2017年4月25日火曜日

それよりとにかく生きようぜ


大人であることと、親であることと、牧師であることと、学校の教員であったことの共通点は、自分はもはやいなくても世界は存在し続けるし、子どもは大人になるし、教会も学校も活発な活動を続けていることをこそ喜ぶべき存在であることだ。「おれが育てた」わけでもない。寂しくはあるけどね。ぐすん。

自分の存在には宿命論的な意味での「必然性」(necessity)はないという意味で「私は必要ない」と私が考えることができるのはファン・ルーラーの神学を学んだおかげだ。ものすごく楽になれる。私の存在は神の遊び(「神のいたずら」と訳しても構わない)であり、神の贅沢(luxe)なのだ。

ついでに言えば、私が存在する「意味」もないとファン・ルーラーに教えてもらった。何のために生まれて何のために生きるのか。答えられないなんてそんなのは嫌だとアンパンマンのようなことを問うても答えはない。必然性も意味も問わずに済むなら全く自由に生きることができる。ひたすら楽しめばよい。

冷たい話でも詭弁でもない。子どもを産まなければならない大人はいないし、生まれなければならなかった子どももいない。何人子どもを産まなければならないと決められている親はいないし、何人目に生まれなければならないと決められた子どももいない。必然性はない。すべては自由だ。どうぞご自由に。

そうは言っても子どもはいつか親に、そしてひょっとしたら神に、なぜ私を産んだのか、こんなふうに産んだのかと問う日が来る。「こんなふうに」と問われても親は「知らんがな」としか答えようがない場合が多いだろうが、「なぜ」には何らかの言葉はあろう。「いてほしいと思ったんだよ」くらい言える。

どれほど難しく突き詰めて考えようと、我々自身の存在の根拠ないし少なくとも出発点は、その程度のことでしかない。それ以上の何を求めるか。私の人生に何の意味と必然性があるのか。生きる意味が分からない人生に価値はないのか。そんなことはないだろう。これは悟りでも開き直りでもないと私は思う。

今書いているのは辞世の句ではない。おいおいまだ殺すなよ。強いて言えば人生の意味というのは人生の最期に分かるものかもしれないと若干期待しているところはある。最期まで分からないわけだ。だったらまだ考えるのは早すぎる。四の五の言うのは構わないが、それよりとにかく生きようぜ。飯食おうぜ。