2009年9月6日日曜日

生きた水が川となる


ヨハネによる福音書7・32~39

「ファリサイ派の人々は、群衆がイエスについてこのようにささやいているのを耳にした。祭司長たちとファリサイ派の人々は、イエスを捕らえるために下役たちを遣わした。そこで、イエスは言われた。『今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所へに、あなたたちは来ることができない。』すると、ユダヤ人たちが互いに言った。『わたしたちが見つけることはないとは、いったい、どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人たちのところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。「あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」と彼は言ったが、その言葉はどういう意味なのか。」祭りが最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。『渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる。』イエスは、御自分を信じる人々が受けようとしている“霊”について言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかったからである。」

今日の個所のイエスさまは、まだエルサレムにおられます。先週の個所でイエスさまはエルサレム神殿の境内で説教なさいました。また、説教の内容をめぐって、人々といろんなやりとりをなさいました。そうしましたところ、「人々がイエスを捕らえようとした」(7・30)というのです。この「人々」は、いわゆる群衆のことです。普通の人、一般の人です。イエスさまの命を狙っていたファリサイ派や祭司長や律法学者たちではありません。その彼らがなぜイエスさまのことを捕らえようとしたのでしょうか。これは考えてみる必要がある点です。

思い当たることは、彼らはおそらく非常に腹を立てたのだろうということです。問題点はいくつかあります。第一は、イエスさまが「わたしをお遣わしになった方」と言われるのを聞いたとき、彼らが最初に思い浮かべたのは天地の造り主なる父なる神さま御自身のことだったはずですが、そのとき「まさか、そんなはずはない」と思ったに違いないという点にかかわります。なぜなら彼らは父なる神さまのことを知っていると思っていたからです。わたしたちは聖書を繰り返し学んできたし、神を信じてもいる。それなのに、この人は「あなたたちはその方を知らない」と我々に向かって言い放つ。我々のことを侮辱しているのかと腹を立てたに違いありません。

しかし、理由はそれだけではなさそうです。第二に考えられることは、イエスさまは「学問をしていなかった」からです。この場合の「学問をする」の意味は、エルサレム神殿の律法学校を卒業することであると、先週申しました。そしてそれは、我々が「神学校を卒業する」と言うのと同じ意味であるとも申しました。イエスさまは神学校を卒業していません。そうであるにもかかわらず「わたしをお遣わしになった方」のもとから来たなどと言う。そのことで彼らは腹を立てたに違いありません。

なぜそのようなことに腹が立つのかと言いますと、彼らはおそらく悪い意味での権威主義者だったのです。あの学校を卒業した人の言うことだから間違いない。そうでない人の言葉は信用できない。このような道筋で事柄を把えようとする人々だったのです。だからこそ、イエスさまの説教を聴いた彼らにとって、「あの人は学問をしたわけでもないのに、どうして」という点が問題になったのです。

校長から卒業証書を受け取ってもいない。何かの試験に合格したわけでもない。客観的な意味でこの人が「教師」と呼ばれるための根拠は、どこにもない。だとしたら、この人が「わたしを遣わした方」と言っているのは、ただの思い込みである。しかしこの人は、自分はそうだと言い張る。それならば、この人は嘘つきである。この人を誰も遣わしてなどいない。まして、父なる神が遣わしたなどということはありえない。彼らの心の中にこのような一種独特の三段論法が駆け巡った可能性があるのです。

しかしこのような考え方はやはり、悪い意味での権威主義です。このことは一般論としても言えることです。その人が卒業した学校がその人の価値を決めるわけではありません。その学校を卒業した人のすべてが必ず真理を究めつくした権威者であると思いこむことは、事情を知らなすぎる見方です。あえて変な言い方をしますが、どの学校にも優秀な人とそうでない人が必ずいるものです。勉強するのは自分自身です。学校は勉強の仕方を教えてくれるだけです。極端な言い方をすれば、自分で勉強することができる人は学校になど行かなくてもよいのです。

教会の場合も同じですし、教会こそそのことが当てはまります。自分のことを全く棚に上げて言いますが、神学校の学業成績が優秀だった人々の中にも牧師としては全くふさわしくないと判断される人々がいます。逆も然り。成績が悪かった人の中にも立派な牧師はたくさんいます。あの学校を卒業した人だから、何々先生の弟子だから、絶対に間違いないなどということは全くありえないのです。

話がまた脱線しかかっています。私はいま、イエスさまのことを考えております。「学問をしたわけでもないのに、どうして」と疑惑の目がイエスさまに向けられました。わたしをお遣わしになった方のもとから来たと言い張るこの人は嘘つきであると、腹を立てられ、捕まえられそうになりました。イエスさまがそのような目に遭われたのは、イエスさまが悪いわけではなく、イエスさまをそのように見た人々の価値観、とくにその権威主義的な意識感覚に問題があったに違いないと申し上げているのです。

しかし、イエスさまがおっしゃっていることは嘘でも何でもなく、まさに真理であり、真実でした。そして、これはイエスさまだけに当てはまる真理であり真実であるというだけではなく、イエスさまの体なる教会にかかわるすべての事柄にも当てはまることなのです。

たとえば、教会とは誰のものでしょうか。牧師の所有物(もの)でしょうか、長老や執事のものでしょうか、会員一人一人のものでしょうか。「そうでもある」と答えたい気持ちが私にはありますが、そのように決して語ってはならない場面があると思っています。教会は、人間のものではありません。神御自身のものであり、神の御子イエス・キリストのものです。

教会がこの地上でなすすべてのわざは、誰が行うのでしょうか。「それは我々人間自身でもある」と私自身は声を大にして言いたいところを持っていますが、このことも我慢しなければなりません。教会が行うすべてのわざは、神御自身のわざです。わたしたちは神の道具になることに徹する必要があります。

いまここで私がしている説教とは、なんでしょうか。「これは関口さんのお話である」と思われても仕方ない面があることを私自身は否定しません。しかしそれでもなお、わたしたちが信じなければならないことがあります。説教とは、本質的に神御自身の言葉なのです。説教者もまた、神の道具になりきる必要があるのです。

ですから、説教者としてのイエスさまが父なる神さまのことを「わたしを遣わした方」とお呼びになったことは、イエスさまだけに許された特別な言葉遣いであるわけではなく、この宗教にかかわるすべての人に許されているし、そのように語ることを命じられていることでさえあるのです。

しかし、彼らはイエスさまの言葉を受け入れることができませんでした。嘘を言っていると思ったか、あるいは芝居がかったきれいごとを言っているとでも思ったか、ともかく現実味のない話であると聞いたのです。だから彼らはイエスさまが「わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(34節)とおっしゃった言葉を聴いて「ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか」と、つまり外国旅行でもするつもりなのかと誤解したのです。宗教的な話を聴いても、それを宗教的な次元で捉えることができなかったのです。

イエスさまが「今しばらく、わたしはあなたたちと共にいる。それから、自分をお遣わしになった方のもとへ帰る。あなたたちは、わたしを捜しても、見つけることがない。わたしのいる所に、あなたたちは来ることができない」(7・33~34)とおっしゃった意味を、わたしたち自身は知っています。イエスさまは死ぬ覚悟をなさったのです。その言葉を、外国旅行に行くつもりなのかと全く違う意味で聞かれてしまったのです。イエスさまの言葉をなかなか理解できない人々の姿が、ここに描き出されています。

イエスさまは、祭りの最終日に大声で言われました。「渇いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その人の内から生きた水が川となって流れ出るようになる」(7・37~38)。

この御言葉もまた、宗教的な次元の事柄としてとらえる必要があります。「生きた水」とは“霊”のこと、つまり「聖霊」のことであると説明されています。そしてそれは同時に、聖霊なる神がわたしたちに与えてくださる「信仰」のことです。イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、三日目によみがえってくださった後に、天の父なる神のみもとにお戻りになりました。そしてその後、イエス・キリストを信じる弟子たちのうえに聖霊が注がれました。その聖霊が「生きた水」となってわたしたちの心に信仰を呼び起こしてくださいました。そして信仰はわたしたちの内から溢れだし、川となってとうとうと流れ続けるのです。

「川」とは継続性と広がりのイメージです。これはわたしたちの信仰生活や教会の伝道を指しています。信仰は一瞬で終わるものではなく、継続的なものです。わたしたちの信仰は神から恵みとして与えられ続けるものなのです。

「イエスがまだ栄光を受けておられなかったので、“霊”がまだ降っていなかった」とあります。「イエスが栄光を受ける」の意味は、十字架の上で全人類の罪を贖うみわざを成し遂げられ、かつ、そのイエスさまを父なる神が復活させてくださることを指しています。イエスさまの栄光とは、すなわち、わたしたち罪人の身代わりに死ぬこと、死んでくださることなのです。しかしまたイエスさまが天に昇られたあと、イエスさまの代わりに聖霊なる神が地上に来てくださり、信仰をもって生きる人々の心の中に住み込んでくださるのです。

ですから、イエスさまが目に見えない存在になられた後も弟子たちは寂しくはありませんでした。聖霊の助けによって力強くイエス・キリストの御言葉を宣べ伝え、教会を建て上げていきました。

「生きた水が川となる」とは、それらすべてを指しています。もちろんそれはわたしたちにも当てはまります。松戸小金原教会が来年30周年を迎えます。「生きた水」としての聖霊がわたしたちの教会を導いてくださいました。この地に30年間、一度も尽きることの無い「川」を流し続けてくださいました。そのようにして、信仰者の群れを守り続けてくださったのです。そのことを神に感謝したいと思います。

(2009年9月6日、松戸小金原教会主日礼拝)