2009年9月27日日曜日

嫌いな人

こういうことを字に書くのは、記憶に間違いが無ければ、生まれて初めてのことです。本邦初公開(?)です。

私には「嫌いな人」がいます。ただし、特定の誰かのことを言いたいのではなく、「嫌いなタイプの人」のことです。

それは「脅迫する人」です。

私は本来、冷たい人間です。近くにいる方々は、多かれ少なかれ、私からそのようなものを感じるはずです。すぐバレるような、露骨な冷たさがあります。「岡山県人」であることもいくらか関係している可能性があります。

私の持っている「冷たさ」の中身は「私は誰をも支配しないし、支配したくない。しかしその代わりに、誰からも支配されたくない」という打ち消しがたい感情に根ざしています。オランダ人にも、これに近い感情があるらしいと聞いたことがありますが、定かではありません。

ともかく他人との距離の取り方がかなり遠いほうであると、自覚しています。

しかし、「脅迫する人」はしばしば、決して入られたくない距離に土足で踏み込んできます。これが困る。

しかも、本来他人との距離をかなりとっていると自覚している私を「脅迫」する人の多くが取る方法は、逆説的ではありますが、「辞める」という方法です。

我々の仕事の本質部分に「団体運営」という側面がありますので。

「辞める」という仕方での(一種独特の)脅迫を受けやすい立場にいると自覚しています。

困ってしまうのは私が本来冷たい人間であるということです。

その意味は、「辞める」という仕方での脅迫が実は全く通用しない人間であるということです。私相手に「辞めるカード」を突き付けても、暖簾に腕押し、ぬかに釘です。「どうぞご自由に」と言いそうになります。もちろんそんなことはその人の前では口が裂けても言いませんが。

私はかつて「辞めた」人間です。重大な決意をもって「離脱」しました。それゆえ私自身には「辞める」と言い張る人々を引きとめる力も資格もありません。

しかし、どうか誤解なきように。

私は、あの「離脱」によって、誰をも脅迫していません。私の「離脱」によって脅迫を感じた人は一人もいなかったはずです。

なぜなら、これは断言できますが、当の本人がそのような意図を全く持っていなかったからです。他ならぬ私自身が、幼い頃から今日に至るまで、「辞任」や「離脱」(という言葉)を《脅迫のカード》として利用するというようなやり方を最も忌み嫌う種類の人間だからです。

特定の誰かのことだと思われると困るのですが(誰から聞いたか忘れてしまいました)、これまで耳にしてきた中でいちばん不愉快に感じられた《論理》は、「わが教会は『あのリベラルな』教団から離脱して作られたものである。それゆえ、もし今後わが教会がリベラルになっていくならば、そのときはこの私が離脱するのみである」というものです。

そのような《論理》(聞いているとため息が出る三段論法)を、自分自身の体と心で現実の「離脱体験」をしたことがない(または「なさそうな」)人の口から聞くと、私には耐えがたいものがあります。

ただし、その場合には、「どうぞご自由に」とは思いませんし、言いません。「やれるものならやってみろ」とも思いませんし、言いません。

「離脱経験者」である私には何かを語る力や資格はありませんし、その人の前に立ちふさがって張れるほどの頑強な体もありません。

できるのは、「辞めないでください」と泣きながら訴えることくらいです。

しかし、その人の服をつかんで引っ張ることまではできない。実際に辞められた後、泣き寝入りするばかりです。

ここまで書いてきて、「嫌いな人」とは私自身のことのような気がしてきました。

「泣き寝入り」も脅迫の一種だと考えるとすれば。

「誰をも支配したくない代わりに誰からも支配されたくない」という感情も離脱行為の一種だと考えるとすれば。

自己嫌悪のかたまりです。