2009年9月3日木曜日

「キリスト教民主党」研究(1)

わが国に「民主党政権」が誕生したことに触発されて何か新しいことを始めたくなりました。手始めに「『キリスト教民主党』研究」というサイトを新設しました。そして、そのトップページに「世界のキリスト教民主党一覧」をアップしました。日本国内にこの種の情報はほとんど皆無ですので、「こんなにたくさんあったのか」と驚かれる方が多いのではないでしょうか。



「キリスト教民主党」研究(新設)
http://cdp.reformed.jp/



キリスト者がきわめて少数であるわが国に、公党としての「キリスト教民主党」が誕生するのは、たとえどれほど強く願ったとしても、半世紀か一世紀以上先のことでしょう。しかし、ただ手をこまねいているというのでは、無策のそしりを免れないでしょう。誰かが何かを始めなければ、どんなに小さくても何らかのアクションを起こさなければ、永久に何も生まれないでしょう。



日本の特にプロテスタント教会が「キリスト教政党」を求めてこなかった(あるいは意図的に拒否してきた)理由は必ずしも明らかにされてきませんでした。もちろん単純に「キリスト者の数が少なすぎて為すすべがなかった」と言えばそれまでであり、説得力もあります。実際、日本のキリスト者の多くは「キリスト教政党」という言葉を聞くとジョークだと思って腹を抱えてゲラゲラ笑いだすのです。そのような現実があることを私は知っています。



しかし、数の問題以上に思想的ないし「神学的な」理由もあったと思われます。少なくともその一つにバルト神学の圧倒的な影響を数えなければならないと私は考えています。



「キリスト教政党」の成立の要件は、「神学」(theologia)以上に「キリスト教哲学」(philosophia christiana)です。換言すれば、「キリスト教」(christiana)と「哲学」(philosophia)との《順接的》関係性の確保です。そのとき我々に問われることは、教会の外(extra ecclesiae)なる「世界」(mundum)における政治、経済、文化、教育、芸術といった一般的・普遍的な事柄を「キリスト教へと改宗した人間であるならば」どのように見、どのように態度決定するのかです。



ところがバルトは「キリスト教哲学」を全面的に退けました。次のように述べています。「キリスト教哲学(philosophia christiana)は事実上、いまだかつて決して現実のことであったためしはなかった。それが哲学(philosophia)であったなら、それはキリスト教的(christiana)ではなかった。それがキリスト教的(christiana)であったら、それは哲学(philosophia)ではなかった。」
(Karl Barth, Kirchliche Dogmatik, I/1, S. 5 カール・バルト著『教会教義学』第一巻第一分冊、原著5ページ)



今はこれ以上詳述できませんが、書きとめておきたいことは、このバルトの神学的思惟の呪縛から解放されないかぎり、日本に(公党としての)「キリスト教政党」が誕生する日が訪れることは永久にありえないだろうということです。



バルトにおいて「キリスト教」と「哲学」との関係性は《逆接的》ないし対立的なものとしてしか描かれません。彼にとって「キリスト教」とは(『ローマ書講解』から『教会教義学』に至るまで一貫して)永久に「数学的点」であるところの「イエス・キリストにおける神の自己啓示」のみにとどまり続けるのであって、決して「線」にも「面」にもなっていきません。したがって、それが「世界」において形態(ゲシュタルト)を獲得することもありえないのです。



日本で「キリスト教政党」の問題に取り組むためには、このバルトの問いかけを回避できません。「キリスト教」と「哲学」との関係は、バルトが示唆したように、ただ逆接的・対立的なものでしかありえないのでしょうか。キリスト者である人間は「世界」に対して批判的・攻撃的なスタンスしか採りえないのでしょうか。この難問が我々の喉元に突き付けられています。



なお、新サイト開設に伴い、従来サイトの一つのURLを変更しました。



関口 康 小説(URL変更)
http://ysekiguchi.reformed.jp/novel.html