2017年4月8日土曜日

レリゴー神学の限界

ヘンドリクス・ベルコフ『確かなる希望』日本語版(1971年)
これは素晴らしいな。

「新約聖書の未来待望を現代的実存論的に解釈したブルトマン神学は、特に1950年代から60年代にかけて多くの人々を魅了したが、現在ではそれはかなり衰退した。その理由は少なくとも二つある。

その一つは、時間的要素や発展的発想というものは、(ブルトマンのいうような)単に神話的表現だけでなく、事柄の本質に属していて、決して聖書の未来待望から除去することはできない、ということである。

第二の理由は次のようにいうことができる。即ち、ブルトマンの提題は戦後間もなく戦争の衝撃(ショック)がまだ強烈に残っていた時には人々に訴える力をもっていたが、地上的世界から逃避した実存主義はやがて修正を迫られ、真の自由と平等と兄弟愛を求めて戦う理想主義に道をゆずらねばならなかった、ということである。」

ヘンドリクス・ベルコフ『確かなる希望』藤本治祥訳、日本基督教団出版局、1971年(原著1969年)、11頁。

この批判は当たっている。

乱暴な言い方ではあるが「聖書を非神話化したうえで実存主義でレリゴーを語る神学」というのは、どれほど批判的学術的体裁をとっていようと、最終的にはお行儀よく飼いならされてしまうだけだ。

逃避しているだけで、参加していないし、戦っていない。

正体は1970年代には暴かれていたというわけだ。