2009年9月8日火曜日

太宰治「一歩前進 二歩退却」(1938年)に共感して(1)

このところ、「聖書よりも」とは申しませんが、カルヴァンよりも、ファン・ルーラーよりも、太宰治が面白くて困っています。



お恥ずかしながら、これまで太宰「など」真面目に読んだことがなかったのです。そもそも小説というものをほとんど読むことができませんでした。小説家の妄想に付き合えるほど暇じゃないと、思いこんでいたところがありました。他人の心の中に入り込んでいく想像力が根本的に欠如していたのです。



しかし、どうしたことでしょう、年齢のせいでしょうか、ここに至って、太宰の文章が私の胃袋に流れ込んでくるものがあります。



ただし、まだ小説ではありません。彼の手記のたぐいにハマっています。近日感銘を受けたのは、「一歩前進 二歩退却」(初出1938年8月、太宰28歳)という短文です(『太宰治全集』第10巻、筑摩類聚版、117~118ページ)。



「日本だけではないやうである。また、文学だけではないやうである。作品の面白さよりも、その作家の態度が、まづ気になる。その作家の人間を、弱さを、嗅ぎつけなければ承知できない。作品を、作家から離れた署名なしの一個の生き物として独立させては呉れない。三人姉妹を読みながらも、その三人の若い女の陰に、ほろにがく笑っているチエホフの顔を意識している。
(中略)
可哀さうなのは、作家である。うつかり高笑ひもできなくなった。作品を、精神修養の教科書として取り扱はれたのでは、たまつたものぢやない。
(中略)
作家は、いよいよ窮屈である。何せ、眼光紙背に徹する読者ばかりを相手にしてゐるのだから、うつかりできない。あんまり緊張して、つひには机のまへに端座したまま、そのまま、沈黙は金、といふ格言を底知れず肯定してゐる。そんなあはれな作家さへ出て来ぬともかぎらない。



謙譲を、作家にのみ要求し、作家は大いに恐縮し、卑屈なほどへりくだつて、さうして読者は旦那である。作家の私生活、底の底まで剥がうとする。失敬である。安売りしてゐるのは作品である。作家の人間までを売ってはゐない。謙譲は、読者にこそ之を要求したい。



作家と読者は、もういちど全然あたらしく地割りの協定をやり直す必要がある。(後略)」



この文章のどこに感銘を受けたかをきちんと説明できるまで太宰の意図を斟酌できてはいませんが、とにかく「そうそう」と、膝を打って喜びながら読みました。



ブログとかメールなどを書いておりますと、私の文章を読んでくださる方々の中に、記述内容についての賛否や感想を知らせてくださる方がおられることには、励まされます。



しかし、「なんでこんな時刻にメールを書いているのだろう」とか「どうしてこんなことをブログなどに書いているのだろう」というような、その文章を書いている私の「態度」ばかりが気になるらしい方に接することがありまして、そういうことと太宰への「共感」とがどうやら関係しているらしいことに気づかされます。



まさに、「一歩前進 二歩退却」です。