2017年4月1日土曜日

教会に固有な論理がある

記事とは関係ありません
会社や社会で長年苦労した末に教会の牧師になった方々の言葉には重みや深みがあると思うが、学業を卒えてすぐに若くして牧師になり、その後も牧師だけしてきて、家庭や生活のことで苦労している者たちの言葉にも重みや深みがあるぞ。牧師になってもそれ自体では何の解決にもならないことが分かるから。

それに、牧師になる前に生活苦を味わってから牧師になるのと、「牧師として」生活苦を味わうことは、やはり違うと思う。牧師が生活苦を味わっている様子を指して「証しにならない」というふうに言うその言い方が私はあまり好きでない。「胸が痛む」人がいても、どうぞ一緒に痛んでほしいと思うだけだ。

厳しいことを書くが、会社や社会で長年苦労してきた方々が牧師におなりになると、世間で身につけた考え方ややり方を教会に不用意にお持ち込みになるが、それが教会を破壊する。会社と比較すれば教会など小さな団体なので、この程度の少人数なら自由自在に操れると思うのだろうか。とんでもない錯覚だ。

「会社や社会の論理と教会の論理とは全く別次元である」などと私は言ったことはないし、考えたこともない。どちらが上でどちらが下かとか、どちらが聖でどちらが俗かなどと問うたことがないし、その問い自体に与しない。そういう話をしたいのではない。ただ、会社や社会の論理と教会の論理は「違う」。

会社や社会の論理と教会の論理の「違い」に気づいて、教会に興味を抱きはじめる人もいれば、逆に、自分が常識だと思ってきたことが毀損される気がして「二度と近づかない」ことを決心する人もいる。それはやむをえないことではないか。「違い」が無いかのように偽装することのほうが悪質だと私は思う。

しかし、今書いていることはある意味どうでもいい。聖書を開けばパウロが「伝道者としての」生活苦を愚痴っているとしか読めない箇所がかなりある。主イエスが貧困生活を送っておられたかどうかは、はっきり書かれていなくてもだいたい想像できる。「証しにならない」のは主イエスでありパウロだろう。

たとえばの話だが、牧師と教会員の関係は上司と部下の関係ではありえないし、全国や各地域の各個教会を包括する教団や教区の役職に就くことは昇進ではありえないし、過疎地の小規模教会の牧師になることは左遷ではありえない。何の誤解か、何の勘違いか、そういう価値観が教会に襲いかかることがある。

縷々書いたことは、きれいごとではない。異なる論理を強引に持ち込むとたちまち崩壊する団体(それが教会だ)が現にあるので、初めから壊すつもりで行くならともかく(そういう動機で行くなよ)、腰を据えて仕える気があるなら、教会に固有の論理にしっかり立つほうが長持ちするよ、と言いたいだけだ。

そういうのは自分の保身しか考えていない牧師にあるまじき態度だとか、教会の旧態依然たる悪しき体質の温存を許してしまう百害あって一利なしの非改革的姿勢だとか、言われてしまうのかもしれないが、「創造のための破壊」のようなことは教会には向かないと私は思う。まあ無視していただいて結構だが。

厄介な問題が残っていることに気づく。大学の神学部なり神学校なりの存在だ。神学部や神学校は教会ではなく、実は学校だ。教師と学生は上司と部下ではないが、純粋な水平関係でもない。忖度したり斟酌したりはある。ああメンドクサイ。神学部も神学校も「中央」ではない。それだけはたぶん間違いない。