2017年4月23日日曜日

神の恵みによって今日の私がある(千葉本町教会)

コリントの信徒への手紙一15章9~11節

関口 康(日本基督教団教師)

「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。」

千葉本町教会のみなさま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。この教会で説教させていただくのは2回目です。今日もどうかよろしくお願いいたします。

前回は2月19日でした。大きく変化したのは私の立場です。高校で聖書を教える常勤講師でしたが、代用教員でした。3月末で契約期間満了となりました。現在は日本基督教団の無任所教師です。しかし、心配はしていません。主が必ず任地を与えてくださることを信じています。みなさまにもぜひお祈りいただきたく願っています。

さて、先ほど朗読していただきましたのは、使徒パウロのコリントの信徒への手紙一15章9節から11節までです。パウロが記しているのは謙遜の言葉です。「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(9節)。

しかしそのパウロが間髪入れずに続けているのは、使徒としてのプライドに満ちた言葉です。「神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました」(10節)。

パウロが記しているのは、使徒の中で最も小さい者である私は他のすべての使徒よりもずっと多く働いてきた、ということです。このように書いているパウロの気持ちを、私はよく理解できるつもりです。聖書の言葉を自分に引き寄せすぎる読み方は慎むべきですが、他人事とは思えません。

私は神の教会を迫害したことはありません。しかし、私はもともと日本基督教団の教師でしたが、一昨年末までの19年間は日本基督教団を離れ、他の教派の教会の牧師として働いていました。そして昨年4月、日本基督教団に教師として復帰しました。教団にとって私は昨年戻ってきたばかりの新人教師です。しかし、私のプライドに賭けて言わせていただけば、昨年1年間、教団のどの教師よりも多く働かせていただきました。この点でパウロと一致していると思っています。

しかし、このようなことを私が言いますと、おそらく日本基督教団の先生がたの心中は穏やかではないでしょう。私が申し上げているのは冗談のつもりはないし、誇張でもないつもりです。しかし、こういうことは自分で言わないほうがよさそうです。ある意味でいやらしい言い方です。

みなさんにご理解いただきたく願っているのは、今日の箇所にパウロが書いているのもそのようなことだということです。ある意味でいやらしい言い方です。それを分かっていただきたくて、私の話をしました。自分で言わないほうがよさそうなことです。他の使徒と比較して自分の働きの大きさを語れば、他の使徒から激怒を買うのは目に見えています。そういうことをパウロは書いているのです。

ですから、わたしたちがよく考えなければならないのは、なぜパウロはこのような刺激の強いことをわざわざ書いているのか、です。その理由ないし動機は何でしょうか。

私が思うのは、パウロが書いているのと同じことを、パウロ以外の別の使徒たちも大いに言うべきであり、書くべきであるということです。パウロ先生はずいぶんひどいことをお書きになっている。何をおっしゃいますやら、私のほうが多く働きましたよ。わたしたちを侮辱しないでいただきたいと、そのように他の使徒たちも大いに主張すべきです。

すべてお互いさまです。他の人よりも自分が最も多く働いている。そのように主張する権利はすべての人に保証されています。どうぞご自由に。

そこで起こるのは良い意味での一種の競争心です。もちろん悪い意味にもなるでしょう。しかし、競争心を持つことがいつでも必ず悪いわけではありません。競争心は向上心に通じますので。それは学校でも会社でも社会でも同じです。教会だけが別世界でしょうか。そんなことはありません。

パウロがここまで言うならわたしたちも負けないようにもっと多く働こうではないかと、他の使徒たちは刺激され、発奮したでしょう。彼らは大いに刺激されなければならないし、発奮しなければなりません。パウロがこのようなことを書いている理由ないし動機は、まさにこの点にあると思います。

そして、やや強めの言い方をお許しいただけば、パウロが書いているのは、他の使徒たちに対する批判ないし抗議を含んでいる言葉でもあります。それは同時に当時の教会のあり方そのものに対する批判ないし抗議を含んでいます。

あなたがたは怠けている。もっと働くべきだと言っているのです。「わたしたちにはこれ以上することがない」と思い込んでいる。いくらでもできることはあるのに。あぐらをかき、手をこまねいて、教会の中の気の置けない仲間内だけに引きこもり、世に出て行かない、伝道しない。それでいいのか、いいはずがないだろうと言っているのです。

もっと発奮せよ、もっと働け、しっかりせよ。「使徒たちの中でいちばん小さいものであり、使徒と呼ばれる値打ちのない者」である私ごときから、このような厳しいことを言われないように。パウロが言いたいのは、このようなことです。

言うまでもないことですが、パウロの時代の教会は、当時の社会の中では圧倒的な少数派でした。その少数派である教会を、かつてはパウロ自身も迫害する立場にいましたので、そのことは彼の心の重荷であり続けたでしょう。しかし、それとこれとは話が別です。

そして、パウロは他の使徒たちを軽蔑していたわけではありません。むしろ尊敬していました。だからこそ、彼らの働きが自分よりも少ないと感じられることに我慢できなかったのです。

実際はどうだったでしょう。ある程度想像できるのは、当時の教会は守りの姿勢が強かったのではないかということです。当時の教会を二分した問題として知られているのは、ユダヤ人キリスト者の一部が、これから洗礼を受けて新しく教会に加わりたいと願っている異邦人に対して「洗礼だけでは足りない。割礼を受けなければならない」と主張しはじめた問題です。

使徒言行録15章が参考になります。最初の教会会議であるエルサレム会議で、その問題が取り上げられました。

ユダヤ人キリスト者の主張は、聖書に基づく神学的主張というより教会内の主導権争いの面が強かったと思われます。なぜなら、生まれてすぐに割礼を受けるユダヤ人に割礼の痛みの記憶はないからです。そのユダヤ人が異邦人に割礼を要求しはじめたのであれば、教会の敷居を高くして、異邦人が教会の中になるべく入りにくいようにしたのではないかと疑わざるをえないのです。

教会は伝道したいのでしょうか、伝道したくないのでしょうか。それがいま考えなければならない問題です。「伝道」とは、教会に新しい仲間が加わることを求めて働きかけることのすべてを指します。教会は新しい仲間を求めているのでしょうか。それとも、そうではないのでしょうか。

教会が新しい仲間を求めているならば、新しく入ってこようとしている人々のために自らの敷居を低くする必要があります。しかし「洗礼を受けるだけでは足りない、割礼を受けなければならない」と主張し始めた人々は、彼ら自身がどう考えてそのようなことを言い始めたかはともかく、結果的に事実上、教会の敷居を高くすることを要求した、としか言いようがないのです。

敷居を高くして、新しい人にとって入りにくいところにするほうが教会にとって楽な面があるかもしれません。教会生活が長く、聖書の知識に満ちた人々ばかりの教会であれば、一を聞いて十を知る人々の集まりになりますので、教会運営のようなことも、すべて身内意識を持ちうる同士のあいだで、あうんの呼吸で維持できるようになるでしょう、ある意味で。

しかし、それが教会でしょうか。伝道はどこに行ったのでしょうか。「伝道」とは、十を聞いて一も理解できない人々を教会に受け入れることです。パウロがその後半生において取り組んだ異邦人伝道とは、まさにそれです。それは、聖書の知識も教会の経験も全くない異邦人をイエス・キリストへの信仰へと導き、イエス・キリストの体なる教会に迎え入れることです。

そしてそれは同時に、わたしたち日本の教会が全力で取り組まなくてはならない働きであると私は信じています。そのためにわたしたちが何をすればよいのかを、よく考える必要があります。

今日の箇所の中でまだ触れていない問題があります。大事な問題ですが後回しにしました。それは10節にパウロが3度も繰り返している「神の恵み」についてです。「神の恵みによって今日のわたしがある」、「わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず」、「働いたのは、実はわたしではなく、神の恵みである」とパウロはたしかに記しています。

不思議な言い方ではあります。他のすべての使徒よりもわたしのほうが多く働いたとまで豪語しているパウロが、自分が働いたのではなく、神の恵みが働いたのだと書いているのですから。

しかしこれが、わたしたちが伝道とは何かを考えるときに、とても大事な点です。パウロが書いているのは「神が働いた」ということではないし、「イエス・キリストが働いた」ということでもないし、「聖霊が働いた」ということでもありません。

わたしたちは何もできませんし、何もいたしませんが、神が「わたしたちの身代わりに」伝道してくださいました、という話をパウロはしていません。「私と共に神の恵みが働く」の意味は、私は何もしないで、働かないで、あなた任せで神に委ねるという意味ではありません。

そうでなく、パウロが記しているとおり、今日の私を存在せしめている根拠として「神の恵み」があるという意味です。私の存在と常に共にあり、かつ私の働きを通して多くの人に「神の恵み」が伝えられていくという意味です。私の存在を抜きにして、私の働きなしに「神の恵み」が働いたとパウロが記していないことが重要です。「神の恵み」を我々の怠慢や引っ込み思案の言い訳にしてはいけません。

しかしまた、「神の恵み」は人の手を離れていきます。これが最も大事な点です。私が洗礼を授けた人は、私の弟子ではなく、イエス・キリストの弟子です。その人々は私の信者ではなく、神の信者です。教会は神の教会であり、イエス・キリストの教会です。

この基本が踏まえられていさえすれば、どんな競争心を働かせてでも、私が遠慮なくどんどん伝道してもよいのです。

(2017年4月23日、日本基督教団千葉本町教会 主日礼拝)