2009年9月27日日曜日

三位一体の神


ヨハネによる福音書8・21~30

「そこで、イエスはまた言われた。『わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。』ユダヤ人たちが、『「わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない」と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか』と話していると、イエスは彼らに言われた。『あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。「わたしはある」ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。』彼らが、『あなたは、いったい、どなたなのですか』と言うと、イエスは言われた。『それは初めから話しているではないか。あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。』彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。そこで、イエスは言われた。『あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、「わたしはある」ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしも、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。』これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。」

今日の個所に至って、ヨハネによる福音書の難解さが絶頂点に達すると言うべきかもしれません。一回や二回読むだけで「分かった」と言える人は少ないでしょう。ユダヤ人たちを含む大勢の人々の前でイエスさまがおっしゃっていることは何でしょうか。三つほどのポイントを挙げてみます。

第一のポイントは、「わたしは去って行くが、わたしの行く所にあなたがたは来ることができない」ということです。イエスさまは、どこに行かれるのでしょうか。それははっきりしています。イエスさまが「わたしの行く所」とおっしゃっているのは「父なる神のみもと」です。そのところにわたしは行くことができるが、あなたがたは行くことができないと言っておられるのです。

第二のポイントは、「わたしは上のものに属しているが、あなたがたユダヤ人たちは下のものに属している」ということです。補足として、あなたがたは「この世」に属しているが、わたしは「この世」に属していないと語られています。つまり「この世」が「下のもの」です。そして「上のもの」とは「下のもの」の反対ですので、「この世」の反対。ということは「あの世」のことかとお考えになる方も多いでしょう。しかし「あの世」とは何でしょうか。それはどこにあるでしょうか。今申し上げることができるのは、イエスさまのおっしゃる「この世」の反対は我々のイメージする「あの世」とは本質的に違うものであるということです。

ここで第一のポイントに絡みます。イエスさまにとって「この世」の反対は「あの世」というような所ではなく常に「父なる神のみもと」なのです。聖書の中で「天」ないし「天国」が意味することは常に「神がおられるところ」です。ですから、わたしたちはこのイエスさまの言葉を衝撃をもって聞かなければなりません。「父なる神のみもと」としての「天」もしくは「天国」に行くことができるのはイエスさまおひとりだけであって、他の誰も行くことができないと言われているのです。

第三のポイントは「わたしはある」という不思議な言葉の中に隠されています。これは何でしょうか。「わたしはある」という日本語はありません。支離滅裂な響きを感じます。しかし、イエスさまのおっしゃっていることが支離滅裂であると言いたいわけではありません。あるいは、新共同訳聖書の日本語がおかしいと言いたいのでもありません。イエスさまは確かに「わたしはある」と言われたのです。ただし、その意味は、当時の人々にとっても、今のわたしたちにとっても、よほど詳しい説明でも受けないかぎり全く理解できそうもないようなことを、イエスさまはお話しになっているのです。

これから申し上げることはいま挙げた三つのポイントに共通している問題に対する答えです。三つのポイントをまとめていえば、イエスさまがこれから行かれるところは父なる神のみもとであるが、そこに行くことができるのはイエスさまひとりだけであって、他の誰も行くことができない。そして、そこにイエスさまが行かれたときに初めて、イエスさまこそが「わたしはある」という存在であるということがイエスさま以外の人々に分かるということです。

ここで考えてみたいことがあります。それは、なぜわたしたちはこのイエスさまのお話を難しいと感じるのかというその理由ないし原因です。私にはすぐ思い当たります。それは主に第一のポイントと第二のポイントにかかわることです。

皆さんの中にも、「父なる神のみもとに行くことができるのはイエスさまだけであって、他の誰も行くことができない」という言葉を聞くと躓きを感じるという方がおられないでしょうか。手を挙げてくださいとは申しませんが、おそらくきっとおられるはずです。なぜでしょうか。私自身も含めて多くのキリスト者が長年聞いて来た教会の説教の中で「わたしたちが死んだら父なる神のみもとに行くのだ」ということを繰り返し教えられてきたからです。その教えが間違っているわけではありません。しかしそれにもかかわらず、「父なる神のみもと」に行くことができるのはイエスさまだけであって、他の誰も行くことができないのだというようなことを言われてしまいますと、「それでは我々はどこに連れて行かれるのか」という点で不安を感じたり、反発を覚えたりする人が出てくるわけです。それは無理もないことです。このイエスさまのお話を理解できない理由ないし原因は、わたしたちがこれまで聞いて来た説教の内容とは違うことが語られているように感じるという点にあるのではないだろうかと、私には思われるのです。

しかし、ここから先は励ましと慰めの言葉です。どうかご安心ください。わたしたちも間違いなく「父なる神のみもと」に行くことができます!「どこに連れて行かれるのだろうか」と心配することは全くありません。ただしそれはイエスさまがおっしゃっているのとは違う意味です。どこが違うのか。イエスさまの行かれる所と、わたしたちが行く所とは、同じ「父なる神のみもと」であっても、違う所なのだということです。ますますややこしい話をしてしまっているかもしれませんが、事情は今申し上げたとおりです。誤解を恐れず言えば、「父なる神のみもと」には二種類あるということです。イエスさまが行かれる所と、わたしたちが行く所は、違う所なのです。

しかし、どう違うのでしょうか。その説明をするためには、第三のポイントにかかわる答えを先に申し上げる必要があります。第三のポイントとはイエスさまがおっしゃる「わたしはある」とは何のことかという問題でした。すぐに答えを言います。このイエスさまの言葉には、明らかに旧約聖書的背景があります。お開きいただきたいのは出エジプト記3・13~14です。次のように記されています。

「モーセは神に尋ねた。『わたしは、今、イスラエルの人々のところへ参ります。彼らに、「あなたたちの先祖の神が、わたしをここに遣わされたのです」と言えば、彼らは、「その名は一体何か」と問うにちがいありません。彼らに何と答えるべきでしょうか。』神はモーセに、『わたしはある。わたしはあるという者だ』と言われ、また、『イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。』」(出エジプト記3・13~14)

はっきり言います。イエスさまはこの出エジプト記の個所を念頭に置きながら、御自身を指して、このわたしこそが「わたしはある」と呼ばれるものであるとおっしゃっているのです。つまりイエスさまは「わたしは神である」とおっしゃっているのだということです。

このイエスさまの御言葉は、当時の人々の耳には、ほとんど間違いなく衝撃的な言葉として響いたはずです。イエスさまのお姿はどこからどう見ても、ただの人間にしか見えなかったはずです。そのイエスさまが「わたしはある」、すなわち「わたしは神である」とはっきりおっしゃったのですから、この言葉の旧約聖書的な背景を知っていた人々の中に驚かなかった人はいなかったはずです。または、驚くというよりは激しい怒りを抱いた人々も少なくなかったはずです。ただの人間に過ぎないこの男が「わたしは神である」と最悪の暴言を吐き、神を著しく冒瀆したと見た人々は多かったでしょう。

しかし、これは信仰の事柄であると、申し上げなければなりません。ここでわたしたちが全く否定できないことは、イエスさまはたしかに「わたしはある」とおっしゃることによって「わたしは神である」と明言されたということです。そして、そのことを聞いてひたすら激しく怒り、拒絶し、最悪の冒瀆罪を犯したとみなして断罪するか、それともイエスさまのおっしゃるとおりであると信じるかは、あれかこれか、二者択一の事柄であるということです。

わたしたちキリスト者と代々のキリスト教会は、イエス・キリストを「神」と信じる信仰に立っています。つまりイエスさまが御自身を指して「わたしはある」と言われたことを否定するのではなく肯定する信仰に立っています。イエス・キリストは神なのです。この点を譲ることはできません。

そしてこの点から、先ほど触れたまま、まだ答えの出ていない問題に帰ります。同じ「父なる神のみもと」でも、イエスさまが行かれる所と、わたしたちが行く所は違うという問題です。どう違うのでしょうか。これもすぐに答えを言います。イエスさまは神です。神の御子であり、御子なる神です。そのイエスさまが「父なる神のみもと」に行かれるという意味は、神としてのイエスさまが本来の姿にお戻りになるということです。つまり、本来「神」であられるイエスさまが、まさに神になられること、それがイエスさまの父なる神のみもとへの帰還の意味であるということです。

しかしそれに対して、わたしたちが「父なる神のみもと」に行くという場合には、わたしたち自身が神になるわけではないという点が全く違います。わたしたちは死んでも神にはなりません。地上の人生においてどれほど立派な働きをしても、だからといってわたしたち自身が神になるわけではありません。わたしたちが父なる神のみもとに行くときに起こることは、永遠に神に仕える者になられるということです。その場合、わたしたちが仕える神は三位一体の神です。そこには父なる神がおられ、御子なるイエス・キリストがおられ、聖霊なる神がおられます。

ただし、三人の神さまであるとお考えにならないでください。ある神学者の説明を借りて言えば、三位一体の神は「1+1+1=1」(足し算)ではなく「1×1×1=1」(掛け算)なのだ、ということです。しかし、こんな言い方ではますます分かりません。別の言い方をすれば、おひとりの神が地上の人間に対して三回、異なる姿でかかわってくださったのだ、ということです。

わたしたちに問われていることは、あなたはこのことを信じるかということです。あなたはイエス・キリストは「わたしはある」と称される神御自身であるということを信じるか、ということです。

(2009年9月27日、松戸小金原教会主日礼拝)