2009年9月2日水曜日

復活の光(2008年)

SCENE001 胃がん検診

「まず最初に胃を膨らませる薬。そのあとバリウムね。」
生まれて初めての経験てのは恐ろしい。言われるままにするしかなかろう。
「金具のついた服は脱いでください。」
「・・・はい。」
ベルトのバックルは金具だ。ここでズボン脱ぐの?
「棚の上の籠の中のを穿いて。」
パジャマのズボンだ。しわくちゃだ。
「穿きました。」
「じゃ、これ飲んで。」
ん?結構飲めるぞ。お腹がすいてるからかな。豆乳のようだ。ちょっと冷たいし。
「では、レントゲン室に入ってください。」
前の人が出てきた。次に僕が入る。ガラス張りの部屋の扉が閉まる。

SCENE002 寝坊

「お父さん!お父さん!遅刻する!」
・・・ナ、何だあ?・・・あ、いけね!
「うわ!ごめん、ごめん。寝坊しちゃった!」
「何か食べていかなきゃ。何か買ってきてある?」
やべ、また買い忘れた。
でも食パンはまだ二、三枚残っている。昨日の朝は食パンじゃなかったはずだし(どうだっけ?)。
「これをトーストして、ハムとチーズを載せよう。それでいいな。」
「うん、分かった。」
「トイレ行って歯磨きしたら、車で学校まで送ってやる。早く準備しろ。」
「はい。」
今夜の献立は何にしようか。

SCENE003 買い物


昨日も来たスーパーの中を今日も歩いている僕。大根の前にしゃがんでいる女性店員の横を通過。
「いらっしゃいませー。」ハイハイ、いらっしゃいましたー・・・。
この時間に男性の客はいない。目立ってるのかなあ。まあ、そんなことに誰も関心ないか。
買い物と言っても昼に食べるものだけだ。
ごはんはもうすぐ炊ける。レトルトカレーでいいや。いざというとき用に、四つほど買い込んでおこう。
夕食の材料は、またあとで買いに来なければ。昨日と同じメニューじゃ、子どもたちがかわいそうだ。
それから、ペットボトルのウーロン茶。
今日は温かい。子どもたちが帰ってきたら「のどが渇いたよお」と言うだろうから、2リットル。
お、レジに男性が並んでいる。75才というところか。
「1230円でございます。それでは、2030円お預かりいたします。800円おつりでございます。
ありがとうございました。またお越しくださいませー。」
毎日来てるよー!
・・・最近、ひとりごとばっかり言ってるよ、オレ。

SCENE004 結婚指輪と片頭痛

僕の日課は定まらない。名刺には「哲学者」と書いてみたいのだが、小説家のようなイベント屋のような仕事に不定期で取り組んでいる。会社勤めはしたことがない(ことにしている)。
それでも一つだけ決まっていることがある。朝起きるとすぐに結婚指輪をはめ、夜眠る前に外すことだ。
指輪の内側には二人の名前が書いてある。ノビタとシズカ(ウソ)。しばらくサイズが合わなくなっていたが、数年前にダイエット大作戦を敢行してからは、爪楊枝が二本入る余裕ができた。右手でくるくる回すことだってできる。
「そう。」
もう一つ日課があった。
最近、片頭痛がひどい。薬局で買える頭痛薬を飴玉のように口に放り込む癖がついた。一種の薬物依存だ。
原因は分かっている。僕は今、深い暗闇の前に立っている。

SCENE005 深い暗闇

深い暗闇とは何か。答えが分かるなら、それは暗闇ではないのだ。
不気味ではある。何かとんでもないものが僕を待ち受けている。
被害妄想ではない。生傷はすでにある。
強いて名づけるとしたら「現実という名の暴力」。
しかし、無理しても耐えて行こうと思う。行く先は他にはない。
まあ何とかなるだろう。道はないかもしれないが地面はありそうだ。
温泉に興味はないが風呂につかれば安眠もできる。
生温かい血が、僕の中をゆっくりと流れている。
根拠なき勇気なら、誰にも負けない。

SCENE006 帰宅

ギ・・・。
「ただいまー。」
「あ!おかえり。ど?」
「にゃ、別に。」
「そ。ま、おつかれ。」
「ん。」
「ねる?」
「ん。あ、駅前でパン買ったけど。食べる?」
「お、ありがと。一緒に食べよか。」
「・・・。」
振り向くと、もう夢の中。
ホント、お疲れさま・・・。

SCENE007 復活のひかり

少しずつ少しずつ、確実に時間が流れている。
さびしい。
賑やかなところが好きなわけではない。
「あなた」を独り占めしたいだけだ。
でも、叶わない。しばらくのあいだは。
「しばらくのあいだは」? そうだ!!
僕は必ずまた立ち上がる。
死ぬまでにしなければならないことがある。
動け、指。動け、足。お願いだから。
脳からの命令に反応してくれ。
僕に残された日は、限られている。

SCENE008 傷心

198X年、第三京浜。横浜に向けて時速17Xキロで疾走中。
「・・・やばいな。」
アクセルをゆるめる。助手席には僕より背の高い、五歳上の女性。
何の感情もない。ありえない。あるのは違和感と、冷え切った手足。
前の夜、僕はひとりで泣いていた。察してくれたようだった。
自動車を近くの駐車場にとめ、コンサート会場まで歩いた。
僕は左。「恥ずかしい」という感情が芽生え、二歩ほど離れて。
顔を直視できなかった。

SCENE009 口笛

それでもその日、女性は恩人になった。
転機は三ヶ月後に訪れた。
富士山は見えなかった。バックミラーの中に「あなた」がいた。
隣から話しかけてくる友人の声は耳に入らなかった。うるさいよ。
僕は心の中で口笛を吹いていた。
下り坂のワインディングロードに沿って巧みにハンドルを操る。
アクセルも、ブレーキも、そっとやさしく、やわらかに。
夕方、10円玉を30個つかんで電話ボックスに駆け込む。
よし、また会える。

SCENE010 大雪の翌日

申し訳ないことに、雪が嫌いだ。
良い思い出がひとつもない。あのことも、このことも、雪の日に起きた。
右足に軽い障碍が残っている。最初で最後のスキーで捻挫したからだ。
交差点を曲がり切れず、後輪が大破したこともある。チェーンは面倒くさい。
上り坂を自動車ごと後ずさりしたこともある。渋滞中だったので冷や汗をかいた。
でも、こんなのは大したことじゃない。
透きとおった人と初めて出会ったのは大雪の翌日だった。
雪はずるい。
うっかりボルテージが急激にピークまで上がってしまったではないか。
人があれほど美しいものかと。
「赤いマフラーが僕を狂わせたんだよな。」
今はそう思うことにしている。