キリストを復活させたこと、そして、その神の霊があなたがたに宿っているならば、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださるということが、記されています。イエス・キリストを復活させた方(神)を信じる信仰がわたしたちの命を支える力になります。わたしたちの人生に力と意味を与えます。
それでもわたしたちの地上の人生はいつか終わりの日を迎えるのですが、失意の中で、絶望の中で、挫折感と悲壮感の中で息絶える、というのとは根本的に違う、喜びと希望に満ちた最後の日を迎えることができる。そのことが、聖書に約束されています。
本当にそうかどうかは、これはもう信仰生活ということを実際に始めていただくしかありません。この教会に通っている方々の姿を見てくださいと申し上げるしかありません。キリストを復活させた方の力によって、わたしたちは立っています。そして、よみがえられたキリストは、今も生きておられます。生きておられるキリストからの慰めをいただきながら、わたしたちは立っています。
神を信じることをまだ始めておられない方は、今日信じてください。今から始めてください。遅くはありません。神を信じることが、終活です。わたしたちの人生の締めくくりの準備です。そのことを今日どうか受け入れていただきたいと願っています。
(2013年10月20日、松戸小金原教会 秋の特別集会)
「もし、イエスを死者の中から復活させた方の霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリストを死者の中から復活させた方は、あなたがたの内に宿っているその霊によって、あなたがたの死ぬはずの体をも生かしてくださるでしょう。」
今日は秋の特別集会です。松戸小金原教会の礼拝あるいは集会に今日初めて出席してくださった方、また久しぶりの方を心より歓迎いたします。これからもどうかよろしくお願いいたします。
今年の特別集会のテーマは「終活について考えてみませんか」としました。今日みなさんに考えていただきたいと願っていることは、わたしたちの人生の締めくくり方をどうするかということです。もっとありていに言いますと、わたしたちの死と葬儀をどうするかです。今日は特別集会ですので、いつもより少し長めにお話しいたします。
しかし、「どうするか」と問われてもお困りになる方は多いだろうと思います。わたしたちにとって動かしがたい厳粛な事実があります。それは、わたしたちの死と葬儀はわたしたち自身がどうすることもできないことである、ということです。
自分の人生の終わりの日がいつなのかを知っている人はいません。また、自分の葬儀を自分で行うことができる人はいません。だからこそ、「どうするか」と問われても困る、答えようがない、と感じるのは、当然のことです。
そういうわけですから、どうかみなさんは、自分自身の死と葬儀について、あまりにも深刻に考えすぎないでいただきたいと私は願っています。どれだけ考えてもすんなり答えが出るようなことではありません。多くの部分を他人任せにしてくださって構いません。自分だけで答えを出そうとしないでください。周りの人たちとよく相談してください。
しかし、そのように私が言いますと、それはそれで、みなさんのうち多くの方は、なんとなく不安な顔になります。本当にそれでいいのだろうか、自分にも少しくらいは責任があるのではないだろうかとお考えになるようです。そのことも、ある意味で健全な考え方だと思います。
ですから、今日は具体的な詳しいことについては、今日の午後、「葬儀・遺言セミナー」を行うことにしました。午後のセミナーにもどうかご出席くださいますようお願いいたします。
これも動かしがたい厳粛な事実ですが、はっきりしていることは、わたしたちの人生は永遠に続くものではないということです。それは、みなさんをがっかりさせてしまうかもしれないことです。わたしたちの体と心の健康は、永久に保たれるものではありません。10年くらい前はできていたことが、今はできなくなりました。活動範囲がだんだん狭くなってきました。終わりの日は近づいています。それはそれで、本当に寂しいことです。
しかし、それはみんな同じです。こんなことを言っても何の慰めにもなりませんが。みんな同じです。だれかひとりは永遠に生きているが、他のすべての人はそうではないということであれば、不公平を嘆いてもよいと思いますが、そうではありません。すべての人が終わりの日を迎えるのです。そして、何らかの形で葬儀が行われる。だからこそ、終活は万人に共通のテーマなのです。
しかしまた、扱い方が難しいテーマであることは間違いありません。「あなたは死にます。早く葬儀の準備をしましょう。葬儀の会場はどうしましょう。お墓はこうしましょう」と矢継ぎ早に言われるとだんだん腹が立ってきます。死と葬儀は万人に共通のテーマであり、重要なテーマです。しかし、無神経な取り上げ方ではまずいと思っています。
私は松戸小金原教会の牧師にしていただいて、来年3月でちょうど10年になります。数をかぞえるようなことは意識的に避けてきたことなので、このたび調べて初めて分かったことですが、この10年間で私が葬儀の司式をさせていただいたのは11名の方々であるということが分かりました。その中には教会員以外の方も含まれています。
この方々にはそれぞれ家族がおられ、今も寂しい思いを味わっておられます。もっと長く、もっと元気に生きてくれていれば、と無念の思いを抱えておられます。今日ご出席くださっているその方々の前で、このテーマを無神経な仕方で取り上げるようなことはすべきではありません。
11名の方々の葬儀を、私は心をこめて執り行わせていただいたつもりです。いろんな点で行き届かなかったことがあったと思います。申し訳ありませんでした。どうかお許しください。しかし、どの方のときにも「本当に良い葬儀でした」と言っていただくことができました。私が言わないほうがよいことかもしれませんが、教会で行う葬儀、キリスト教に基づく葬儀は、本当に良いものです。すべての方に喜んでいただくことができました。
しかし、ここから先に申し上げることについて、私自身が「反省」という言葉を使うと、かえっておかしなことになるのですが、ときどき考えこんでしまうことがあります。それは何かと言いますと、私の両親がまだ(まだ?)健在であるということです。
両親は岡山県岡山市に住んでいます。私と喧嘩しているわけではないのですが、3年も会うことができていません。両親とも現在80歳を超えています。しかし、その両親がまだ(まだ?)生きています。もしかしたら、私はまだ(まだ?)十分な意味で死の恐怖や別れの寂しさを知らないのかもしれません。なぜなら、私は自分の肉親との死別ということを実際に経験したことがないからです。
何年くらい前のことかは忘れました。実家の母から電話がありました。父が病気で入院したという知らせでした。そのときの私が、自分でも驚くほど激しく狼狽したことを忘れることができません。
よく覚えていることは、その知らせを聞いた日、小金原六丁目のバス停で北小金行きのバスを待っていたとき、そこに立っていた男性の後ろ姿が私の父に似ていることに気づいたとき、立っていられなくなり、座り込んでしまいました。ふだんは遠くにいて、ほとんど忘れているような関係なのですが、そのときは自分でも何が起こったのか分からないほどの狼狽ぶりでした。
その後、父の手術は成功しましたので、ご心配いただくには及びません。しかし、私はまだ牧師として未熟な者であることを痛感しています。それを言葉にするととてもおかしなことになってしまうのですが、われわれ牧師は、自分の親が死ななければ本当の牧師にはなれないのかもしれません。
いま私は全くおかしな話をしているという自覚があります。親に死んでもらう話になっています。しかし、ある意味でそういうことも言わなくてはならないことかもしれません。いま申し上げていることは、わたしたちが死ぬことにも、それはそれで何らかの意味があるのではないかということです。
命は受け渡していくものです。自分の命は尽き果てても、この命を受け継いで生きていく次の世代の人たちがいます。それは必ずしも自分の血と肉を分けた子どもに限った話でもありません。大人は子どもにいろんなことを教えます。教えることも、広い意味では命を受け継ぐことです。
どうか、いま私が冷たいことを言っているというふうには受けとらないでほしいのです。しかし、皆さんに考えていただきたいことがあります。それは、わたしたちが受け継ぐべき命とは何なのかということです。
今日は教会員でない方も出席してくださっていますので、狭い意味でのキリスト教の話だけをしないほうがよいかもしれません。しかし、そのような話をすることもちょっとだけ許してください。
それは、「命を受け継ぐ」と言う場合、教会は具体的に何を考えているのかということです。ずばり結論を言います。それは信仰です。神を信じる信仰であり、救い主イエス・キリストを信じる信仰です。その信仰を受け継ぐのです。それが、わたしたちにとっては命を受け継ぐことなのです。
なぜそういう結論になるのかということも少しだけお話ししておきます。わたしたちの教会の信仰によりますと、わたしたちの命は神によって造られたものです。もちろんわたしたちは親から生まれた存在でもありますが、わたしたちの親も、その親から生まれた存在です。そして、その親も、またその親から生まれた存在でもある。この話はどんどん昔にさかのぼっていくことになります。
それでは、最初の人間の親はだれでしょうか。猿だという人もいます。そのことをいま私はただちに否定するつもりはありません。いろいろな考え方があります。しかし仮に猿であるとしても、その猿にも親がいたでしょうし、その親もさらにその親から生まれた存在であることは間違いありません。この話もどんどん昔にさかのぼっていきます。
それでは最初の命はだれが生んだのでしょうか。どんな人も否定できないことは、命を生み出したのは人間ではないということです。それではだれなのでしょうか。その存在をわたしたちは「神」とお呼びします。神がわたしたちの命をお造りになったのです。そのようにわたしたちは信じています。
しかし、それはわたしたちが信じるべきことです。わたしたちの命をお造りになったのは神であるということは、わたしたちの信仰です。それは「信仰にすぎない」という言い方さえできることです。信じない、あるいは信じることができないという可能性も、わたしたちには残されています。
しかしまた、それでは、もしわたしたちがそのことを信じないとしたら、それではわたしたちの命は誰が造ったものなのでしょうかという点は疑問のままです。分かりませんと言って済ませることもできるかもしれませんし、そのようにしている人も現にいます。
しかし、神が造ってくださったのではない、誰だか何だか分からない存在が生みだした命というものをわたしたちが受け継いでいるということになりますと、わたしたちの心は不安だらけです。ある人は、自分は悪魔の命を受け継いでいると信じ込んでいるかもしれませんし、他の人は、自分は猿の命を受け継いでいると考えているかもしれません。
そこで起こる問題があります。それは、わたしたちがそのような得体の知れない命、不気味な命を受け継いでいるかもしれないというようなことを考えている場合、わたしたちはそのような命をどこまで大切にすることができるだろうかという問題です。
もちろん、人によって違うかもしれません。しかし、わたしたちが知っていることは、わたしたちの命は、よくよく大切にしなければ、守り抜くことができないものであるということです。ぞんざいに扱ったり乱暴を働いたりすると、たちまちにして失われてしまう、そのような弱さをわたしたちの命は持っているのです。
「神を信じていない人たちは自分の命を粗末にしています」とか、「そのような人たちは他人の命を平気で傷つけます」というようなことを言いたいのではありません。そのようなひどいことは考えてはならないし、言ってもいけません。それは事実に反することです。
しかし、わたしたちの命は、ただ粗末にしなければよいとか、傷つけないようにしなければよいというようなことだけでは、足りません。もっと積極的に「しっかりと守る」とか「命がけで命を守る」というような面がなければ守りきることができないほど、わたしたちの命は弱いものです。「死んでいない状態」を「生きている」と呼ぶだけでは足りないのです。わたしたちの命は、外側からたくさんの命を注ぎ込むことによって、豊かに育み、守り抜いていくことが求められるのです。
そしてまた、もう一つ大事な点は、わたしたち人間には心があるということです。そして、その心の中でわたしたちは繰り返し、自分の人生の意味は何なのかということを、考えこんでしまいます。意味のない人生を我慢することは、わたしたちには難しいことです。
人生の意味など全く考えたこともないという人がおられるかもしれませんが、それはまだ元気な証拠です。私の命はだれからも必要とされていない不要な存在ではないか。私がこれ以上生きている意味はないのではないかというようなことを繰り返し考え始めるときは、わたしたちの人生に必ず訪れるものなのです。
神を信じる信仰が必要になるのは、まさにそのときです。
もしかしたら、そのときにはもう自分を生んだ親はいないかもしれません。親が生きているときならば、「お父さんお母さんは、どうして私を産もうと思ったの?」と尋ねることができるかもしれませんが、その問いを投げかける相手はいない。自分の子どもや友達に聞いても答えが返ってくるはずがない。そのようなとき、私の命は神が造ってくださった命であり、良い命であり、神が必要としてくださった命であるということを信じることができれば、わたしたちが生きていることの意味を見失わないでいることができるようになるのです。
なんだか理屈っぽい話になってしまっているかもしれませんが、私の申し上げたいことは単純なことです。わたしたちが生きていくためには、生きていることの意味が必要だということです。また、あなたは生きてよいと認めてもらうことが必要だということです。それをはっきりと知っている人は、もしかしたらどこにもいないのかもしれませんが、それでもとにかく、そのことを考え続けてしまうわたしたちがいます。その問いに対して答えを与えてくれるのが信仰だということです。
先ほど私が、「わたしたちにとって、命を受け継ぐこととは信仰を受け継ぐことを意味する」と申し上げたのは、そのような意味です。神を信じる信仰が、わたしたちの命をしっかりと支える力になるのです。その支えがなければ、わたしたちは生きていくことの意味を見失ってしまうほどなのです。生きることの意味を見失ってしまうと、わたしたちは本当に生きていくことができなくなってしまうのです。それは、わたしたち人間には心があるからです。
心など無ければよいのに、とお感じになるでしょうか。考えることをやめれば、悩みも無くなる、とお思いでしょうか。それは違います。悩んだり疑ったりしながら生きていくのが人生です。
神を信じる人の心の中に、神は豊かな命を注ぎ込んでくださいます。最初にお読みしました聖書のみことばには、神が死者の中からイエス・キリストを復活させたこと、そして、その神の霊があなたがたに宿っているならば、あなたがたの死ぬはずの体を生かしてくださるということが、記されています。イエス・キリストを復活させた方(神)を信じる信仰がわたしたちの命を支える力になります。わたしたちの人生に力と意味を与えます。
それでもわたしたちの地上の人生はいつか終わりの日を迎えるのですが、失意の中で、絶望の中で、挫折感と悲壮感の中で息絶える、というのとは根本的に違う、喜びと希望に満ちた最後の日を迎えることができる。そのことが、聖書に約束されています。
本当にそうかどうかは、これはもう信仰生活ということを実際に始めていただくしかありません。この教会に通っている方々の姿を見てくださいと申し上げるしかありません。キリストを復活させた方の力によって、わたしたちは立っています。そして、よみがえられたキリストは、今も生きておられます。生きておられるキリストからの慰めをいただきながら、わたしたちは立っています。
神を信じることをまだ始めておられない方は、今日信じてください。今から始めてください。遅くはありません。神を信じることが、終活です。わたしたちの人生の締めくくりの準備です。そのことを今日どうか受け入れていただきたいと願っています。
(2013年10月20日、松戸小金原教会 秋の特別集会)
2013年10月19日土曜日
土下座でもして懇願するしかないですね
教会は会社じゃないしね。出世とかも無い無い。
「ご栄転ですね」とかイヤミ言われたときはフカイだったなあ。
ガチで言ってたら、ヨシヨシ頭なでてあげたところだけどね。
ネットへの書き込みが原因でどうこう、とかいうのも、関係ないじゃんね。
言いたいことがあるから説教する人になったんじゃないのかね、ぼくら。
自分のノートに鉛筆で書くのも、画面見ながらキー叩くのも、
字を書くことには変わらんわけだし。
伝えたいことあるから伝道する人になったんじゃないの?
伝えたい相手を選んでるわけかな。
オフライン牧師さんたちの仕事は「ネット使わない人限定の伝道」とかかな。
いいですけどね。裁くわけではない。悠長な話だな、とはなんとなく思います。
あ、独りごとです。読まなかったことにしてください。
* * *
だから、そう、
「牧師になる前に世間に出ろ(世間知らず防止)」という話は
傾聴に値する面を少なからず持っているということを
ぼくは認める立場ですけど、
唯一の「最悪の致命的な欠点」は、
「あまりにも・あまりにも世間的な」秩序を
そういうものとは根本的に異なる秩序を有する教会の中に
持ち込んでしまうことがありうること、かもしれません。
とか書くと、
教会の秩序はルーズ過ぎて最悪だと、よく言われるのですが、
ちがうものはちがうんだから、一緒くたにせんでくれよと、
(いま流行りの)土下座でもして懇願するしかないですね。
お願いですから、
教会(教派・教団の意味含む)で、会社ごっこはおやめください。
「左遷」も「栄転」も無いからね。ナニ言ってんだかって感じです。
心からお願い申し上げます。
特定の○○教会(教派・教団の意味含む)の話ではありません。
一般論です。
* * *
ネタとして、というか、純粋にひまつぶしで、というか、
本当のところを言えば、
コンビニの雑誌売り場にはそれくらいしか売ってないから、ですけど、
『プレジデント』とか、たまに買いますよ。
だけど、ぼくは、
牧師は教会のプレジデントだと思ってるわけじゃないですからね。
「理想のリーダー像」「どうしたら百億稼げるか」「時間の使い道」他
面白いですよ、参考にもなりますなります。笑いながら読んでます。
社長さんたちたいへんだなあと、純粋に尊敬します。
だけど、教会と会社は、根本的に異なるものですよね。
比較しようにも、比較できないんじゃないでしょうかね。
これ以上のことは、言わないでおきますけどね。
【余滴】
ぼく、たぶん12、3年前に(正確な時期は覚えていません)、
ある会社の副社長(当時)のお連れ合いの方から
「あなたエラクなる人ね。わたしには分かるわ」
と言われたことがあります。
世の中には面白いことを言う人がいるもんなんですね。
ブブゥー、「ハズレー!」
【追記】
(ぼくの言いたいこととは話の筋がちょっとずれちゃってるんですけど、まあいいや)
まあ、ぼく的には別にカッコつけてるわけでもなくて、ですね、ガチなるガチの話として、教会に関して「レース」(?)とか「センター」(?)とか、もうほとんど意味分かんなくなってるんですよ。
まあ、昔と今とで、ずいぶん違いますしね。新幹線や飛行機があったり、インターネットがあったりで、その種の文明の利器を使わない主義の人は別扱いにするにしても、「情報格差」などはほとんど無くなってきました。
牧師の仕事をしていくうえでいわば唯一影響するかもしれないことは、その「情報格差」だとは思うのですが、それが無くなった。だったら、どこにいても同じじゃないですか。
歴史とか伝統とか、立地とか建物の巨大さとかは大切ではないと言いたいわけではないのですが、べつにその牧師の個人の所有物でもあるまいし、えらぶれる根拠になるわけがないんです。
そゆことは、分かってる人はよく分かっているわけで、すべての事情を熟知して、気が重くて重くて仕方なくて、「行きたくない」と心底から神に祈っているような人こそ、その教会、その職務にふさわしい人なんでしょうけどね。
「ご栄転ですね」とかイヤミ言われたときはフカイだったなあ。
ガチで言ってたら、ヨシヨシ頭なでてあげたところだけどね。
ネットへの書き込みが原因でどうこう、とかいうのも、関係ないじゃんね。
言いたいことがあるから説教する人になったんじゃないのかね、ぼくら。
自分のノートに鉛筆で書くのも、画面見ながらキー叩くのも、
字を書くことには変わらんわけだし。
伝えたいことあるから伝道する人になったんじゃないの?
伝えたい相手を選んでるわけかな。
オフライン牧師さんたちの仕事は「ネット使わない人限定の伝道」とかかな。
いいですけどね。裁くわけではない。悠長な話だな、とはなんとなく思います。
あ、独りごとです。読まなかったことにしてください。
* * *
だから、そう、
「牧師になる前に世間に出ろ(世間知らず防止)」という話は
傾聴に値する面を少なからず持っているということを
ぼくは認める立場ですけど、
唯一の「最悪の致命的な欠点」は、
「あまりにも・あまりにも世間的な」秩序を
そういうものとは根本的に異なる秩序を有する教会の中に
持ち込んでしまうことがありうること、かもしれません。
とか書くと、
教会の秩序はルーズ過ぎて最悪だと、よく言われるのですが、
ちがうものはちがうんだから、一緒くたにせんでくれよと、
(いま流行りの)土下座でもして懇願するしかないですね。
お願いですから、
教会(教派・教団の意味含む)で、会社ごっこはおやめください。
「左遷」も「栄転」も無いからね。ナニ言ってんだかって感じです。
心からお願い申し上げます。
特定の○○教会(教派・教団の意味含む)の話ではありません。
一般論です。
* * *
本当のところを言えば、
コンビニの雑誌売り場にはそれくらいしか売ってないから、ですけど、
『プレジデント』とか、たまに買いますよ。
だけど、ぼくは、
牧師は教会のプレジデントだと思ってるわけじゃないですからね。
「理想のリーダー像」「どうしたら百億稼げるか」「時間の使い道」他
面白いですよ、参考にもなりますなります。笑いながら読んでます。
社長さんたちたいへんだなあと、純粋に尊敬します。
だけど、教会と会社は、根本的に異なるものですよね。
比較しようにも、比較できないんじゃないでしょうかね。
これ以上のことは、言わないでおきますけどね。
【余滴】
ぼく、たぶん12、3年前に(正確な時期は覚えていません)、
ある会社の副社長(当時)のお連れ合いの方から
「あなたエラクなる人ね。わたしには分かるわ」
と言われたことがあります。
世の中には面白いことを言う人がいるもんなんですね。
ブブゥー、「ハズレー!」
【追記】
(ぼくの言いたいこととは話の筋がちょっとずれちゃってるんですけど、まあいいや)
まあ、ぼく的には別にカッコつけてるわけでもなくて、ですね、ガチなるガチの話として、教会に関して「レース」(?)とか「センター」(?)とか、もうほとんど意味分かんなくなってるんですよ。
まあ、昔と今とで、ずいぶん違いますしね。新幹線や飛行機があったり、インターネットがあったりで、その種の文明の利器を使わない主義の人は別扱いにするにしても、「情報格差」などはほとんど無くなってきました。
牧師の仕事をしていくうえでいわば唯一影響するかもしれないことは、その「情報格差」だとは思うのですが、それが無くなった。だったら、どこにいても同じじゃないですか。
歴史とか伝統とか、立地とか建物の巨大さとかは大切ではないと言いたいわけではないのですが、べつにその牧師の個人の所有物でもあるまいし、えらぶれる根拠になるわけがないんです。
そゆことは、分かってる人はよく分かっているわけで、すべての事情を熟知して、気が重くて重くて仕方なくて、「行きたくない」と心底から神に祈っているような人こそ、その教会、その職務にふさわしい人なんでしょうけどね。
よりデタラメなほうにアジャストすると、ラクになる。(たぶん)
内と外の「差」とか、よく考えましたよ。
悩んでいたかもしれません。
それが自分でイヤだったので、
「差」を縮めようとした形跡あります。
首尾一貫性というほど硬くはないけど、
二枚舌、とか、
表裏あるやつ、とかは言わせたくなかったかも。
「あんたにぼくの何が分かるんだよ」と言いたくもなりました。
そゆこと言わないけどね。
アジャストの必要を感じて、それを実行するわけだけど、
ぼくが採った方法は、なんのことはない、
よりデタラメなほうに合わせることでした。
だから内からも外からもすっかり軽んじられる人間になったんですけどね。
気は楽になりましたよ。
『気にしなければ、ラクになる』そうです。
ごめんなさい、吉村さん、まだ読んでないです(第三刷おめでとうございます)。
読んでしまうとパクリそうで。
悩んでいたかもしれません。
それが自分でイヤだったので、
「差」を縮めようとした形跡あります。
首尾一貫性というほど硬くはないけど、
二枚舌、とか、
表裏あるやつ、とかは言わせたくなかったかも。
「あんたにぼくの何が分かるんだよ」と言いたくもなりました。
そゆこと言わないけどね。
アジャストの必要を感じて、それを実行するわけだけど、
ぼくが採った方法は、なんのことはない、
よりデタラメなほうに合わせることでした。
だから内からも外からもすっかり軽んじられる人間になったんですけどね。
気は楽になりましたよ。
『気にしなければ、ラクになる』そうです。
ごめんなさい、吉村さん、まだ読んでないです(第三刷おめでとうございます)。
読んでしまうとパクリそうで。
2013年10月13日日曜日
あなたの心にキリストが宿ります
ローマの信徒への手紙8・1~10
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」
先週学んだ個所にパウロが描いているのは、彼の心の中の葛藤であると申し上げました。パウロが繰り返して書いている「わたし」という言葉は、抽象的な「人間」を指しているだけではなく、具体的な「パウロ」を含んでいると考えるべきです。
彼は自分の心の中に、互いに対立する二つの要素があることを見つけました。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。そして、もう一つは彼の中に住みついた「罪」(20節)です。彼は善いことをしたいのです。そのような意志を持っています。悪いことをしたいわけではないのです。しかし、「望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)。そのような弱さを持っていることを自覚し、激しい矛盾に苦しみ悶える思いを抱いているということを、正直に告白していました。
しかし、それではパウロはどうなってしまうのでしょうか。一生の間、矛盾を抱え、苦しみを感じながら、それをじっと耐えて生きていくだけでしょうか。人生に苦しみはつきものである。すべての人間は罪人である。それはわたしたちの運命であり、宿命である。わたしたちにできることは「人生は苦しいものだ」と悟ってあきらめることだけでしょうか。
そうではないとパウロは信じています。彼はあきらめていません。あきらめるどころか、パウロが続けて書いているのは、衝撃的な言葉です。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)。
何が言いたいのでしょうか。話は突然飛躍しているように思えます。直前までのパウロは、自分の罪深さを嘆き、葛藤に苦しんでいる様子を描いていました。しかし突如として、イエス・キリストに結ばれている人は罪に定められることがないと書いている。これはどういうことでしょうか。
理解のためのヒントになるのは、「従って」(1節)がかかっている範囲はどこまでかということです。7章1節以下の「結婚の比喩」までさかのぼることができそうです。あるいは6章1節以下に書かれている、わたしたちがイエス・キリストと結ばれるのは洗礼を受けることによってであるという話までさかのぼることもできそうです。
洗礼を受けている人は、イエス・キリストと結ばれているのです。その「結ばれる」ということの意味は、人間同士が結婚することとほとんど同じ意味でパウロは書いているということもすでに申し上げました。しかし、それは何一つ怪しげな意味はありません。イエス・キリストとわたしたちが共に生きることを意味しています。これがヒントです。
これが何のヒントになるのでしょうか。7章の終わりまでにパウロが書いていたことは、彼の心の中の葛藤です。しかし、葛藤しているのはパウロです。いわば独り相撲です。自分一人の心の中の堂々巡りです。しかし、イエス・キリストと結ばれている人は、孤立していません。それは、結婚が一人で生きることを意味しないのと同じです。彼はどれほど自分の心の中で葛藤し、独り相撲をとろうと、彼はもう独りではないのです。
もちろんわたしたちは結婚しても、家族があっても、まるで独りで生きているままであるかのように生きてしまう、そのような弱さや冷たさを持っています。けんかは絶えません。しかし、それでも結婚しているかぎり、独りではありません。
家族のだれかが葛藤に苦しみ、のたうちまわっているのを無視する家族があれば、それは鬼です。しかしイエス・キリストは鬼ではありません。わたしたちが苦しんでいるとき、わたしたちと結ばれ、共に生きてくださる救い主イエス・キリストがわたしたちをかばってくださり、抱きしめてくださり、助けてくださるのです。そのことにパウロは希望を見いだしているのです。
だから、ある意味でわたしたちは、イエス・キリストと結ばれた後も葛藤し続けることができるのです。苦しみ続けることができます。もしわたしたちを助けてくれる存在が不在であり、なにもかも自分でやり遂げなければならないとしたら、苦しくても寝込んでいる場合ではないのです。しかし、助けてくれる家族がいれば、安心して苦しむことができますし、安心して倒れ込むことができます。イエス・キリストと結ばれている人たちは、いわばそういう状態にあるのです。
しかし、いま申し上げたことは、たとえです。またこれは十分に納得していただけるたとえであるとは言えません。抽象的な話にとどまっています。わたしたちの現実の感覚とはずれるものだということも分かっているつもりです。しかし、いま申し上げていることは、今日の個所の初めにパウロが「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません」と書いていることは、直前の個所に描かれている彼の罪の葛藤と苦悩の内容と矛盾するものではないということです。
どうして矛盾しないのでしょうか。罪の葛藤に苦しんでいるパウロを罪のないイエス・キリストがかばってくださるからです。そのことをパウロは次のような言葉で書いています。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(2~4節)。
ここにパウロが書いていることは、さっと読んでぱっと理解できるような、易しい内容ではありません。非常に難しいことが書かれています。しかし、大事なポイントを申し上げておきます。
父なる神は、御子イエス・キリストを、わたしたちと同じ人間の肉をもつ存在として、この世界に派遣されました。しかし、イエス・キリストの肉とわたしたち人間の肉とは違いもあります。それは、わたしたちの肉には罪が練り込まれてしまい、もはや切り離すことができない状態になってしまっていますが、イエス・キリストのうちには罪はないという違いです。
その罪のないイエス・キリストの肉が、わたしたちの罪深い肉の代わりに犠牲の供え物として神にささげられることによって、わたしたちの肉が本当は受けなければならない罰をイエス・キリストの肉が代わりに受けてくださったとみなしていただき、神はそれ以上の罰を求められなかったのだ、という話です。
こんなふうに言っても、何のことかさっぱり分からないかもしれません。神さまがお定めになった律法の要求に基づく神御自身による取り立てに対して、すぐにすべてを支払うことができない状態のわたしたちの代わりにイエス・キリストが支払ってくださるのだという話であれば、少しはお分かりいただけるでしょうか。余計に分かりにくくなったでしょうか。
ここで疑問を持つ方がおられるかもしれません。それは、イエス・キリストが肩代わりしてくれるというようなことになると、イエス・キリストに結ばれている人たちはイエス・キリストにすっかり甘えてしまって、自分では約束を守らなくなってしまうのではないだろうかというような疑問です。
そうかもしれません。それでいいと開き直るつもりもありません。しかし、そのようなことを考えることがあるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。だれかに甘えるくらいなら、だれかに助けてもらうくらいなら、生きている意味はないと思えるのは、わたしたちがまだ元気な証拠です。わたしたちの中に、償いぐらい自分で働いて返すことができると思えるほど、力が残っているのです。
しかし、自分のすべてを失って、白旗を上げてギブアップする。「助けてください」と叫ぶ。支払いを待ってくださいと懇願する。そのときの哀れで惨めな思いを知っている人は、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」(4・5)神の恵みの意味を理解できると思います。寝たきりになり、自分では何もできなくなり、人に認められることも、人に喜んでもらえる奉仕も全くできなくなっても、それでもなお、自分の存在の意味と価値があると主張し続けてくださる神がおられるのだ、ということの意味を理解できると思います。
現実問題として、まだ守れていない約束があり、まだ果たせていない義務があり、まだ返すことができていない借金があるという場合には、わたしたちの心が穏やかになることはないでしょう。どうにもならない苦しみを毎日味わい続けることもあるでしょう。
そして、「イエス・キリストが共にいてくださる」と、教会の皆さんや牧師さんは言うけれども、それではいったいイエス・キリストというのはどこにいるのですか。具体的にそれはどういう意味なのですか。この教会の礼拝堂の中には十字架もありません。イエスさまはどこにおられるのですか。このようなことをわたしたちは何度となく考えこんでしまいます。私も考えます。これが答えだと言える正解はありません。
しかし、パウロが言っていることは、はっきりしています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(9~10節)。
ここで「神の霊」と「キリストの霊」は、別々ではなく、同じ存在です。それは「聖霊」であり、聖霊とは(父なる)神とキリストとの霊です。パウロにとってイエス・キリストが共にいてくださるということは、神とキリストの霊である聖霊、わたしたちの心に宿ることを意味しています。わたしたちの心の中に、父なる神とイエス・キリストが宿ってくださるのです。
しかしそれは、心霊現象のようなこととは全く違います。聖書の学び、礼拝出席、教会生活の中で、イエス・キリストを知り、信じることによって、わたしたちの中にイエス・キリストの姿が鮮やかに描き出されるのです。そのことが聖霊の注ぎによって起こります。
そのような聖霊を与えられて生きることができるようになることが、わたしたちにとっての本当の救いであるということを、パウロは信じています。
(2013年10月13日、松戸小金原教会主日礼拝)
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります。なぜなら、肉の思いに従う者は、神に敵対しており、神の律法に従っていないからです。従いえないのです。肉の支配下にある者は、神に喜ばれるはずがありません。神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています。」
先週学んだ個所にパウロが描いているのは、彼の心の中の葛藤であると申し上げました。パウロが繰り返して書いている「わたし」という言葉は、抽象的な「人間」を指しているだけではなく、具体的な「パウロ」を含んでいると考えるべきです。
彼は自分の心の中に、互いに対立する二つの要素があることを見つけました。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。そして、もう一つは彼の中に住みついた「罪」(20節)です。彼は善いことをしたいのです。そのような意志を持っています。悪いことをしたいわけではないのです。しかし、「望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)。そのような弱さを持っていることを自覚し、激しい矛盾に苦しみ悶える思いを抱いているということを、正直に告白していました。
しかし、それではパウロはどうなってしまうのでしょうか。一生の間、矛盾を抱え、苦しみを感じながら、それをじっと耐えて生きていくだけでしょうか。人生に苦しみはつきものである。すべての人間は罪人である。それはわたしたちの運命であり、宿命である。わたしたちにできることは「人生は苦しいものだ」と悟ってあきらめることだけでしょうか。
そうではないとパウロは信じています。彼はあきらめていません。あきらめるどころか、パウロが続けて書いているのは、衝撃的な言葉です。
「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」(1節)。
何が言いたいのでしょうか。話は突然飛躍しているように思えます。直前までのパウロは、自分の罪深さを嘆き、葛藤に苦しんでいる様子を描いていました。しかし突如として、イエス・キリストに結ばれている人は罪に定められることがないと書いている。これはどういうことでしょうか。
理解のためのヒントになるのは、「従って」(1節)がかかっている範囲はどこまでかということです。7章1節以下の「結婚の比喩」までさかのぼることができそうです。あるいは6章1節以下に書かれている、わたしたちがイエス・キリストと結ばれるのは洗礼を受けることによってであるという話までさかのぼることもできそうです。
洗礼を受けている人は、イエス・キリストと結ばれているのです。その「結ばれる」ということの意味は、人間同士が結婚することとほとんど同じ意味でパウロは書いているということもすでに申し上げました。しかし、それは何一つ怪しげな意味はありません。イエス・キリストとわたしたちが共に生きることを意味しています。これがヒントです。
これが何のヒントになるのでしょうか。7章の終わりまでにパウロが書いていたことは、彼の心の中の葛藤です。しかし、葛藤しているのはパウロです。いわば独り相撲です。自分一人の心の中の堂々巡りです。しかし、イエス・キリストと結ばれている人は、孤立していません。それは、結婚が一人で生きることを意味しないのと同じです。彼はどれほど自分の心の中で葛藤し、独り相撲をとろうと、彼はもう独りではないのです。
もちろんわたしたちは結婚しても、家族があっても、まるで独りで生きているままであるかのように生きてしまう、そのような弱さや冷たさを持っています。けんかは絶えません。しかし、それでも結婚しているかぎり、独りではありません。
家族のだれかが葛藤に苦しみ、のたうちまわっているのを無視する家族があれば、それは鬼です。しかしイエス・キリストは鬼ではありません。わたしたちが苦しんでいるとき、わたしたちと結ばれ、共に生きてくださる救い主イエス・キリストがわたしたちをかばってくださり、抱きしめてくださり、助けてくださるのです。そのことにパウロは希望を見いだしているのです。
だから、ある意味でわたしたちは、イエス・キリストと結ばれた後も葛藤し続けることができるのです。苦しみ続けることができます。もしわたしたちを助けてくれる存在が不在であり、なにもかも自分でやり遂げなければならないとしたら、苦しくても寝込んでいる場合ではないのです。しかし、助けてくれる家族がいれば、安心して苦しむことができますし、安心して倒れ込むことができます。イエス・キリストと結ばれている人たちは、いわばそういう状態にあるのです。
しかし、いま申し上げたことは、たとえです。またこれは十分に納得していただけるたとえであるとは言えません。抽象的な話にとどまっています。わたしたちの現実の感覚とはずれるものだということも分かっているつもりです。しかし、いま申し上げていることは、今日の個所の初めにパウロが「キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることがありません」と書いていることは、直前の個所に描かれている彼の罪の葛藤と苦悩の内容と矛盾するものではないということです。
どうして矛盾しないのでしょうか。罪の葛藤に苦しんでいるパウロを罪のないイエス・キリストがかばってくださるからです。そのことをパウロは次のような言葉で書いています。
「キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした」(2~4節)。
ここにパウロが書いていることは、さっと読んでぱっと理解できるような、易しい内容ではありません。非常に難しいことが書かれています。しかし、大事なポイントを申し上げておきます。
父なる神は、御子イエス・キリストを、わたしたちと同じ人間の肉をもつ存在として、この世界に派遣されました。しかし、イエス・キリストの肉とわたしたち人間の肉とは違いもあります。それは、わたしたちの肉には罪が練り込まれてしまい、もはや切り離すことができない状態になってしまっていますが、イエス・キリストのうちには罪はないという違いです。
その罪のないイエス・キリストの肉が、わたしたちの罪深い肉の代わりに犠牲の供え物として神にささげられることによって、わたしたちの肉が本当は受けなければならない罰をイエス・キリストの肉が代わりに受けてくださったとみなしていただき、神はそれ以上の罰を求められなかったのだ、という話です。
こんなふうに言っても、何のことかさっぱり分からないかもしれません。神さまがお定めになった律法の要求に基づく神御自身による取り立てに対して、すぐにすべてを支払うことができない状態のわたしたちの代わりにイエス・キリストが支払ってくださるのだという話であれば、少しはお分かりいただけるでしょうか。余計に分かりにくくなったでしょうか。
ここで疑問を持つ方がおられるかもしれません。それは、イエス・キリストが肩代わりしてくれるというようなことになると、イエス・キリストに結ばれている人たちはイエス・キリストにすっかり甘えてしまって、自分では約束を守らなくなってしまうのではないだろうかというような疑問です。
そうかもしれません。それでいいと開き直るつもりもありません。しかし、そのようなことを考えることがあるとしたら、それはわたしたちがまだ元気な証拠です。だれかに甘えるくらいなら、だれかに助けてもらうくらいなら、生きている意味はないと思えるのは、わたしたちがまだ元気な証拠です。わたしたちの中に、償いぐらい自分で働いて返すことができると思えるほど、力が残っているのです。
しかし、自分のすべてを失って、白旗を上げてギブアップする。「助けてください」と叫ぶ。支払いを待ってくださいと懇願する。そのときの哀れで惨めな思いを知っている人は、「働きがなくても、その信仰を義と認めてくださる」(4・5)神の恵みの意味を理解できると思います。寝たきりになり、自分では何もできなくなり、人に認められることも、人に喜んでもらえる奉仕も全くできなくなっても、それでもなお、自分の存在の意味と価値があると主張し続けてくださる神がおられるのだ、ということの意味を理解できると思います。
現実問題として、まだ守れていない約束があり、まだ果たせていない義務があり、まだ返すことができていない借金があるという場合には、わたしたちの心が穏やかになることはないでしょう。どうにもならない苦しみを毎日味わい続けることもあるでしょう。
そして、「イエス・キリストが共にいてくださる」と、教会の皆さんや牧師さんは言うけれども、それではいったいイエス・キリストというのはどこにいるのですか。具体的にそれはどういう意味なのですか。この教会の礼拝堂の中には十字架もありません。イエスさまはどこにおられるのですか。このようなことをわたしたちは何度となく考えこんでしまいます。私も考えます。これが答えだと言える正解はありません。
しかし、パウロが言っていることは、はっきりしています。「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます。キリストの霊を持たない者は、キリストに属していません。キリストがあなたがたの内におられるならば、体は罪によって死んでいても、“霊”は義によって命となっています」(9~10節)。
ここで「神の霊」と「キリストの霊」は、別々ではなく、同じ存在です。それは「聖霊」であり、聖霊とは(父なる)神とキリストとの霊です。パウロにとってイエス・キリストが共にいてくださるということは、神とキリストの霊である聖霊、わたしたちの心に宿ることを意味しています。わたしたちの心の中に、父なる神とイエス・キリストが宿ってくださるのです。
しかしそれは、心霊現象のようなこととは全く違います。聖書の学び、礼拝出席、教会生活の中で、イエス・キリストを知り、信じることによって、わたしたちの中にイエス・キリストの姿が鮮やかに描き出されるのです。そのことが聖霊の注ぎによって起こります。
そのような聖霊を与えられて生きることができるようになることが、わたしたちにとっての本当の救いであるということを、パウロは信じています。
(2013年10月13日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年10月12日土曜日
「第17回 カール・バルト研究会」報告
「第17回 カール・バルト研究会」終了しました。
テキストはカール・バルト『教義学要綱』(新教セミナーブック)の「9 天地」でした。
今日も大いに盛り上がりました。
カール・バルトの『教義学要綱』は、
その「序」でバルト本人が明かしているとおり、
書斎にこもって机の上で書かれた書物「ではなく」、
いくつかの主要命題だけを書いたレジュメを学生に配布して、
バルト本人もそれだけを見ながら
自由にしゃべりまくった「トークライブ」でした。
それを速記した学生がいて、バルトも若干手を加えて、本になった。
良く言えば、バルトのホンネが分かって面白い。
悪く言えば、
もうこれはどう考えても勢いだけで出ちゃった言葉(それを日本語で「出まかせ」と言います)だろう
としか言いようがない個所が、たくさんある。
支離滅裂、意味不明で「あ゛?」と声が出るほど飛躍した論理がある。
バルト自身もそのことが分かっていて、あえて出版したものだと明言しているので、
それがまたけっこう始末におえない。
「この個所に問題発言がある」と仮に指摘したとしても、
「あれはトークライブだからね(笑)」と逃げられちゃう可能性が高い。
でも、逆に考えれば、大いに真似るべき姿勢かもしれませんよね。
「あれはトークライブだからね(笑)」で全部通す。
「あれはFacebookだからね(笑)」とか
「あれはブログだからね(笑)」で全部通す。
うむ、バルト、おそるべし(笑)。
2013年10月11日金曜日
これはゲキブンです!
ぼくの「ぼく」呼称はネット上だけのことで、
ふだんはほとんどすべて「私」で通している関口です。
そんなぼくは、聖書学に関してはほとんど無知で、
18歳のとき学んだギリシア語はひどい成績だったし、
ヒブル語は勉強したことがない(あ、言っちゃった)ので、
太刀打ちできる根拠のカケラもフンマツもないです。
だけど、「組織神学」は、
エラそうな言い方をお許しいただけば、
「ライフワーク」だと思っています。
「関口康」から「組織神学」を引くと、残りはゼロ。
それくらいの関係性だと、誇張(こちょう)しておきます。
でもね、組織神学の需要が無いんですよね...。
今は、「聖書学全盛」の時代ですよね。
「聖書学は学問だけど、
組織神学は特定宗教団体のプロパガンダにすぎない」
これはね、がんばるしかないですよ。
奮起せよ、組織神学。
これね、檄文ですからね。ゲキブンですよ。げ・き・ぶ・ん。
ふだんはほとんどすべて「私」で通している関口です。
そんなぼくは、聖書学に関してはほとんど無知で、
18歳のとき学んだギリシア語はひどい成績だったし、
ヒブル語は勉強したことがない(あ、言っちゃった)ので、
太刀打ちできる根拠のカケラもフンマツもないです。
だけど、「組織神学」は、
エラそうな言い方をお許しいただけば、
「ライフワーク」だと思っています。
「関口康」から「組織神学」を引くと、残りはゼロ。
それくらいの関係性だと、誇張(こちょう)しておきます。
でもね、組織神学の需要が無いんですよね...。
今は、「聖書学全盛」の時代ですよね。
「聖書学は学問だけど、
組織神学は特定宗教団体のプロパガンダにすぎない」
これはね、がんばるしかないですよ。
奮起せよ、組織神学。
これね、檄文ですからね。ゲキブンですよ。げ・き・ぶ・ん。
ファン・ルーラーのどこが面白いの?(第2回)
「ファン・ルーラーは面白い」ということを、どうすれば分かってもらえるか。それだけを考えながら思いつくままに書いています。面白ささえ伝われば本の需要が生まれるだろうと、中の人(ぼく)は単純に考えています。フォロワーが1000人になる頃には、立派な日本語版著作集が出版されていることでしょう。
前回は、ファン・ルーラーの「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)の概念に辿り着いたのでした。それは、あくまでも「神」のイニシアチブ(主導権)が確保されつつ、「神から人へ」の(演繹の)ベクトルと「人から神へ」の(帰納の)ベクトルが不断の往復運動を続ける関係性を指しています。
というふうに書きますと、ファン・ルーラーがまるで抽象的な哲学思想を展開したかのように読まれてしまうかもしれませんが、決してそういうことではありません。伝統的な(改革派の)神学の言葉でいえば、「神から人へ」のベクトルの意味は「恩恵」であり、「人から神へ」のベクトルの意味は「感謝」です。
しかも、ファン・ルーラーにとって「恩恵」とは、途中のプロセスをすべて省略していきなり「神」と「私」の間で授受が行われるものではありません。三位一体論が発動します。神が世界を創造し、御子が世に遣わされ、聖霊が教会を立てる。教会が神の命を人に伝える。その全プロセスが「恩恵」です。
ファン・ルーラーにとって「恩恵」の全プロセスに含まれるのは、イスラエル史であり、キリスト教会(コルプス・クリスチ=キリストの体)の歴史であり、キリスト教国(コルプス・クリスチアーヌム=キリスト教の体)の歴史です。また、教会の説教、聖礼典、交わり、奉仕、教会会議などが含まれます。
このように書きますと、鋭い方はピンとくるものがあるでしょう。神から人への「恩恵」の全プロセスを見つめるファン・ルーラーの目に映っているのがイスラエル史であり、キリスト教会史であり、キリスト教国史であるならば、その中で決定的に重要な役割を果たす「人間」の姿が、見えていないはずがないのです。
歴史上の「偉人」の姿だけが見えている、という意味ではありません。ここはむしろ抽象化すべきです。神の恩恵の全プロセスの中で「人間」が決定的に重要な役割を果たす。その意味は、神は「人間を用いて」地上のみわざを行う、ということです。その意味で人間は「神の道具(インスツルメント)」です。
前回は、ファン・ルーラーの「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)の概念に辿り着いたのでした。それは、あくまでも「神」のイニシアチブ(主導権)が確保されつつ、「神から人へ」の(演繹の)ベクトルと「人から神へ」の(帰納の)ベクトルが不断の往復運動を続ける関係性を指しています。
というふうに書きますと、ファン・ルーラーがまるで抽象的な哲学思想を展開したかのように読まれてしまうかもしれませんが、決してそういうことではありません。伝統的な(改革派の)神学の言葉でいえば、「神から人へ」のベクトルの意味は「恩恵」であり、「人から神へ」のベクトルの意味は「感謝」です。
しかも、ファン・ルーラーにとって「恩恵」とは、途中のプロセスをすべて省略していきなり「神」と「私」の間で授受が行われるものではありません。三位一体論が発動します。神が世界を創造し、御子が世に遣わされ、聖霊が教会を立てる。教会が神の命を人に伝える。その全プロセスが「恩恵」です。
ファン・ルーラーにとって「恩恵」の全プロセスに含まれるのは、イスラエル史であり、キリスト教会(コルプス・クリスチ=キリストの体)の歴史であり、キリスト教国(コルプス・クリスチアーヌム=キリスト教の体)の歴史です。また、教会の説教、聖礼典、交わり、奉仕、教会会議などが含まれます。
このように書きますと、鋭い方はピンとくるものがあるでしょう。神から人への「恩恵」の全プロセスを見つめるファン・ルーラーの目に映っているのがイスラエル史であり、キリスト教会史であり、キリスト教国史であるならば、その中で決定的に重要な役割を果たす「人間」の姿が、見えていないはずがないのです。
歴史上の「偉人」の姿だけが見えている、という意味ではありません。ここはむしろ抽象化すべきです。神の恩恵の全プロセスの中で「人間」が決定的に重要な役割を果たす。その意味は、神は「人間を用いて」地上のみわざを行う、ということです。その意味で人間は「神の道具(インスツルメント)」です。
2013年10月10日木曜日
「ぼくはインディーズ系の人間ですから」に訂正します
拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」は、
A5判で15頁ほどの短い論文ですので、さっさと校正終わらせて、
さきほど編集長宛てに、ゲラを封筒に入れて郵便局から送り返しました。
ほっと一息です。
ネット禁欲(「してないじゃないか」という批判は絶えず)は、 ちょっとだけ解除。
それで今日書いたことを読み直していたのですが、
「ぼくは、大学や神学校など学術機関の後ろ盾を持っていない市井の人間ですので」は、
「ぼくはインディーズ系の人間ですから」のほうが良かったなと反省中。
あ、でも、「インディーズ」の意味を知らなかったので、ググったら、
うおお、 「インディペンデント」のインディーだったのですね。なんか感動。
これを知ってしまったぼくは、
これからは堂々と 「インディーズ組織神学者」を名乗ろうかと思ってしまいました。
名乗りませんけどね。
紀要論文の初校が届きました
ある学会の紀要に掲載予定の拙論「A. A. ファン・ルーラーの神学思想の特質」の初校が、編集長経由で出版社から送られてきましたので、さっそく校正中です。
やや恥ずかしい話ですが、ゲラが届くとほっとするのです。「あ、ホントに掲載してもらえるんだ」という実感がやっと湧いてきます。
ぼくは、大学や神学校など学術機関の後ろ盾を持っていない市井の人間ですので、これまでに、自分で頼み込んで掲載してもらった論文が多くあり、掲載不許可の通知をいただいたことも何度かありました。
骨のある編集長にも出会いました。某誌にぼくの論文が掲載されたあと、「なんであんなの載せたんだ」とクレームがあったそうですが、毅然と対応してくださいました。
市井の人間は権力に弱いので、初校が届くと、ぼくごときの見解を採用する勇気をもってくださった編集長を「拝み」はしませんが(ぼくクリスチャンですので)「尊敬」します。
編集長さま、ありがとうございます。
2013年10月9日水曜日
「比較教義学」の問題点―同じ趣旨のことをノーマルモードで書いてみませんか
どなたのブログだったか忘れましたが、それほど前でもない頃に読んだ記憶があるのですが、自分の教団・教派に疑問や批判を持っている人や、かつて異端に属していた人にとっては「組織神学」は役に立つが、そうでない人にとってはそうでない、という旨の書き込みがあって、「なにそれ?」と思いました。
おっしゃりたいことの趣旨が全く理解できないとも思わないのですが、「組織神学」の意義ってその程度のものなのかなあ、とことん落ちぶれたもんだなあ、まあいいけど、と思った次第です。
この件のぼくの問題意識は「アンチ神学」の問題と直接関係しています。「そもそも神学は学問なのか」(学問ではないのではないか)という誹謗をどうかわすかの問題は横に置いといて、学問の本質を「批判」に見いだすことの正当性を十分評価しつつも、「批判だけなのか」という問いが、ぼくにはあります。
「混せず、変せず、分かたれず、離れず」のようにすべてを否定形で提示する神学のプレゼン方法も、あるといえばあります。「我々は保守ではなく、リベラルでもなく、日和見でもない。ならば我々は何か。保守でもなく、リベラルでも日和見でもない者である。」 ただの同語反復ですが、すべてを「否」で自己紹介する。
「否」ではなく、打ち消しの言葉ではなく、「我々はこれである」とポジティヴに自己紹介することがもっとできないものだろうかと、ぼくはしばしば考えこんでいます。
これはどこかに前にも書いたことがありますが、いくつかの教団・教派の神学書を並べて読むと、面白いことに気づかされます。改革派の(古い)本には、「我々は一方のカトリックの極端と、他方の再洗礼派の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」という旨、書かれていることがあります。
ルーテル教会の(古い)本には「我々は一方のカトリックの極端と、他方のカルヴァン主義の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」と書かれています。「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンは、Aの人とBの人への当てこすりが必ず含まれているので、だいたいハナからケンカ腰の論述です。
「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンの方法を好んで採用してきた時代の「組織神学」は、嫌われて当たり前です。学問というよりプロパガンダだ、と思われても仕方ないです。Google Earthが出る前の、紙の世界地図のように、自国を中心に描いて「世界の中心」を示しているだけです。
「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼン方法を採用したがる組織神学には、ヘーゲルの弁証法の影響を受けた時代の教会と神学から受け継いだ要素があるはずです。なにせ「正・反・合」ですからね。「我々はAの極端の弱点と、Bの極端の弱点の両方を克服した、最強の教団だ」と言いたいのです。
しかし、それってどうなんでしょうかと、今さらながら考え込んでしまうのです。他者(とりわけキリスト教界「内部」の他者)との比較においてのみ自分の優位性を主張できると思い込んでいるタイプの神学を持つ教団・教派。なんとなく見苦しいし、みっともない。なんで比較なんだろうと思ってしまいます。
「宗教学」は正確には「比較宗教学」(comparative religion)だと昔習いました。「我々はAでもないし、Bでもない」と比較と否定で自己提示する教義学は、いわば「比較教義学」(comparative Dogmatics)です。この表現はすでに用いられているようです。
それで、ぼくが言いたいことは何かといえば、今書いている意味での「比較教義学」は、どれほど緻密な研究や論述に支えられているとしても、「それは学問の衣を着たプロパガンダである」という批判に耐えられないのではないか、ということです。
「バトルモードでなければ文章を書くことができない(そうでなければ勢いがつかない)」という人は、牧師や神学者の中には多い気がするのですが(ぼくもそうかも)、「同じ趣旨のことをノーマルモードで書いてみませんか」と言いたくなることがあります。ケンカ腰の言葉ではなく、ポジティヴな言葉で。
人のやっていることにケチつけているときはものすごく饒舌である。しかし、「自分のやっていることをポジティヴに紹介してみなさい」と言われると、ほとんど何も言えなくなってしまう、というような状態では寂しいかぎりです。何かのアンチだけで生きているような人たちの結末は、寂しいものです。
「比較教義学」などは全く無価値であると言いたいのではありません。しかしそのような提示方法は、むしろ教理史のほうに近いものなのですから、「組織神学」というより「歴史神学」のカテゴリーです。「組織神学」と「歴史神学」は対立関係にはありませんが、それぞれ固有の役割がある別々の部門です。
そして「組織神学」は、ぼくの考えでは、もっと穏やかな学問です。自分の立場をポジティヴな言葉で精密に紹介することに向いている学問です。暗闇でナイフを振り回して、だれかれなく自分以外のすべての人に無差別に切りかかるようなやり方は「組織神学」にふさわしくありません。
おっしゃりたいことの趣旨が全く理解できないとも思わないのですが、「組織神学」の意義ってその程度のものなのかなあ、とことん落ちぶれたもんだなあ、まあいいけど、と思った次第です。
この件のぼくの問題意識は「アンチ神学」の問題と直接関係しています。「そもそも神学は学問なのか」(学問ではないのではないか)という誹謗をどうかわすかの問題は横に置いといて、学問の本質を「批判」に見いだすことの正当性を十分評価しつつも、「批判だけなのか」という問いが、ぼくにはあります。
「混せず、変せず、分かたれず、離れず」のようにすべてを否定形で提示する神学のプレゼン方法も、あるといえばあります。「我々は保守ではなく、リベラルでもなく、日和見でもない。ならば我々は何か。保守でもなく、リベラルでも日和見でもない者である。」 ただの同語反復ですが、すべてを「否」で自己紹介する。
「否」ではなく、打ち消しの言葉ではなく、「我々はこれである」とポジティヴに自己紹介することがもっとできないものだろうかと、ぼくはしばしば考えこんでいます。
これはどこかに前にも書いたことがありますが、いくつかの教団・教派の神学書を並べて読むと、面白いことに気づかされます。改革派の(古い)本には、「我々は一方のカトリックの極端と、他方の再洗礼派の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」という旨、書かれていることがあります。
ルーテル教会の(古い)本には「我々は一方のカトリックの極端と、他方のカルヴァン主義の極端とを排した、中庸の道を歩んでいる」と書かれています。「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンは、Aの人とBの人への当てこすりが必ず含まれているので、だいたいハナからケンカ腰の論述です。
「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼンの方法を好んで採用してきた時代の「組織神学」は、嫌われて当たり前です。学問というよりプロパガンダだ、と思われても仕方ないです。Google Earthが出る前の、紙の世界地図のように、自国を中心に描いて「世界の中心」を示しているだけです。
「我々はAでもないし、Bでもない」というプレゼン方法を採用したがる組織神学には、ヘーゲルの弁証法の影響を受けた時代の教会と神学から受け継いだ要素があるはずです。なにせ「正・反・合」ですからね。「我々はAの極端の弱点と、Bの極端の弱点の両方を克服した、最強の教団だ」と言いたいのです。
しかし、それってどうなんでしょうかと、今さらながら考え込んでしまうのです。他者(とりわけキリスト教界「内部」の他者)との比較においてのみ自分の優位性を主張できると思い込んでいるタイプの神学を持つ教団・教派。なんとなく見苦しいし、みっともない。なんで比較なんだろうと思ってしまいます。
「宗教学」は正確には「比較宗教学」(comparative religion)だと昔習いました。「我々はAでもないし、Bでもない」と比較と否定で自己提示する教義学は、いわば「比較教義学」(comparative Dogmatics)です。この表現はすでに用いられているようです。
それで、ぼくが言いたいことは何かといえば、今書いている意味での「比較教義学」は、どれほど緻密な研究や論述に支えられているとしても、「それは学問の衣を着たプロパガンダである」という批判に耐えられないのではないか、ということです。
「バトルモードでなければ文章を書くことができない(そうでなければ勢いがつかない)」という人は、牧師や神学者の中には多い気がするのですが(ぼくもそうかも)、「同じ趣旨のことをノーマルモードで書いてみませんか」と言いたくなることがあります。ケンカ腰の言葉ではなく、ポジティヴな言葉で。
人のやっていることにケチつけているときはものすごく饒舌である。しかし、「自分のやっていることをポジティヴに紹介してみなさい」と言われると、ほとんど何も言えなくなってしまう、というような状態では寂しいかぎりです。何かのアンチだけで生きているような人たちの結末は、寂しいものです。
「比較教義学」などは全く無価値であると言いたいのではありません。しかしそのような提示方法は、むしろ教理史のほうに近いものなのですから、「組織神学」というより「歴史神学」のカテゴリーです。「組織神学」と「歴史神学」は対立関係にはありませんが、それぞれ固有の役割がある別々の部門です。
そして「組織神学」は、ぼくの考えでは、もっと穏やかな学問です。自分の立場をポジティヴな言葉で精密に紹介することに向いている学問です。暗闇でナイフを振り回して、だれかれなく自分以外のすべての人に無差別に切りかかるようなやり方は「組織神学」にふさわしくありません。
2013年10月8日火曜日
ファン・ルーラーのどこが面白いの?(第1回)
「ファン・ルーラーのどこが面白いの?」とか「ファン・ルーラーの神学の特徴は一言でいうと何なの?」とか、よく聞かれます。そういう質問にサッと応えられるようになることが研究者の務めだと思うので、面倒くさがらずに応えてきたつもりです。でも、一言でいうのは難しいことですね。痛感します。
意外に思われるかもしれませんが、ファン・ルーラーの神学は、彼が所属した「オランダ改革派教会」の伝統的・古典的なそれでした。古いか新しいかと問われればたぶん「古い」ほうに近いと言えそうですし、派手か地味かでいえば「地味」のほうです。彼自身が流行を追いかけた形跡はないです。
ファン・ルーラーが勉強熱心で博学だったことは、確実です。欧州の伝統校、ユトレヒト大学の教授をつかまえて「博学でした」と評すること自体が失礼の極みなのですが、彼の家は「本で」立っていたと言われますし、読んだ本から得た膨大な情報は、カード式情報整理箱で管理していたりしました。
ファン・ルーラーは、ヒムナシウム(ギムナジウム)の時代は数学が得意でした。特に立体幾何が好きでした。また、後に大学教授になる友人ザイデマと一緒に、ヒムナシウム時代に(!)カントの純粋理性批判やジンメルの本を読んだりしていたほど哲学への強い関心を持っていました。
ファン・ルーラーが学んだフローニンゲン大学神学部に提出した卒業論文のテーマも、神学そのものではなく、哲学に関するものでした。ヘーゲル、トレルチ、キルケゴールの歴史哲学の研究をまとめて神学部を卒業しました。大学卒業後、トレルチについての博士論文を書こうとしましたが、それは挫折しました。
なぜファン・ルーラーがそれほどまでに哲学に関心を持っていたのかという問いに応えるのは容易ではありませんが、一つ思い当たるのは、とにかく彼が「政治」に関心を持っていた、ということです。「政治」の一般性は、狭義の「神学」の特殊な論理だけで解くことはできません。「哲学」がどうしても必要です。
このあたりで、事情通の方はピンとくるものがあると思います。ファン・ルーラーがオランダ改革派教会の人であったとすれば、彼の学生時代(1920年代)のオランダにはすでにアブラハム・カイパーとヘルマン・バーフィンクが築いた「新カルヴァン主義哲学」があったはずだ。それとの関係はどうなのか。
その問いに短くお応えしておきます。なんと驚くべきことに、ファン・ルーラーはヒムナシウム時代から、ということは、大学入学前からカイパーとバーフィンクの本を読んでいました。しかし、特にカイパーには終生満足しませんでした。「哲学」の一般性を装った「宣教」をしているだけだと見抜いていました。
「宣教」をすることが悪いと、ファン・ルーラーが考えたわけではありません。「哲学」の一般性を装い、外見上「中立」で「無私」であるかのように振る舞いながら、実は「宣教」でした、というカムフラージュ(偽装)がアンフェアであると、彼は考えました。むしろ、堂々と「宣教」すればいいのです。
ひるがえって今日の教会の状況を考えてみますと、「宣教」の方法に関する最近の流行でもある一つの傾向は、少なくとも外見上は「一般性、中立性、無私性」を装いながら人に近づき、そこから徐々に「キリストへと」導くというやり方です。それを「帰納的方法」(inductive method)と言います。
キリスト教宣教における「帰納的方法」は間違っていると、ぼくが言いたいわけではありません。「帰納的方法」は、今の時代の要請に基づいて生み出された方法です。それは従来の「演繹的な」宣教論に対する批判を内包しています。「押しつけがましさ」を嫌う現代人に「帰納的方法」は必要です。
しかし「帰納的方法」にはやはり問題があります。最大の問題は、「それは偽装ではないのか」という問いかけがあった場合、きちんと答えることが難しいのではないだろうかということです。「宣教目的があるなら、あると最初から言ってくれればよかったのに」と言われたとき、どう答えるのでしょうか。
もっとも、今書いているようなことは誰でも容易に気づくことであり、まして、誠実さを看板に掲げている教会は「偽装」の嫌疑をかけられることにはとても耐えられませんので、「帰納的方法」はあくまでも「演繹的方法」の補助ないし補完として位置づけているケースが、実際にはほとんどだと思います。
もう少し図式的に言い換えれば、今日「帰納的方法」を採用する教会でも、多くの場合「演繹的方法」を捨てたうえで「帰納的方法」を採用したわけでなく、両方同時に採用しているということです。演繹のベクトルと帰納のベクトルは正反対ですから、両方同時に採用することによって「往復運動」が起こるのです。
このあたりでファン・ルーラーに話を戻します。いま書いた意味の「往復運動」(英語でback-and-forth movement)をまさに重んじる神学を考えたのがファン・ルーラーであると申し上げておきます。それは「神の啓示」と「人間と世界の存在」の相互関係を問い続ける神学でした。
「相互関係」(英語でreciprocity)という語をファン・ルーラーは繰り返し用いましたが、「相互関係」と言う以上、「演繹のベクトル」(神から人へ)と「帰納のベクトル」(人から神へ)の両方を備えていなくてはなりません。一方通行ではなく、双方向性が確保されなくてはなりません。
ただし、「神」と「人間」は対等の関係ではなく、両者には無限の差があり、主と僕の関係でもありますので、単なる「相互関係」でもない。それは、あくまでも「神」の主権のもとにある「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)であると、ファン・ルーラーは考えました。
意外に思われるかもしれませんが、ファン・ルーラーの神学は、彼が所属した「オランダ改革派教会」の伝統的・古典的なそれでした。古いか新しいかと問われればたぶん「古い」ほうに近いと言えそうですし、派手か地味かでいえば「地味」のほうです。彼自身が流行を追いかけた形跡はないです。
ファン・ルーラーが勉強熱心で博学だったことは、確実です。欧州の伝統校、ユトレヒト大学の教授をつかまえて「博学でした」と評すること自体が失礼の極みなのですが、彼の家は「本で」立っていたと言われますし、読んだ本から得た膨大な情報は、カード式情報整理箱で管理していたりしました。
ファン・ルーラーは、ヒムナシウム(ギムナジウム)の時代は数学が得意でした。特に立体幾何が好きでした。また、後に大学教授になる友人ザイデマと一緒に、ヒムナシウム時代に(!)カントの純粋理性批判やジンメルの本を読んだりしていたほど哲学への強い関心を持っていました。
ファン・ルーラーが学んだフローニンゲン大学神学部に提出した卒業論文のテーマも、神学そのものではなく、哲学に関するものでした。ヘーゲル、トレルチ、キルケゴールの歴史哲学の研究をまとめて神学部を卒業しました。大学卒業後、トレルチについての博士論文を書こうとしましたが、それは挫折しました。
なぜファン・ルーラーがそれほどまでに哲学に関心を持っていたのかという問いに応えるのは容易ではありませんが、一つ思い当たるのは、とにかく彼が「政治」に関心を持っていた、ということです。「政治」の一般性は、狭義の「神学」の特殊な論理だけで解くことはできません。「哲学」がどうしても必要です。
このあたりで、事情通の方はピンとくるものがあると思います。ファン・ルーラーがオランダ改革派教会の人であったとすれば、彼の学生時代(1920年代)のオランダにはすでにアブラハム・カイパーとヘルマン・バーフィンクが築いた「新カルヴァン主義哲学」があったはずだ。それとの関係はどうなのか。
その問いに短くお応えしておきます。なんと驚くべきことに、ファン・ルーラーはヒムナシウム時代から、ということは、大学入学前からカイパーとバーフィンクの本を読んでいました。しかし、特にカイパーには終生満足しませんでした。「哲学」の一般性を装った「宣教」をしているだけだと見抜いていました。
「宣教」をすることが悪いと、ファン・ルーラーが考えたわけではありません。「哲学」の一般性を装い、外見上「中立」で「無私」であるかのように振る舞いながら、実は「宣教」でした、というカムフラージュ(偽装)がアンフェアであると、彼は考えました。むしろ、堂々と「宣教」すればいいのです。
ひるがえって今日の教会の状況を考えてみますと、「宣教」の方法に関する最近の流行でもある一つの傾向は、少なくとも外見上は「一般性、中立性、無私性」を装いながら人に近づき、そこから徐々に「キリストへと」導くというやり方です。それを「帰納的方法」(inductive method)と言います。
キリスト教宣教における「帰納的方法」は間違っていると、ぼくが言いたいわけではありません。「帰納的方法」は、今の時代の要請に基づいて生み出された方法です。それは従来の「演繹的な」宣教論に対する批判を内包しています。「押しつけがましさ」を嫌う現代人に「帰納的方法」は必要です。
しかし「帰納的方法」にはやはり問題があります。最大の問題は、「それは偽装ではないのか」という問いかけがあった場合、きちんと答えることが難しいのではないだろうかということです。「宣教目的があるなら、あると最初から言ってくれればよかったのに」と言われたとき、どう答えるのでしょうか。
もっとも、今書いているようなことは誰でも容易に気づくことであり、まして、誠実さを看板に掲げている教会は「偽装」の嫌疑をかけられることにはとても耐えられませんので、「帰納的方法」はあくまでも「演繹的方法」の補助ないし補完として位置づけているケースが、実際にはほとんどだと思います。
もう少し図式的に言い換えれば、今日「帰納的方法」を採用する教会でも、多くの場合「演繹的方法」を捨てたうえで「帰納的方法」を採用したわけでなく、両方同時に採用しているということです。演繹のベクトルと帰納のベクトルは正反対ですから、両方同時に採用することによって「往復運動」が起こるのです。
このあたりでファン・ルーラーに話を戻します。いま書いた意味の「往復運動」(英語でback-and-forth movement)をまさに重んじる神学を考えたのがファン・ルーラーであると申し上げておきます。それは「神の啓示」と「人間と世界の存在」の相互関係を問い続ける神学でした。
「相互関係」(英語でreciprocity)という語をファン・ルーラーは繰り返し用いましたが、「相互関係」と言う以上、「演繹のベクトル」(神から人へ)と「帰納のベクトル」(人から神へ)の両方を備えていなくてはなりません。一方通行ではなく、双方向性が確保されなくてはなりません。
ただし、「神」と「人間」は対等の関係ではなく、両者には無限の差があり、主と僕の関係でもありますので、単なる「相互関係」でもない。それは、あくまでも「神」の主権のもとにある「神律的相互関係」(theonomous reciprocity)であると、ファン・ルーラーは考えました。
2013年10月7日月曜日
「ファン・ルーラー著作集を実現する会」というツイッターのアカウント(@aaavanruler)を取得しました
まだ年末になっていませんので「自主規制中」ですが、「楽しいやりとりは禁欲する」という線を守りつつ、お知らせだけさせていただきます。
「ファン・ルーラー著作集を実現する会」という名前のツイッターのアカウント(@aavanruler)を取得しました。ぜひフォローをお願いします。
Dit is een mission impossible.
@aavanruler からのツイート
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2013年10月6日日曜日
自分を見つめなおしてみませんか
ローマの信徒への手紙7・13~25
「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
今日の個所にパウロが描いていることは、一言でいえば、彼自身の心の中での葛藤であると考えることができます。何度も繰り返されているのは「わたし」という言葉です。この「わたし」に抽象的な意味はなく、具体的なパウロ自身のことであると考えるのが自然です。パウロは自分の心をじっと見つめているのです。そして、その中にあるのは何なのかを、ありのままに描いているのです。
パウロが自分の心の中に見つけたものは大きく分けると二つです。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。それが「ある」と言っています。
パウロは、善いことをしたいと願っているのです。悪いことをしたいと願っているわけではないのです。善いことをしたいのです。しかし、「それを実行できない」(18節)というのです。「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」(15節)と書いています。「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)とも書いています。
だから彼は「わたしは、自分のしていることが分かりません」(15節)という結論にたどり着きます。心と体がちぐはぐで、ばらばらの状態であることを、正直に告白しています。
そして、だからこそパウロは、自分の心の中に見いだすもう一つは「罪」であると言っているのです。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(17節)。
しかしこれは、考えれば考えるほど問題に満ちた発言であることは間違いありません。なぜ問題に満ちているのでしょうか。罪を犯して誰かを傷つけてしまった人が「この罪は私が犯したのではなく、私の中に住んでいる罪が罪を犯したのである」と言ったとしても、そのような言い訳を誰が理解し、受け容れてくれるだろうかということを考えてみれば、この発言のどこに問題があるかをご理解いただけると思います。「私ではなく、私の中の罪が罪を犯したのだ」などと言おうものなら、「何をわけの分からないことを言っているのか。あなたがやったんだろう」と言われるだけでしょう。支離滅裂の苦しい弁明でしかないと言われても仕方がありません。
しかし、そのことはパウロ自身もよく分かっています。自分が支離滅裂なことを書いているということをはっきり自覚しています。だからこそ彼は、とても苦しんでいます。深く激しく葛藤しています。しかし、自分が書いていることがめちゃくちゃであることをはっきり自覚したうえで、それでも彼が声を大にして主張したいと願っているに違いないことは、このわたしの心の中に「善をなそうという意志」はあるのだ、あるのだ、ということです。
彼は善いことをしたいのであって、罪を犯したいわけではないのです。罪を犯せばどういうことになるのかを知っているからです。それは、死ぬということです。罪の支払う報酬は死です。罪の先に待っているのは、地獄の恐怖と苦しみです。罪を犯して、まんまと大金をせしめた、人を出し抜いた。それで幸せになる人はいないのです。
そのことをパウロは、律法を通して学んできました。律法とは聖書です。罪を犯してはいけないということは、パウロにとっては聖書を通して子どもの頃から教えられてきたことでもあります。彼は聖書のみことばを専門的に研究してきた人でもあり、人に教える立場にあった人でもあります。
しかし、そのことと、彼自身が罪を犯してしまう弱さや欠けを持っているということとは別問題であると、彼は自覚しています。聖書のみことばをよく学び、よく知っていることと、聖書のみことばを生きることとは、必ずしも一致しないのです。
どちらのほうが大切かという議論を、私自身はパウロの中に見たことはありません。そういうことは考えない人だったのではないかと思っています。わたしたちが考えれば、だいたいのところ、聖書を一生懸命勉強するばかりで行いが伴わない人になるよりも、聖書の勉強はそこそこにして、そんなことよりも罪を犯さない正しい生き方を貫く人になるほうが善いに決まっている、というような結論に至るのではないかと思います。しかし、パウロにはそういうたぐいの議論に積極的に乗ろうとする様子は見られません。聖書を勉強することは大事なことです。知識があることは悪いことではありません。
そして、今日の個所にパウロが書いていることは、最初に申し上げたとおりパウロ自身の心の中での葛藤を描いたものであると考えることができますが、しかしそれは彼だけの話ではなく、すべての人に当てはまることであると彼が考えていることも明らかです。聖書を勉強するかしないかという問題は、その人が罪を犯すか犯さないかということと、必ずしもぴったり結びつかない面があります。そうであるならば、聖書を勉強すること自体は罪ではないのです。
そのことをパウロは述べています。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない」(13節)。「善いもの」とは律法であり、聖書です。聖書を学ぶことは罪なのか、そんなことはありえないと言っているのです。
しかしまた、そのパウロは、聖書をよく学んでいる人と聖書を学んでいない人の違いを知っています。それは、「これが神の御心である。これが正しい生き方である」ということを聖書を通して知らされていればいるほど、その善悪の基準と自分自身の姿を照らし合わせてみると、自分はいかにその基準から遠い生き方をしているかを知っているか、知らないかの違いであるということです。短く言えば、自分の中に罪があることについて、葛藤したことがあるか、したことがないか、の違いです。
だから、教会に来ると苦しくなる、という人がいるかもしれないとしても、それはある意味で当然のことでもあるのです。それは、わたしたちが病院に行って、医師の目で診てもらって、「ここに病気がある」と指摘されると、自分がまだ自覚していなかったところまで知ってしまってがっかりすることがあるのと似ています。レントゲンや超音波で調べられると人間の目では見えないところまで見えてしまいます。
だから病院には行かないという選択肢も、わたしたちにはありうると思います。すべてが見えてもそのすべてを治せるわけではないからです。ある意味で、という断り書きを付けておきますが、「ここに病気がある」ということをはっきりと自覚したうえで、その病気とうまく付き合いながら生きていくということも、わたしたちにはありうると思うのです。切って開いてそれを取り除くことができる病気と、できない病気があるからです。
それでは罪の場合はどうなのか、ということを、よく考えてみなければなりません。聖書を学ぶと「ここに罪がある」とはっきり自覚させられる面があります。それは「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです」(13節)とパウロが書いているとおりです。しかし、それでは「ここに罪がある」と指摘された人は、その罪をただちに取り除くことができるのかというと、そうではないとパウロは言っているのです。
「わたしではなく、わたしの中に住んでいる罪」が罪を犯しているのだ、と彼が言っていることの意図は、このわたし自身と、「わたしの中に住んでいる罪」とは別々のものではあるのだけれども(なぜなら、このわたしの中に「善をなそうという意志」はあるのだから)、しかし、両者はからみあい、混ざり合っているので、どこからは自分で、どこからは罪なのかを区別できないほどの状態になっているのだ。だから、それは完全に取り除くことはできないのだ、ということです。
「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(21節以下)とパウロは書いています。これもみな同じことの繰り返しです。善人としての自分と、悪人としての自分との区別がつかない。切り離すことができない。まるで多重人格者のようだ。
これは、わたしたちにとって慰めになることでしょうか、それともがっかりするばかりでしょうか。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と、まるで絶望の叫びのようなことまで書いています。
しかし、彼は絶望していません。むしろ希望に満ちています。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)と、感謝の言葉さえ述べています。
パウロは絶望してはいません。なぜでしょうか。彼にとって救いとは、自分の中の罪の部分が完全に取り除かれることを意味していないからです。
救われるとは、完璧に清い人間になることではありません。むしろ、自分には救い主が必要であると自覚し、その救い主に助けてもらうことが救いです。自分の力で何とかしろ、すべては自己責任であるとは言っていません。自分には助けが必要である、それほどに弱い人間であると自覚し、助けてもらうことが救いです。パウロはそのことを言いたいのです。
(2013年10月6日、松戸小金原教会主日礼拝)
「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない。実は、罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです。このようにして、罪は限りなく邪悪なものであることが、掟を通して示されたのでした。わたしたちは、律法が霊的なものであると知っています。しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています。わたしは、自分のしていることが分かりません。自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをするからです。もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。」
今日の個所にパウロが描いていることは、一言でいえば、彼自身の心の中での葛藤であると考えることができます。何度も繰り返されているのは「わたし」という言葉です。この「わたし」に抽象的な意味はなく、具体的なパウロ自身のことであると考えるのが自然です。パウロは自分の心をじっと見つめているのです。そして、その中にあるのは何なのかを、ありのままに描いているのです。
パウロが自分の心の中に見つけたものは大きく分けると二つです。一つは「善をなそうという意志」(18節)です。それが「ある」と言っています。
パウロは、善いことをしたいと願っているのです。悪いことをしたいと願っているわけではないのです。善いことをしたいのです。しかし、「それを実行できない」(18節)というのです。「自分が望むことは実行せず、かえって憎んでいることをする」(15節)と書いています。「自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(19節)とも書いています。
だから彼は「わたしは、自分のしていることが分かりません」(15節)という結論にたどり着きます。心と体がちぐはぐで、ばらばらの状態であることを、正直に告白しています。
そして、だからこそパウロは、自分の心の中に見いだすもう一つは「罪」であると言っているのです。「もし、望まないことを行っているとすれば、律法を善いものとして認めているわけになります。そして、そういうことを行っているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです」(17節)。
しかしこれは、考えれば考えるほど問題に満ちた発言であることは間違いありません。なぜ問題に満ちているのでしょうか。罪を犯して誰かを傷つけてしまった人が「この罪は私が犯したのではなく、私の中に住んでいる罪が罪を犯したのである」と言ったとしても、そのような言い訳を誰が理解し、受け容れてくれるだろうかということを考えてみれば、この発言のどこに問題があるかをご理解いただけると思います。「私ではなく、私の中の罪が罪を犯したのだ」などと言おうものなら、「何をわけの分からないことを言っているのか。あなたがやったんだろう」と言われるだけでしょう。支離滅裂の苦しい弁明でしかないと言われても仕方がありません。
しかし、そのことはパウロ自身もよく分かっています。自分が支離滅裂なことを書いているということをはっきり自覚しています。だからこそ彼は、とても苦しんでいます。深く激しく葛藤しています。しかし、自分が書いていることがめちゃくちゃであることをはっきり自覚したうえで、それでも彼が声を大にして主張したいと願っているに違いないことは、このわたしの心の中に「善をなそうという意志」はあるのだ、あるのだ、ということです。
彼は善いことをしたいのであって、罪を犯したいわけではないのです。罪を犯せばどういうことになるのかを知っているからです。それは、死ぬということです。罪の支払う報酬は死です。罪の先に待っているのは、地獄の恐怖と苦しみです。罪を犯して、まんまと大金をせしめた、人を出し抜いた。それで幸せになる人はいないのです。
そのことをパウロは、律法を通して学んできました。律法とは聖書です。罪を犯してはいけないということは、パウロにとっては聖書を通して子どもの頃から教えられてきたことでもあります。彼は聖書のみことばを専門的に研究してきた人でもあり、人に教える立場にあった人でもあります。
しかし、そのことと、彼自身が罪を犯してしまう弱さや欠けを持っているということとは別問題であると、彼は自覚しています。聖書のみことばをよく学び、よく知っていることと、聖書のみことばを生きることとは、必ずしも一致しないのです。
どちらのほうが大切かという議論を、私自身はパウロの中に見たことはありません。そういうことは考えない人だったのではないかと思っています。わたしたちが考えれば、だいたいのところ、聖書を一生懸命勉強するばかりで行いが伴わない人になるよりも、聖書の勉強はそこそこにして、そんなことよりも罪を犯さない正しい生き方を貫く人になるほうが善いに決まっている、というような結論に至るのではないかと思います。しかし、パウロにはそういうたぐいの議論に積極的に乗ろうとする様子は見られません。聖書を勉強することは大事なことです。知識があることは悪いことではありません。
そして、今日の個所にパウロが書いていることは、最初に申し上げたとおりパウロ自身の心の中での葛藤を描いたものであると考えることができますが、しかしそれは彼だけの話ではなく、すべての人に当てはまることであると彼が考えていることも明らかです。聖書を勉強するかしないかという問題は、その人が罪を犯すか犯さないかということと、必ずしもぴったり結びつかない面があります。そうであるならば、聖書を勉強すること自体は罪ではないのです。
そのことをパウロは述べています。「それでは、善いものがわたしにとって死をもたらすものとなったのだろうか。決してそうではない」(13節)。「善いもの」とは律法であり、聖書です。聖書を学ぶことは罪なのか、そんなことはありえないと言っているのです。
しかしまた、そのパウロは、聖書をよく学んでいる人と聖書を学んでいない人の違いを知っています。それは、「これが神の御心である。これが正しい生き方である」ということを聖書を通して知らされていればいるほど、その善悪の基準と自分自身の姿を照らし合わせてみると、自分はいかにその基準から遠い生き方をしているかを知っているか、知らないかの違いであるということです。短く言えば、自分の中に罪があることについて、葛藤したことがあるか、したことがないか、の違いです。
だから、教会に来ると苦しくなる、という人がいるかもしれないとしても、それはある意味で当然のことでもあるのです。それは、わたしたちが病院に行って、医師の目で診てもらって、「ここに病気がある」と指摘されると、自分がまだ自覚していなかったところまで知ってしまってがっかりすることがあるのと似ています。レントゲンや超音波で調べられると人間の目では見えないところまで見えてしまいます。
だから病院には行かないという選択肢も、わたしたちにはありうると思います。すべてが見えてもそのすべてを治せるわけではないからです。ある意味で、という断り書きを付けておきますが、「ここに病気がある」ということをはっきりと自覚したうえで、その病気とうまく付き合いながら生きていくということも、わたしたちにはありうると思うのです。切って開いてそれを取り除くことができる病気と、できない病気があるからです。
それでは罪の場合はどうなのか、ということを、よく考えてみなければなりません。聖書を学ぶと「ここに罪がある」とはっきり自覚させられる面があります。それは「罪がその正体を現すために、善いものを通してわたしに死をもたらしたのです」(13節)とパウロが書いているとおりです。しかし、それでは「ここに罪がある」と指摘された人は、その罪をただちに取り除くことができるのかというと、そうではないとパウロは言っているのです。
「わたしではなく、わたしの中に住んでいる罪」が罪を犯しているのだ、と彼が言っていることの意図は、このわたし自身と、「わたしの中に住んでいる罪」とは別々のものではあるのだけれども(なぜなら、このわたしの中に「善をなそうという意志」はあるのだから)、しかし、両者はからみあい、混ざり合っているので、どこからは自分で、どこからは罪なのかを区別できないほどの状態になっているのだ。だから、それは完全に取り除くことはできないのだ、ということです。
「それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります」(21節以下)とパウロは書いています。これもみな同じことの繰り返しです。善人としての自分と、悪人としての自分との区別がつかない。切り離すことができない。まるで多重人格者のようだ。
これは、わたしたちにとって慰めになることでしょうか、それともがっかりするばかりでしょうか。パウロは「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と、まるで絶望の叫びのようなことまで書いています。
しかし、彼は絶望していません。むしろ希望に満ちています。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(25節)と、感謝の言葉さえ述べています。
パウロは絶望してはいません。なぜでしょうか。彼にとって救いとは、自分の中の罪の部分が完全に取り除かれることを意味していないからです。
救われるとは、完璧に清い人間になることではありません。むしろ、自分には救い主が必要であると自覚し、その救い主に助けてもらうことが救いです。自分の力で何とかしろ、すべては自己責任であるとは言っていません。自分には助けが必要である、それほどに弱い人間であると自覚し、助けてもらうことが救いです。パウロはそのことを言いたいのです。
(2013年10月6日、松戸小金原教会主日礼拝)
2013年10月5日土曜日
再会の日を楽しみにしていてください
みなさん、ありがとうございます。
「自主規制」の理由は、書いたとおりです。
「ぼくにとってのネット活動が一円の収入にもつながらないこと」
が理由なので、その問題の解決策を探るための休止です。
早い話、
「収入につながるようなネット活動」をめざします。
「関口康 ステマ化計画」です。
それが何を意味するのかは、再会後のお楽しみ、ということで。
ワルイ話でもクライ話でもありませんので、
そのことだけは、どうかご信頼ください。
ぼくひとりなら、飲まず食わずでも言論活動続けられるんですけどね。
修学期の最終段階を目前にした子どもたちを前にすると、
そうも行かなくなりました。
それも、あと数年で過ぎ去る(子どもたちの修学期と共に終わる)
ごくわずかな一過性のことなのですけどね。
そして、(なるべくポジティヴな語調で書いておきますが!)
ぼくらが味わっている苦労は、
ぼくだけのことではなく、牧師だけのことでもなく、
おそらくは現在と将来の多くの家庭にとっての大問題でもある
と思っています。
なので、
この時期をぼくらが何とかして乗り越えることができたなら、
今度は
ぼくらが「これから苦労する方々」を物心両面で助け、支える側に回ることができる
と信じています。
苦労の中で、いろんなノウハウを身につけていますからね。
「最強の牧師」としてカムバックしますよ(たぶんね)。
みなさんのご多幸をお祈りしています。それでは、また。
2013年10月5日
関口 康
「自主規制」の理由は、書いたとおりです。
「ぼくにとってのネット活動が一円の収入にもつながらないこと」
が理由なので、その問題の解決策を探るための休止です。
早い話、
「収入につながるようなネット活動」をめざします。
「関口康 ステマ化計画」です。
それが何を意味するのかは、再会後のお楽しみ、ということで。
ワルイ話でもクライ話でもありませんので、
そのことだけは、どうかご信頼ください。
ぼくひとりなら、飲まず食わずでも言論活動続けられるんですけどね。
修学期の最終段階を目前にした子どもたちを前にすると、
そうも行かなくなりました。
それも、あと数年で過ぎ去る(子どもたちの修学期と共に終わる)
ごくわずかな一過性のことなのですけどね。
そして、(なるべくポジティヴな語調で書いておきますが!)
ぼくらが味わっている苦労は、
ぼくだけのことではなく、牧師だけのことでもなく、
おそらくは現在と将来の多くの家庭にとっての大問題でもある
と思っています。
なので、
この時期をぼくらが何とかして乗り越えることができたなら、
今度は
ぼくらが「これから苦労する方々」を物心両面で助け、支える側に回ることができる
と信じています。
苦労の中で、いろんなノウハウを身につけていますからね。
「最強の牧師」としてカムバックしますよ(たぶんね)。
みなさんのご多幸をお祈りしています。それでは、また。
2013年10月5日
関口 康
2013年10月4日金曜日
謹告
がっかりさせてしまうかもしれませんが、やっぱりお伝えしておきます。
まだこれからどうなるかは分かりませんが、
年末くらいまでを一応のめどにして、ネット活動を自主規制してみます。
ぼくにとってのネット活動が一円の収入にもつながらないことが理由です。
牧師のくせにお金のことなど問題にしたくはないのですが、
子どもたちの教育費に死ぬほどお金がかかる時代に
牧師として召され、かつ家族がいることを、後悔したくはないのです。
「ネットをやめたら収入が増えるのか」と問われると答えに窮しますが、
「試しにやめてみる」というくらいの意味です。
パソコンは仕事に使いますので、メールのやりとりは続けますし、
「カール・バルト研究会」も続けます。
しかし、「楽しいやりとり」は禁欲します。
お聞き苦しいことばかりですが、どうかお許しください。
まだこれからどうなるかは分かりませんが、
年末くらいまでを一応のめどにして、ネット活動を自主規制してみます。
ぼくにとってのネット活動が一円の収入にもつながらないことが理由です。
牧師のくせにお金のことなど問題にしたくはないのですが、
子どもたちの教育費に死ぬほどお金がかかる時代に
牧師として召され、かつ家族がいることを、後悔したくはないのです。
「ネットをやめたら収入が増えるのか」と問われると答えに窮しますが、
「試しにやめてみる」というくらいの意味です。
パソコンは仕事に使いますので、メールのやりとりは続けますし、
「カール・バルト研究会」も続けます。
しかし、「楽しいやりとり」は禁欲します。
お聞き苦しいことばかりですが、どうかお許しください。
2013年10月3日木曜日
日記「トンバルデンィヴの『論概學哲』にプチ興奮しています」
学生時代に購入し、読まずに放置していた岩波文庫をパソコンで拡大して読んだら、けっこう面白い内容であることが分かり、プチ興奮しているところです。
トンバルデンィヴの『論概學哲』の部一第(と表紙に書いているのだ)です。初版が1936年(昭和11年)の岩波文庫版です。速水敬二、高桑純夫、山本光雄訳です。
以下、「序論」の中から引用します。ただし、漢字や仮名を新しくしたり、文章表現を現代的なものに変えました。また、読みやすく改行を多くしたり、句読点の位置や数を変えたりしました。
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ヴィンデルバント『哲学概論』序論より
事実、この意味で難解なのは哲学ではなくて、学校臭味を洗い落して周囲の生きた思索と自由に接触し得ないような、どこか欠陥のある著者としての哲学者たちであろう。
彼らの晦渋も、ある意味では言い逃れの立たぬものではない。彼らが、それ自体としては断じて抗議される言われのない権利や要求をしばしば用いすぎたのは確かである。
言うまでもなく、学的に形成された概念を日常生活の不正確な表現や俗語から区別するために、それに独自の名称を与え、これによってできるだけ混同や乱用を防ぐことは、場合によっては必要である。
そしてこの目的のためには、経験が教えるように、また心理学で容易に説明しうるごとく、死語から取られた外来語が最も適している。けだし、これらの語は、何か独立なかつ自分のうちに固定したものとして、現代の言葉の流れから明瞭に区別されるからである。
我々はかかる術語をつくることを科学者、解剖学者、生物学者等々には常に何の躊躇もなく許している。しかるに、このことは哲学者にはとかく禁じられがちで、哲学者がこの権利を用いすぎれば、快くは思われない。
このことは哲学から見れば不都合ではあるが、善く考えれば気持ちの悪いことではない。なぜというに、哲学者の取り扱う事物が誰にでも関係をもち、従ってまた誰もが近づきうるものであり、またそうならなくてはならないし、このためにはまた誰にでもただちに理解される言葉で言い表されなくてはならぬ、という考えがそこに現れているからである。
ただし、この考えは全く正しいものとは言えない。むしろ哲学に対してこそ、まさにそれが常識になじまれた事物を取り扱うという理由で、この考えを与えられたままの粗雑、不正確から学問上使用できる概念にまで改造するという全く特別な課題が存するのである。
ゆえに哲学にとっては、自らの労作の成果に哲学製というスタンプを押すことは常に権利であり義務であろう。ただし哲学概論にはこの実際上通用していない術語への手引きという課題が同時に生じてくる。
ところで、術語の最も深い音色は、それの根底をなすモチーフを生ぜしめた問題を熟考してのみ始めて理解される。ゆえにこの概論においてぜひなされるべきは、この問題やそれの学的取り扱いに精通することこれである。
ただし、これがためには特別な前提や才能は必要でなく、ただ根気強い自己訓練と真面目な思索があればよい。そしていかなる場合にも一つのこと、すなわちあらゆる先入見を放棄することが絶対に必要である。
自分自身ですでに考えておいたことを哲学から聞かんと要求し、あるいは単に期待するごとき人には今さら哲学の研究でもあるまい。従ってすでに一つの世界観をもち、かついかなる場合にもあくまでそれを信じていこうと決心した者は己が身のために哲学を全然必要としない。換言すれば、彼にとって哲学は、信じている上に実際証明されたという名誉が与えられる贅沢を意味するにすぎない。
この関係は、それが通例適用されがちな宗教上の独断的意見についてのみ言われることではない。むしろ、特に指摘しなければならぬことだが、日常の世界観や人生観のうちにすでに流布しているものに哲学で再会しようと思っている多数の人々の前提について何よりもまず主張されうる。
「この人は正しい。これは私がいつも主張してきたところだ」というようなことを口にするかの大衆の人気を博するのはもとより容易であるが、ただし、実際決して名誉ではない。これはたとえば、詩人の言うように、公衆の口に合う雑炊である。
およそ哲学を真面目にやろうとするほどの者は、哲学の光で世界や人生が今まで見えていたとは別な姿になることを覚悟しなければならぬ。必要な場合には、哲学に入門したとき持っていた前提を犠牲に供する心構えがなくてはならないのである。
2013年10月2日水曜日
コレコレ、みなさん、「教会の高齢化」を嘆くでない
ぼくが教会の中の具体的な話を書き始めると、
特定のだれそれさんの話だと分かってしまうので、
そういうことは書かないのですが、
まあ、べつに悪い意味で書くわけではないので、
ちょっとだけ許してくださいね。
70歳になって洗礼を受けてまもなく10年経つ方が
「若い人、教会来ないですね」と、よくつぶやかれるのです。
ぼくの父と同い年(1933年生まれ)の方です。
そのときぼくは、
反論のような意味では全くないのですが、
「○○さん(その方)も70歳まで教会来られませんでしたよね?」
と笑いながら言うことにしています。
ぼくは、教会は「一生もの」だと思っていますので、
一生のうちの、どの時点かで教会に深くかかわる時期と、
ちょっと遠ざかってしまう時期とあることは、
ある程度やむをえないことだと、考えています。
一生の間、全く同じテンションで教会に通い続けることができる人は、
「一人もいない」とは言いませんが、たぶん少ないです。
ぼくが松戸小金原教会に来て来年3月でちょうど10年になるのですが、
この10年間で洗礼を受けてくださった方の
多く(「ほとんど」と言っても過言ではない)が、
70歳以上の方です。
それが悪いなんてことは、ありえないです。
コレコレ、みなさん、
「教会の高齢化」を嘆くでない。
ぼくはポジティブですよ。
ウェルカム、アラセブ、アラエイティ、アラナイのみなさん\(^o^)/
特定のだれそれさんの話だと分かってしまうので、
そういうことは書かないのですが、
まあ、べつに悪い意味で書くわけではないので、
ちょっとだけ許してくださいね。
70歳になって洗礼を受けてまもなく10年経つ方が
「若い人、教会来ないですね」と、よくつぶやかれるのです。
ぼくの父と同い年(1933年生まれ)の方です。
そのときぼくは、
反論のような意味では全くないのですが、
「○○さん(その方)も70歳まで教会来られませんでしたよね?」
と笑いながら言うことにしています。
ぼくは、教会は「一生もの」だと思っていますので、
一生のうちの、どの時点かで教会に深くかかわる時期と、
ちょっと遠ざかってしまう時期とあることは、
ある程度やむをえないことだと、考えています。
一生の間、全く同じテンションで教会に通い続けることができる人は、
「一人もいない」とは言いませんが、たぶん少ないです。
ぼくが松戸小金原教会に来て来年3月でちょうど10年になるのですが、
この10年間で洗礼を受けてくださった方の
多く(「ほとんど」と言っても過言ではない)が、
70歳以上の方です。
それが悪いなんてことは、ありえないです。
コレコレ、みなさん、
「教会の高齢化」を嘆くでない。
ぼくはポジティブですよ。
ウェルカム、アラセブ、アラエイティ、アラナイのみなさん\(^o^)/
日常の中で己が「職人芸」を見いだす(何を大げさな)
日本ヘルダー学会紀要『ヘルダー研究』第18号(2013年)を、
論文を執筆なさった先生からお贈りいただきましたので、
いまお礼のメールを書いていました。
メールですので、字数などを考えないで書きましたが、
3時間ほどかけて書き終えて(偉い先生宛てのメールを書くのは緊張します)、
それを送信したあと字数を数えてみたら、
毎週の礼拝説教原稿のフォーマット(A4判コピー用紙で40字×40行)の、
ピッタリ1頁分でした。
よく、学校の教員を長年続けておられる方々が、
一コマの講義の長さ(たとえば90分)が、カラダで分かるとおっしゃいますよね。
ぼくも何年か前から、毎週の週報を印刷するとき、
ぱっとつかんだ用紙の枚数が、
印刷すべき枚数(たとえば80枚なり100枚なり)とピッタリ、ということが
けっこう増えてきました。
ちょっとエラそうな言い方をお許しいただけば、
こういうのを「職人芸」と言うんですよね。
まだまだ修行が足りませんけどね。
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