2009年9月20日日曜日

暗闇の中を歩かないために


ヨハネによる福音書8・12~20

「イエスは再び言われた。『わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。』それで、ファリサイ派の人々が言った。『あなたは自分について証しをしている。その証しは真実ではない。』イエスは答えて言われた。『たとえわたしが自分について証しをするとしても、その証しは真実である。自分がどこから来たのか、そしてどこへ行くのか、わたしは知っているからだ。しかし、あなたたちは、わたしがどこから来てどこへ行くのか、知らない。あなたたちは肉に従って裁くが、わたしはだれをも裁かない。しかし、もしわたしが裁くとすれば、わたしの裁きは真実である。なぜならわたしはひとりではなく、わたしをお遣わしになった父と共にいるからである。あなたたちの律法には、二人が行う証しは真実であると書いてある。わたしは自分について証しをしており、わたしをお遣わしになった父もわたしについて証しをしてくださる。』彼らが『あなたの父はどこにいるのか』と言うと、イエスはお答えになった。『あなたたちは、わたしもわたしの父も知らない。もし、わたしを知っていたら、わたしの父をも知るはずだ。』イエスは神殿の境内で教えておられたとき、宝物殿の近くでこれらのことを話された。しかし、だれもイエスを捕らえなかった。イエスの時がまだ来ていなかったからである。」

先週の個所の続きではなく、一段落分飛ばしました。飛ばした段落は学ぶ必要がないと考えているからではありません。その逆です。8章1節から11節については、10月18日(日)の特別伝道礼拝のときにお話しいたします。そのときまで大事にとっておきますのでお楽しみに。

さて、今日の個所には、わたしたちの救い主イエス・キリストがおそらくは御自分のことを指差しながら、「わたしは(が)世の光である」と「再び」語られたと書かれています。

ここで気になるのは「再び」という断り書きです。あらかじめ申し上げておきたいことは、これはこだわる価値のある言葉であるということです。この「再び」の意味は、「わたしは世の光である」という言葉をイエスさまが以前に一度お語りになり、それと同じ言葉をもう一度繰り返されたということではありません。ヨハネによる福音書の中でこの言葉は、ここに初めて登場します。

それではこの「再び」の意味は何でしょうか。高い可能性をもって言えることは、イエスさまが「再びエルサレム神殿の境内にお立ちになって言われた」ということ、つまり、イエスさまが以前語ったのと同じ言葉を繰り返されたということではなく、以前お立ちになったのと同じ状況にもう一度戻ってこられた、ということです。

教師が「再び」教壇に立つ。音楽家が「再び」ステージに立つ。たとえばこのように語られるときの「再び」には、しばしば特別な意味が込められています。そのことは特に、その人が様々な意味での反対や妨害、中傷誹謗、深い悩みや絶望の中にあり、一度は立ったあの場所にもう一度立つことがきわめて困難であるような状況があるという場合に当てはまります。

そのとき込められている特別なニュアンスは、「しかし、それにもかかわらず、再び」です。しかし、それにもかかわらず、あらゆる困難を乗り越えて、再び同じ場所に立って語る。もしこの意味だとすれば、「イエスは再び言われた」の「再び」には、イエス・キリストの不屈の闘志が表現されているのです。

現に、イエスさまがエルサレム神殿の境内でお語りになっている最中にも、それを聞いている人々から何だかんだと口を挟まれ、ありとあらゆる罵詈雑言を浴びせられ、説教が妨害されていた様子が分かります。しかし、それにもかかわらず、イエスさまは「再び」語られるのです。このこと自体がわたしたちにとっては励ましであり慰めです。イエスさまは、めげない、凹まない。どんなに激しく妨害されても引き下がらない。イエスさまとはそのような方なのです。

さて、そのような不屈の闘志をもってイエスさまがお語りになった言葉が「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(8・12)というものでした。この御言葉の字義的な内容を説明させていただきます。

「世」とは、世界のすべてです。神が創造なさったもののすべて、すなわち、わたしたちが生きている地上の世界の全体を指しています。今日「地上」という言葉を使いますと「地球」のことであると思われてしまうことがありますが、それは誤解です。地球だけではなく宇宙も含まれます。「世」とは文字通りの「天地万物」のことです。

哲学的に「存在そのもの」と言っても間違いではありません。文学的に「生きとし生けるもの」と言ってもよいかもしれませんが、「生きている」とは見えないもの、たとえば石や岩のようなものは含まれるのかというような疑問が起こるかもしれません。その答えとしては、「とにかく全部だ」と言うしかありません。神が創造された一切です。それが「世」です。

その「世」の「光」がこのわたしであると、イエス・キリストはお語りになりました。考えるべき一つの点は、その光はどこを輝かしているのかということです。狭い意味での「教会」に属している人々だけでしょうか。そうではありませんと言わなければなりません。「世」とは「とにかく全部」だからです。「とにかく全部」としての「世」においては教会の内側と外側の区別がありません。

イエス・キリストの光はむしろ教会の外側に立っている人々をこそ照らすのです。まだ神を知らず、神の恵みも救いも知らないときに「何かの光がこのわたしを照らしている」と知る。その光の明るさを感じ取った人々が教会へと導かれてくるのであって、逆の順序ではありません。

しかし、「光」という言葉は、言えば言うほど抽象的な響きを感じなくもありません。イエスさまが光であり、その光が世を照らすとは、具体的に言うと何のことでしょうか。いますぐに申し上げることができますことは、「光を照らす」とはやはり「向き合うこと、かかわること」というようなことと深く関係しているでしょうということです。少なくともイエス・キリストの顔と目が「世」の方向へと向いているということと関係しているでしょう。「わたしは世の光である」と言われるイエスさまの目が世を見ておられず、そっぽを向いておられるということがあるとしたら甚だしい矛盾でしょう。世のことにはまるで興味が無いイエスさま。これでは話が成り立たないでしょう。

そしてその場合は言うまでもなく、ただ遠くから眺めているだけということでは済まないでしょう。いちおう関心はあるが、手も足も出さない。近づかないし、直接的な関係を持とうとしない。それは、イエスさまの光が世を照らしているというのとは正反対の状態でしょう。やはり「かかわる」という次元の事柄が必ず関係しているでしょう。

少しまとめておきます。ここで分かることは、イエスさまは世に関心を持っておられる方であるということです。そして、ただ関心を持っておられるというだけではなく、世に対して直接的な関係をお持ちになる方であるということです。世に接近し、接触し、介入なさる救い主、それがイエスさまです。そして、そのことが、イエスさまが御自分を指して「わたしは世の光である」とおっしゃっていることと深く関係しているのだということです。

さらに、もう少し掘り下げて考えておきたいことがあります。それは、「光」にも二種類あるということです。

一方に、否定的で攻撃的で批判的な光というものがあります。警察や少年補導員が、暗闇に隠れて悪さをしている人々を照らしだす懐中電灯のようなものを想像していただくとよいでしょう。それがその人々の仕事なのですから、私はこれを悪い意味で言っているのではありません。しかし、イエスさまが「わたしは世の光である」と言われているときの意味が「このわたしイエス・キリストは闇夜に蠢(うごめ)く怪しい人々を捜しだすための懐中電灯である」という意味だろうかと考えてみる。そのときには、「たぶんそういうことではないだろうなあ」と考えるほうが当たっているだろうと申し上げているのです。

徹底的に悪を裁くこと、隠れた事実を探り当てて明るみに出すこと。それ自体は悪いことではなく、むしろ善いことです。徹底的に善いことであり、完璧なほどに正しいことです。完璧な善が存在し、そのような善が悪を裁く。それは悪いことであるどころか、最も善いことであり、絶賛に値するほど素晴らしいことです。

しかし、わたしたちは、ここでこそ立ち止まらなければなりません。はたしてイエス・キリストは否定的で批判的な光であるというだけでしょうか。世界の暗闇に紛れて働く悪の存在を徹底的に洗い出し、その罪を責め立てるためだけにイエス・キリストは来られたのでしょうか。そのような側面が全く含まれていないとは申しません。しかし、いま問うているのは「それだけでしょうか」ということです。

それだけではないでしょう。世を照らす救いの光としてのイエス・キリストの光は、わたしたちが置かれている日常の現実を温かく受け入れてくださる、希望と喜びにあふれた光でもあるでしょう。イエス・キリストはこの世界を肯定してくださり、同情してくださり、受容してくださる方でもあるでしょう。わたしたちは一面的な理解に陥ってはならないのです。

わたしたちが陥りやすい過ちは、他人については厳しく裁き、自分については甘く裁くということです。これは誰でも陥ります。ですからこのことについては互いに責めることもできません。しかし、そのことを認めたうえでなお言わなければならないことは、過ちは過ちであるということです。それが本当の意味での落とし穴であり、我々の人生を根本的な暗闇に陥れている部分でもあるということです。世を裁くこと、他人を徹底的に責めること、完全な正義感のもとに立って他人を断罪すること、そのことこそがわたしたち自身の人生を自ら暗くしてしまっている場合があるのです。

暗闇の中を歩かないためにわたしたちにできることは、いま申し上げたことのちょうど反対です。わたしたちが生きている世界の現実、わたしたち自身の現実を肯定することです。わたしたちの人生を喜びと感謝を持って肯定し、受容することです。

こんなことは無理であると思われるでしょうか。私はそうは思いません。この世界の現実と自分の人生を受け入れることはわたしたちに可能なことです。イエスさまが次のように語っておられます。

「あなたは、兄弟の目の中にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる」(マタイによる福音書7・3~5)。

わたしたちに必要なことは「わたしは神の憐みによらなければ立つことさえできない罪人である」ということを徹底的に自覚することです。そのことは、自分の目の中に「丸太」があると認識することでもあるのです。それができたとき、わたしたちは、他人に対して少しは優しくなれるでしょう。

(2009年9月20日、松戸小金原教会主日礼拝)