2017年4月9日日曜日

信仰が希望を支える(千葉若葉教会)

ローマの信徒への手紙4章18~22節

関口 康(日本基督教団教師)

「彼は希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていたとおりに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです。」

千葉若葉教会で説教させていただくのは3月12日で終わりというお約束でしたが、もう少し続けてほしいという依頼を主任牧師の内山幸一先生からいただきました。それで戻ってきました。よろしくお願いいたします。

先ほどはローマの信徒への手紙4章18節から22節までの箇所を朗読していただきました。最初の「彼」は「信仰の父」と呼ばれるアブラハムです。アブラハムは、まだ「アブラム」と呼ばれていた頃、父テラが住む故郷ハランの地を離れ、妻サライ(後に「サラ」と改名)と甥ロトと共に、カナン地方に移住しました。

移住の理由は不明です。しかしハランが異教の地であったことと関係していると考えられています。アブラハムは真の神への信仰を求めて新しい地に移住しました。そして、そのアブラハムに主なる神が約束してくださったことがあります。

それは「わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を高める」(創世記12章2節)という約束でした。この約束の意味は、アブラハムとサラに「天の星の数ほど多くの」子孫を与えるということでした(創世記15章5節)。

その約束をアブラハムは信じました。その「信仰」を主なる神が「彼の義と認め」ました(創世記15章6節)。ところが彼らに与えられた子どもはひとりでした。その名はイサクと名付けられました。そのときアブラハムは100歳、サラは90歳でした。主なる神の約束は「天の星の数ほど多くの」子孫を与えるということでしたが、現実に与えられたのはひとりでした。それはある意味で矛盾です。

もうひとつ、これもやはりある意味で矛盾であると言わざるをえないことがあります。それは神がアプラハムに最初に約束してくださったことに含まれていたもうひとつの点に関係しています。それは「あなたの子孫にこの土地を与える」(創世記12章7節)という約束でした。

「この土地」とはカナン地方全域を指しています。しかしアブラハムが最終的に自分の所有の土地として手に入れたのは、ひとつの小さな畑と洞窟でした。

それは、127年の生涯を終えた妻サラを葬るためにヘト人エフロンから銀400シェケルで購入したものです。「カナン地方のヘブロンにあるマムレの前のマクペラの畑」と記されています(創世記23章19節)。それはカナン地方全域とは比較にならない小さな土地でした。最初の約束と違うではないかと言おうと思えば言えなくありません。

子孫の数についての約束と、手に入れる土地についての約束とで共通しているのは、最初の約束の内容の大きさと比較すると結果的に彼らが現実に受け取ったものがあまりにも小さいものだった、ということになるでしょう。その差は歴然としています。

しかし、そのことについてアブラハムが神を批判した形跡はありません。「神は嘘つきだ」とか「神が騙した」とアブラハムが神を批判する言葉は見当たりません。しかしそのこと自体は重要な問題ではありません。

創世記に記されているのは、アブラハムという人は、神に対して言いたいことがあってもそれを決して口に出さなかった我慢強い人でした、その「我慢強さ」を神は「彼の義」と認めました、という話ではありません。

神がアブラハムに「あなたをこんなふうにしてあげる」「あなたにこれだけのものを与える」とうまい話をもちかけてきた。うまい話に乗せられたアブラハムが故郷を捨てて出てきたのに神は彼を裏切った。しかしアブラハムはどんなに裏切られても騙されても神を信じるのをやめませんでした、という話でもありません。そういう話のほうが面白い展開になるかもしれませんが。

それではどういう話なのでしょうか。そのことをお話ししたいと思って、ローマの信徒への手紙の今日の箇所を開いていただきました。

この箇所に記されているのは、神がそれを「彼の義」と認めてくださった「アブラハムの信仰」とはどのような性質のものだったかについてのパウロの解釈です。解釈だと申し上げる意味は、パウロが書いていることが創世記に明確に書かれているわけではないということです。明確に書かれていないことについてパウロが想像力を働かせて解釈しているのです。

さて、この箇所にパウロが書いているのは、次のようなことです。便宜的に三つに分けておきます。

第一に「アプラハムの信仰」は「希望するすべもなかったときに、なおも望みを抱いて、信じる」という性質のものだったということです。それは「希望」という(「信仰・希望・愛」と三者を区別して言うように)「信仰」とは区別される事柄との関係で理解されるべきものであるということです。説明は後でします。

第二に「アブラハムの信仰」とは「神の約束を信じる」という性質のものであったということです。そしてこの「神の約束」もやはり「希望」との関係の中で理解されるべきだと申し上げておきます。これも後で説明します。

第三に「アブラハムの信仰」とは「神は約束を実現させる力をお持ちである方であるということを確信する」という性質のものだったということです。これについても同じことを繰り返します。「約束」と、「約束が実現すること」(未来の現実)と、それを実現する「力」を神が持っていることを信じること(信仰)と、「希望」の四つは互いに区別されつつ不可分の関係にある、ということです。

以上の三つをまとめていえば要するに、アブラハムの「信仰」は「希望」という要素に結びついているということです。そのようにパウロが理解しているということです。そして、今日私が強調したいのは、いま申し上げた意味での「希望」との関係で理解されるべき「アブラハムの信仰」には時間的な次元が必ずある、ということです。

難しいことを言っているつもりはありません。当たり前のことを言っているつもりです。「希望」というかぎり、その実現には「時間がかかる」ということです。それは必ずご理解いただけることです。そして、もしそうであるなら、実現までに多くの時間がかかる「希望」との関係において理解されるべき「信仰」もまた、時間との関係を無視することはできないということです。

ここから先に申し上げることで、もしかしたら皆さんの心を少し傷つけてしまうかもしれません。しかし、私も例外ではありえないことですのでお許しください。私が申し上げたいのは、「大きな希望が実現するためにかかる時間はひとりの人の人生の長さよりも長い」ということです。小さな希望であれば、実現までに長い時間はかからないかもしれません。しかし、大きな希望が実現する頃には、最初にその希望を抱いた人は、地上にはもういない、ということです。

しかし、最初にその大きな希望を抱いた人もまた、たとえその人自身はその希望が実現する頃にはもはや生きていないとしても、自分になしうることをコツコツと忠実になすことが求められている、ということです。それが、アブラハムが抱いた意味での「信仰」です。

アブラハムにとって「希望」とは、ひとつの大きな国を築くことを意味していました。その大きな希望が実現するのは、アブラハムにとっては未来に属することでした。そのことは彼も分かっていたことです。私の目の黒いうちにすべてが必ず実現しなければならないなどとは考えていませんでした。独裁者タイプの人は、どんな暴力をしてでも、急進的な実現を目指すでしょう。しかし、アブラハムは違いました。

アブラハムにとって、ひとりのこどもが生まれることと、ひとつの畑を手に入れることは神の約束の実現に向けての確かな一歩でした。それ以上は彼に与えられませんでしたが、その確かな一歩からすべてが始まりました。だからこそ、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる存在になりました。

ですから、アブラハムが抱いた「希望」の意味は「未来待望」です。彼が待ち望んだのは時間的・歴史的な意味での「未来」です。そして、その意味での「希望」との関係で理解される「信仰」は、必ず時間的・歴史的な次元が関係しています。「希望」との関係で理解されるべき「信仰」は、無時間的なものではなく、時間の中で神の約束の実現を待ち望むことを意味しています。

少なくとも、自分の個人的欲望を満たすことが聖書の意味での「希望の実現」ではありません。しかし私は、自分の個人的な欲望を満たすことが悪いと言いたいのではありません。

たとえばわたしたちは、「あなたの希望は何でしょうか」と聞かれたらどう答えるでしょうか。子どもたちは、行きたい学校とか、なりたい職業を答えるのではないでしょうか。もう少し大人になれば、住みたい家とか、乗りたい車を答えるかもしれません。年配の人たちはどうでしょうか。葬儀をどうするか、お墓をどこにするかを答えるかもしれません。

それらのことを真剣に考えることが悪いわけではありません。しかし、わたしたちにとっての「希望」はそれだけでしょうか。あまりも個人的すぎないでしょうか。どうしてもっと「大きな希望」を持てないでしょうか。

しかしそこで、教会に通っている人は違うと、私は言いたいです。教会は、キリストの体であり、信者の集まりです。そのような、きわめて具体性ある存在としての「教会」の「未来」を「待望」することができるのですから。かつそのために「今」なすべきことをコツコツと続けていくという、具体的な「希望」を、教会に通っているわたしたちは実際に抱くことができます。

たとえば、教会の土地・建物を手に入れることには何十年もかかります。教会に人が集まるようになり、小さな教会が大きな教会になっていくことにも何十年もかかります。

小さい教会が大きくなれば、それがやがて村になり、町になり、市になり、県になり、国になっていくでしょうか。

そういう「希望」をわたしたちはなかなか抱くことはできません。あまりにも大げさすぎて、そういうことを真面目に考えることができません。しかし、「アブラハムの信仰」は、いわばそのような性質のものでした。

わたしたちは急ぎすぎのところがあります。すぐ結果が出なければ気が済まないところがあります。自分の目の黒いうちに自分の努力の結果を見たいと思ってしまうところがあります。

しかし、あえて乱暴な言い方をすれば、たかが自分の目の黒いうちに結果が見える程度のことなどは、「小さな希望」にすぎません。そんなのは大したことがありません。わたしたちは、もっと「大きな希望」を持とうではありませんか。

「未来待望」としての「希望」の行き先には、わたしたちはもういません。その覚悟は必要です。しかし、だからこそわたしたちには「信仰」が必要です。それは、わたしたちの未来に、わたしたちの信仰を受け継ぐ人々が必ず起こされることを信じる信仰です。

わたしたちに求められているのは、わたしたちが待ち望んでいる未来にはもはや自分自身はいなくても、未来に生きる人を信頼し、その人々にすべてを託すことです。

(2017年4月9日、日本バプテスト連盟千葉・若葉キリスト教会 主日礼拝)