2009年9月13日日曜日

聖書の正しい調べ方


ヨハネによる福音書7・40~53

「この言葉を聞いて、群衆の中には、『この人は、本当にあの預言者だ』と言う者がいたが、このように言う者もいた。『メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか。』こうして、イエスのことで群衆の間に対立が生じた。その中にはイエスを捕らえようと思う者もいたが、手をかける者はなかった。さて、祭司長たちやファリサイ派の人々は、下役たちが戻って来たとき、『どうして、あの男を連れて来なかったのか』と言った。下役たちは、『今まで、あの人のように話した人はいません』と答えた。すると、ファリサイ派の人々は言った。『お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている。』彼らの中の一人で、以前イエスを訪ねたことのあるニコデモが言った。『我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか。』彼らは答えて言った。『あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。』人々はおのおの家へ帰って行った。」

今日お読みしましたこの個所にはイエス・キリスト御自身は登場いたしません。その代わりにここに記されていますのは、イエス・キリストの説教を聞いた人々の様々な反応です。

前回まで学んできましたとおり、イエスさまは、ガリラヤ地方にいた御自分の兄弟たちには内緒でエルサレムにひとりで上られ、神殿の境内にお立ちになって、多くの人々の前で説教なさいました。その説教を聞いた人々の中には「この人は、学問をしたわけでもないのに、どうして聖書をこんなによく知っているだろう」(7・15)という点に疑問をもった人々がいました。その疑問にお答えになるためにイエスさまがおっしゃったことは、「わたしの教えは、自分の教えではなく、わたしをお遣わしになった方の教えである」(7・16)ということでした。

このようなお答えのなさり方が、イエスさまに対する先ほど述べたような疑問をもった人々が納得できる、あるいは十分に満足できる答えとして受けとめられたかどうかは分かりません。彼らの疑問は、イエスさまが聖書を勉強した場所と方法が分からないということでした。しかし、イエスさまはそのことについては何も答えておられません。イエスさまのお答えを聞いた人々の中には、わたしは聖書を勉強したことなどなく、「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、父なる神御自身から直接教えていただいたのだと、そのような答えを我々は聞いたと感じた人もいたはずです。別の言い方をすれば、わたしは勉強などしなくても、そんなことは初めから知っていると、そんなふうにこの人は言ったと、イエスさまの言葉を解釈する人々もいたであろうと思われるのです。

しかし、です。わたしたちはイエスさまがおっしゃったことを我々とは全く異なる完全な別世界の話にしてしまってはならないだろうと私自身は考えております。はたして本当にイエスさまは「聖書を勉強する」という次元のことは一切なさったことがないと言ってよいのでしょうか。いや、そんなことはないはずだと思われてなりません。勉強などしなくてもわたしは何でも知っているという人がいれば、それはスーパーマンか宇宙人です。宇宙人だって勉強するかもしれません。しかし、イエスさまについてわたしたちは、この方が幼い頃から会堂にも神殿にも通っておられたという点は語ってよいことです。そこで語られ聴かれている聖書の説き明かし、すなわち説教というものをイエスさまはずっと聞き続けてこられたはずです。この点では、イエスさまはわたしたちと全く同じなのです。神学部に入学しなければ、神学校に通わなければ、聖書をよく知ったというにはならないというふうに考えてしまうこと自体が間違いなのです。聖書というこの書物の本質から言えば、この書物を教会の中で説教を通して学ぶことこそが、この書物の最も正しい学び方なのです。

そして、その場合に重要なことは、教会においては、聖書に基づく説教というものを「神御自身がお語りになる御言葉」であると信じて聴くのだということです。その意味からいえば、教会に通っているわたしたちは、なるほど「聖書を勉強する」という言い方は当てはまらないようなことを続けているかもしれません。たとえば一昔前の日本では(という言い方をすると怒られるかもしれませんが)学校教育の中にいわゆる丸暗記という方法が採られ、重要視されていた時期がありました。60年ほど前には、日本の歴代天皇の名前を全部言えるようになることが求められたりもしました。「聖書を勉強する」ということをそれと同じように考えてしまうとしたらどうでしょうか。皆さんの中に旧約時代のイスラエル王の名前を、あるいは新約聖書の最初に出てくるイエス・キリストの系図に登場する人々の名前を何も見ずに順序を間違えないですらすら諳んじることができるという方がおられるでしょうか。もしおられたら素晴らしいことです。しかし、そういうことができなければ聖書を勉強したことにならないとでも言われた日には悲鳴を上げたくなるという方のほうが多いのではないでしょうか。

私がいま、皆さんと一緒に考えていることは、聖書を勉強する、あるいは聖書を知るとはどういうことを意味するのでしょうかという問題です。丸暗記することでしょうか。ここかしこの聖句を暗唱できるようになることでしょうか。どうもそういうこととは違う次元のことであるだろうと考えざるをえません。聖句を暗唱できる人をけなす意図はありませんし、それ自体は立派なことです。しかし、そのこととこのこととは別の話であるはずだと、いま私は申し上げているのです。

今日の個所の最初に出てくるイエスさまの説教を聞いた人々の中に「この人は本当にあの預言者だ」と言う人がおり、「この人はメシアだ」と言う人がいました。実は、この人々が言っていることこそが、わたしたちが「聖書を勉強するとは何を意味するのか」という問題を考えていくときに重要な参考例になるものです。とくに重要なのは後者、すなわち「この人はメシアだ」と、そのように感じた人がいたという事実です。なぜこの人はそのように感じたのかということを、わたしたち自身が、いわばこの人の立場に立ってじっくり考えてみるとよいのです。

「メシア」はヘブライ語です。これをギリシア語に翻訳した言葉が「キリスト」です。ですから、イエスさまの説教を聞いた人が言ったのは「この人はキリストだ」ということである、ということになります。メシアとは旧約時代のイスラエルの人々が心から待ち望んだ、将来来てくださる救い主のことです。しかしまた、そのことと同時に、その方は彼らにとってはまだ来ておられない、未知なる方でもありました。まだ見たことがない、出会ったことがない存在でした。空想の存在とまで言ってしまうことには語弊がありますが、実際にそれはどのよう方であるかを誰も知らず、誰も見たことがなかった以上、その方を現実的な存在と呼ぶことは難しい。それが、旧約時代のイスラエルの人々にとってのメシアの存在でした。

しかしまた、ここで考えざるをえないことは、イスラエルの人々が、メシアが来てくださることを心から待ち望んでいたことには、彼らの置かれていた苦しい現実があったということです。ラクチンで生きている人々は救い主など必要ないかもしれません。わたしたち人間は、苦しんでいるからこそ、助けを求めなければ生きていけないほどに追い詰められているからこそ、このわたし、わたしたちを助けに来てくださる方の存在を空想したり夢見たりする必要があるのです。

群衆の中にいたイエスさまの説教を聞いて「この人はメシアだ」と言った人がそのときどのような事情の中に置かれていた人であるかは分かりません。しかし、この人がどうしてイエスさまにこの方はメシアだと感じたのかという点に関してわたしたちが考えうることは、ただ単にそう思っただけだということを越えているものがあるのではないかということです。より具体的に言えば、「この人は、いま苦しみの中にいる、このわたしを、わたしたちを助けてくださるために来てくださった救い主である」と感じることができたということです。そしてそれは、もっと踏み込んで言えば、今苦しんでいるこのわたしが、わたしたちが求めているニードに対して、あるいは心や体の飢え渇きに対して、わたしの目の前にいるこの方、イエスというお方が応えてくれる、満たしてくれる、そのような存在であると見えたに違いないということです。

もっと平たく言えば、この人はやはりイエスさまに出会うより前に、まずは自分自身の飢え渇きや自分自身では解決できない悩みや問題を抱えていたのだと思われるのです。その人の心に大きな穴が開いていた。心のお腹がすいていた。そこにイエスさまの語る御言葉が、イエスさまのなさるみわざがすっぽり入って来た。「ああ、これこそ、わたしが求めていたものだ」と、そのように感じたのです。そうでなければ「この人はメシアだ」という話には決してならない。「この人はメシアだ」、すなわち「この人はキリストである」とは、「わたしは救われた」と言うのと全く同じ意味だからです。

ところが、続く個所を読みますと、おそらくは聖書を一生懸命勉強してきた人たちの側から異論が出てきたことが分かります。「メシアはガリラヤから出るだろうか。メシアはダビデの子孫で、ダビデのいた村ベツレヘムから出ると、聖書に書いてあるではないか」(7・41~42)。

彼らの聖書知識によると、イエスさまの生い立ちは、聖書に書いてあることから外れているということになるようでした。だから、彼らはイエスさまを信じませんでした。あるいは、少し飛びますが、これまた聖書を一生懸命勉強してきた学者であるファリサイ派の人々の口から「議員やファリサイ派の人々の中に、あの男を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」(7・48)という言葉が飛び出します。ここで「議員やファリサイ派の人々」とは「律法を知らないこの群衆」との対比があるわけですから、学校に通って聖書を学問的に研究した人々という意味になります。専門的に研究した人の言うことと、そうでない人の言うこととの、どちらを信用できますかという言い方です。群衆を見くだした言い方でもあります。

しかし、学者たちには分からなかったことが、分かった人々がいた。彼らに分かったことはイエスというこの方がメシアであり、キリストであるということでした。なぜ分かったのか。彼らはその方を求めていたからです。助けを求めていました。苦しい現実の中にいたからです。彼らの心の中に、救いを求めるニードがあった。だから、「いま目の前にいるこの方に、わたしは救われた」と感じた。この方が救い主であると分かったのです。

「悲しむ人々は幸いである。その人たちは慰められる」(マタイによる福音書5・4)。聖書の正しい調べ方、それは、いま生きている現実を直視し、悩み苦しむこと、悲しむべきことを悲しむことです。そのときイエスさまが救い主であることが分かります。この方はこのわたしの悩み苦しみをご存じであるということが分かります。この方は、このわたしのために十字架にかかって死んでくださった方であるということが分かります。そのことが分かれば、「聖書が分かった!」と言ってよいのです。

(2009年9月13日、松戸小金原教会主日礼拝)