2017年4月30日日曜日

確かなる希望としての復活(千葉若葉教会)

コリントの信徒への手紙一15章20~21節

関口 康(日本基督教団教師)

「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。」

先々週の日曜日がイースター礼拝でした。私は日本基督教団下関教会(山口県下関市)から説教者としてお招きを受けて行ってきました。羽田空港から山口宇部空港までジェットに乗りました。帰りは新幹線でした。広島や岡山の実家にも立ち寄りました。そのような五泊六日の旅をしてきました。千葉若葉キリスト教会でもきっと盛大なイースター礼拝が行われたことでしょう。そういうわけで、皆さんに申し上げるのが遅くなりました。イースターおめでとうございます。

言うまでもないことですが、教会がイースターをお祝いするのはもちろん宗教的理由です。最近は日本の各地でイースターをお祝いしてくださる方々が増えているようですが、必ずしも宗教的理由ではないようです。しかし教会は間違いなく宗教団体ですので、遠慮なく宗教的理由でお祝いします。

イースターとは、イエス・キリストが死者の中から復活されたのは歴史的事実であるということを信じる人々の喜びの祝いの日です。その意味でイエス・キリストは「本当に」よみがえられたことを喜び、感謝する思いで、教会はイースター礼拝を毎年行っています。

しかし、教会がイースターをお祝いする理由は厳密に言うとそれだけではありません。少なくとももうひとつあります。それは何かといえば、イースターは「死者の中から復活したのは現時点ではイエス・キリストだけであるが、復活そのものはイエス・キリストだけで終わるものではない」ということを信じ、やがて訪れる将来において自分自身も復活するのだと信じる人々の希望の祝いの日であるということです。

私が今、やや早口で何を申し上げたのかは、きっとお分かりいただけていると信じます。それが、実は先ほど朗読していただきましたコリントの信徒への手紙一15章20節と21節に書かれている内容そのものです。それを私なりの言葉で言い換えて申し上げただけです。

まず20節を読みますと、「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)と書かれています。重要な言葉は「初穂」です。この「初穂」は英語の聖書ではだいたいfirst fruitと訳されています。つまり「最初の果実」です。

ここで考えなければならないことは、イエス・キリストの復活が「最初」(ファースト)であるということは、その「次」(ネクスト)の復活もあるということです。最初の1つだけで終わるのではなく、2つ目も3つ目もあるし、もっとたくさんあるということです。

何がもっとたくさんあるのかといえば、それが復活です。何と驚くべきことに、イエス・キリスト以外にも復活する存在があるのです。イエス・キリストが「初穂」(ファーストフルート)ならば、「次の果実」(ネクストフルーツ)もあるのです。それが全人類です。何と驚くべきことに全人類が復活するのです。そのようなことを誰が信じられるだろうか、冗談は休み休みに言ってくれと、多くの人に思われるに違いないのですが、パウロが書いているのはそのようなことです。

しかし、驚くべきことはまだ残っています。それは、この箇所にパウロが書いていることの趣旨は「イエス・キリストの復活」のほうではなく「全人類の復活」のほうであるということです。「全人類の復活」は本当に起こるのだということを言うために、その根拠として「イエス・キリストの復活」を持ち出しているだけです。このような書き方をしている以上、どちらに強調点があるかといえば、前者ではなく後者であることは明らかです。

しかも、「イエス・キリストの復活」と「全人類の復活」を聖書に基づいて比較してみると、両者が全く同じことの単純な反復ではないことが分かります。聖書によると、「イエス・キリストの復活」は40日間弟子たちの前で起こりましたが、その後父なる神のもとへと昇天することによって弟子たちの前から姿を消し、見えなくなりました。しかし「全人類の復活」は、わずか40日で終わるような一時的な出来事ではなく、永久に続く出来事として理解されるべきものです。

ですから、次のように考えることさえできます。「イエス・キリストの復活」は、今はまだ起こっていないが将来起こるであろう「全人類の復活」にとっての「予告編」の意味を持っていました。しかし、それはまだ「本編」ではありませんでした。「イエス・キリストの復活」においては「全人類の復活」のさわりの部分をほんの少しだけ、ちらりと見せてもらえたに過ぎません。

さらに次のように考えることもできます。「イエス・キリストの復活」は、キリスト信仰全体の目標ではなく、途中の通過点にすぎません。キリスト教信仰の目標は「イエス・キリストの復活」を信じることのほうではなく「全人類の復活」を信じることのほうにあります。このように申し上げるからと言って、「イエス・キリストの復活」を信じることが重要ではないと言っているのでは決してありません。それを信じることも重要です。しかしだからといってわたしたちは「イエス・キリストの復活」のほうだけを信じて事足れりとすることはできません。

イースターをお祝いする目的も同じです。「イエス・キリストの復活」をお祝いすることだけではなく、少なくとももうひとつあると申し上げたとおりです。それは、将来における「全人類の復活」を期待することです。イースターは、わたしたち自身の復活を待ち望む将来をめざす希望の祝いです。それは「イエス・キリストの復活」をお祝いすること以上に重要です。

私が言いたいのは次のようなことです。「イエス・キリストの復活」はありえないことだが、不合理なことであっても、理性を犠牲にして無理やりにでも信じ込むことがキリスト教信仰の本質なのだ、という仕方で、ようやくのところ「イエス・キリストの復活」を信じることができたというだけでキリスト教信仰が完結するわけではないということです。キリスト教信仰には、もっと大きな、人をつまずかせる要素があります。それが「全人類の復活」です。

歴史的な事実としては、「全人類の復活」についての思想はパウロが生み出した思想ではないし、新約聖書の著者たちが発明した思想でもありません。それは旧約聖書の時代からあり、サドカイ派を除くユダヤ教の人々に広く受け入れられていた思想でした(ヘンドリクス・ベルコフ『確かなる希望』藤本治祥訳、日本基督教団出版局、1971年、42頁)。事柄の歴史的な順序としては、「全人類の復活」を信じる信仰は「イエス・キリストの復活」を信じる信仰より古いです。

これで分かるのは、イエス・キリストの復活の事実が「全人類の復活」を信じる信仰を生み出したのではなく、順序はその逆であるということです。「全人類の復活」を信じる信仰が先にあり、それは「本当に」起こるのだということを、「イエス・キリストの復活」を目の当たりにした人々がその確証を得たと信じて受け入れたということです。

今日なぜ私がこのようなことをしつこいほど繰り返し強調するのかについても申し上げておきます。

「イエス・キリストの復活」を信じるだけならば、ある意味で簡単なことです。自分に当てはめて考えることをしなくて済むからです。イエス・キリストはわたしたちにとって他人ですから、他人事として考えるだけで済ますことができます。「へえ、そんな不思議なことがあったのですね。神さまの力はすごいですね」と言っていればいいだけです。

しかし「全人類の復活」は違います。他人事で済ますことができません。なぜなら、全人類の中にあなたも私も含まれるからです。あなたも私も復活するのです。そのようなことを本気で信じなければならなくなります。そのほうがわたしたちにとって、「イエス・キリストの復活」を信じることよりも、はるかに難しいはずです。

しかし、難しいことをわたしたちは信じかつ受け入れる必要があります。そうでないかぎり、復活がわたしたち自身の希望にならないからです。なぜ他人事で済ましてはいけないのでしょうか。そのことを最後に申し上げておきます。そのことを理解するために、今日の箇所の31節に書かれていることが重要です。

「死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです」(31節)と書かれています。その説明が22節にあります。「つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです」(22節)。

論理は単純です。「死が一人の人によって来た」と言われている中の「一人の人」とは最初の人類アダムです。「アダムによって死が来た」とはアダムが罪を犯したためすべての人に死が定められたという意味です。しかし、その死の定めを打ち消すために「一人の人」イエス・キリストが来ました。イエス・キリストが来てくださったので、すべての人から死が取り除かれた、ということです。

ここで考えなければならないのは、アダムによって何が始まったのかということです。この箇所には記されていませんが、それが「罪」であることは明らかです。アダムの「罪」によって「死」が来ました。しかし「キリストによってすべての人が生かされることになる」。その意味は、キリストによって「罪」が除去されるならば「死」が除去される、ということです。

そしてそれでわたしたちが理解すべきことは、「全人類の復活」を信じることは、全人類が罪から完全に取り除かれ、罪から解放される日が来ることを信じるのと同じであるということです。つまり、わたしたちは、「罪」との関係で「死」を、そして「復活」を理解する必要があるということです。

今かなりややこしいことを言いましたが、ご理解いただきたいのは、ひとつのことです。それは、「全人類の復活」と信じることと「世界と人類からすべての罪が取り除かれること」を信じることは同じことである、ということです。そういう日が必ず来ると信じることが必要なのです。

罪は永遠の存在ではありません。罪の力に飲み込まれてはいけません。罪に市民権を与えて当然視してはいけません。「人類が罪を犯すのは当然なのだ」とか「やむをえないことなのだ」などと言って是認してはいけません。そのようなことを聖書が教えているわけではありません。

しかも、わたしたちは、自分自身は罪に対して無抵抗であり、人生の最期の最期のぎりぎりまで罪の甘い蜜を味わい尽くしながら、天国に行きさえすれば罪から自由になれるなどと考えるべきではありません。神にお委ねするだけではなく、わたしたち自身も、罪の力、悪の力に対して徹底的に抵抗しなければなりません。

わたしたちは主の祈りにおいて「御国を来たらせたまえ」と祈ります。「我らを試みにあわせず、悪よりすくいいだしたまえ」と祈ります。このように祈りつつ生きていくわたしたちの人生の将来に「復活の日」が訪れます。

罪は完全に滅ぼされ、世界と人類の中から完全に取り除かれる日が来ます。罪が取り除かれれば、わたしたちが死ぬこともなくなります。その意味での「完全な救いの日」が来ます。それが「全人類の復活」です。

(2017年4月30日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)