2017年4月3日月曜日

勉強しなくちゃ

今書きました
なんだか全く矛盾していると思うのは、牧師として多忙をきわめていた頃(もあった)には勉強したくてしたくて、論文書きたくて書きたくて、翻訳したくてしたくてウズウズしていて、学校勤務の間はそれが全くできなくて、さあ少し時間ができたぞとなったら、モチベーションを喪失しまくっているという。

でも、それは私にとっては絶対良くないことなので、せめてなんとか勉強のモチベーションを取り戻すことが私の人間性回復にとっての先決問題だと思う。何を大げさな言い方をと思われるかもしれないが、これでもけっこうプライドズタズタ状態だったりする。要らぬプライドなんか棄てるほうがいいのだが。

何度となく書いてきたが、今から20年くらい前からの10年間くらい、私の勉強時間といえば、家族が寝静まった深夜だった。牧師としての限界を感じたとき、落ち込んでいるとき、神学を学ぶことで私の矜持を回復させてもらえるものがあった。私の知識は広くないが、狭く深く入っていけるところがある。

とか何とか書いていると、「おいそこの人、ネットなんかやめて本を読め、論文を書け」と言われかねないので、今これを書きながら半分以上は逃げ腰状態だ。しかしだ。勉強によって矜持が回復され、その矜持が勉強のモチベーションを生み出すという場合、勉強が先なのか、それとも矜持の回復が先なのか。