2017年4月16日日曜日

喜べキリストの復活を(下関教会)

ローマの信徒への手紙6章1~5節

関口 康(日本基督教団教師)

「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば。その復活の姿にもあやかれるでしょう。」

下関教会の皆さま、おはようございます。日本基督教団教師の関口康です。大切なイースター礼拝に説教者としてお招きいただき、心から感謝いたします。今日はどうかよろしくお願いいたします。

遠い過去に一度、平日に下関教会の会堂に入らせていただいたことがあります。25年ほど前です。当時の下関教会の牧師は篠原満先生でした。ここでとても重要な会議が行われ、私も出席しました。

そのとき以来、今日が2回目の下関教会訪問です。つまり25年ぶりくらいです。ずいぶんとのんびりした話のようでもあります。しかし、教会というのはそういうところです。

教会の時間の流れ方はのんびりしています。変化も緩やかです。20年、30年、あるいはもっと昔の出来事を、まるで昨日の出来事のように思い起こし、振り返り、反省材料にし、決して忘れることのできない大切な記憶と記録にしていく。それが教会らしいあり方であると私は考えています。

さて先ほど朗読していただきましたのは、使徒パウロのローマの信徒への手紙6章の1節から5節です。今日はこの箇所を共に学ばせていただきたいと願っています。

この箇所に記されていることの趣旨を短くまとめていえば、わたしたちの救い主イエス・キリストの復活とわたしたちの救いの関係は何かということです。なかでも特に強調されているのは、イエス・キリストの復活と、わたしたちが教会で受ける洗礼との関係です。

ここではっきり申し上げておきたいのは、イエス・キリストの復活について聖書が教えているのは、先ほど日本基督教団信仰告白をみんなで共に唱和しましたが、その最後に加えられている使徒信条において共に告白したとおりの「肉体の復活」(からだのよみがえり)であるということです。

それは、一度は死んだ者が神の力によって再び命を取り戻し、この地上の世界にもう一度立ち上がることです。この点をごまかすことはできません。

地上の世界ではない別のところで、その意味でのいわゆる天国で、ひとりの人が永遠に生きているというようなことだけなら「復活」ではありません。そのような考えのほうがよほど信じやすいものがありますが、聖書の意味での「復活」ではありません。

あるいは、亡くなった方についての記憶が人の心の中にいつまでも覚えられているというようなことも、美しい話ではありますが、それも聖書の意味での「復活」ではありません。聖書が教え、教会が信じる「復活」は「肉体の復活」(からだのよみがえり)です。そこをごまかすことはできません。

そのようなことがどのような仕方で起こったのかについては、もちろん多くの謎の要素があります。ほとんど理解不能と言うべきです。私も理解できていません。しかし聖書に教えられていることは何なのかと問われれば「肉体の復活」(からだのよみがえり)であると言わなくてはなりません。そこはごまかしてはいけません。

そのイエス・キリストの「肉体の復活」と、わたしたちが救われること、とくに教会で「洗礼」を受けることは、その意味において重なり合う関係にあるというのが今日の箇所にパウロが書いていることの趣旨です。しかし、どのように重なり合うのかについてはよく考えないと分からないことです。なぜなら、両者の間に根本的な違いがあるからです。

その違いとは、イエス・キリストは、事実としての肉体の死を経た上で、神の力によってその肉体が復活したと、聖書が教えています。しかしわたしたちが洗礼を受けるときは、当然のことながら、十分な意味でまだ生きています。「肉体的な死」の段階に至っていませんし、「霊的な死」の段階にも至っていません。ここに両者の根本的な違いがあります。

それとも、そうではないのでしょうか。わたしたちは洗礼を受けるときに、いったん殺されなければならないのでしょうか。洗礼式は殺人の儀式でしょうか。みんなの前で一度殺されて、そのうえで牧師が復活の呪文を唱えてその人をよみがえらせる魔法の儀式でしょうか。そのように考えることは非常に危険ですし、完全に間違っています。パウロも決してそのような意味のことを書いているのではありません。

しかし、それではどういう意味でしょうか。わたしたちが「洗礼を受けること」の意味は、「イエス・キリストと共に死ぬこと」であるとパウロははっきり記しています。しかしわたしたちは事実として死んでいませんし、死にません。その点においては、パウロが記しているのはある意味で比喩であるということを認める必要があります。死んでいないのに「死んだ」と言っているのですから。

しかしパウロは、ただ大げさに言っているだけでしょうか。そうではないと申し上げておきます。重要なポイントは「恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか」(1節)の中の「罪の中にとどまる」をどう理解するかです。

この箇所に記されている「とどまる」の意味は、わたしたち自身の主体的決断を伴う、人間自身の能動的な行為です。故意に、意図的に、作為的に、能動的な悪意と計画性をもってそのことに固執し、中断するどころか継続し、離れようとしないという意味です。

つまり「罪の行為をやめようとしない」という意味です。すべての人が生まれながらに持っていると言われる「原罪」の意味で、「やむをえず罪の性質を持ち続けている」という意味ではありません。

その両者、すなわち「罪の行為をやめようとしないこと」と「罪の性質を持ち続けていること」は厳密に区別しなければなりません。しかし、まさにここがごまかされやすいのです。カムフラージュされやすいのです。教会の教えが陥りやすい罠でもあります。よくよく気を付けていないと、教会の教えが犯罪者の自己弁護に都合よく利用されてしまいます。

聖書の教えによれば、なるほど確かにすべての人が罪の性質を持ち続けています。しかしだからといって、すべての人がいつでも必ず重大な犯罪行為に手を染めているわけではありません。すべての人が殺人を犯しているわけではないし、強盗や姦淫や偽証を犯しているわけではありません。

それらの罪が自分とは関係ないし、そういうことを犯す可能性はありえないと言い切ることはできません。いつでも悪い段階へと発展してしまいかねない弱さをすべての人が持っていることは否定できません。しかしだからといって、すべての人が日々犯罪行為を重ねることに固執しているわけではありません。それは言い過ぎです。

もし「罪にとどまること」を先ほどから申し上げている意味での「罪の行為をやめようとしないこと」として理解すべきであるとすれば、そのことのちょうど反対の意味で言われている「罪に対して死ぬこと」は、まさにちょうど反対の意味での「罪の行為との死別」、すなわち「罪の行為からの解放」という意味での「救い」でなければなりません。

そして、その続きの「なおも罪の中に生きることができるでしょう」という中の「罪の中に生きる」もまた、「罪の行為をし続けること」という意味でなければなりません。ここでパウロが記しているのは、すべての人が生まれながらに持っている「原罪」という意味の「罪の性質」ではなく、あくまでも「罪の行為」です。

「性質」と「行為」は全く無関係とは言えませんが、厳密に区別しなければなりません。そのように理解しないかぎり、この箇所にパウロが記していることは全く理解できません。

そして、今日私が強調して申し上げたいと願っているのは、わたしたちが教会で受ける洗礼の意味は「イエス・キリストと共に死ぬこと」であるとパウロがはっきり記していることの意味は、肉体的な死ではないし、霊的な死でもなく、「罪の行為との死別」、すなわち「罪の行為からの解放」という意味での「救い」である、ということです。

そして、もしそうであるならば、今日の箇所全体でパウロが語ろうとしている、イエス・キリストの復活とわたしたちの救いとの関係、特にわたしたちが教会で受ける洗礼との関係は何かという問いの答えが次第に分かってきます。

パウロが記している「わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものになった」(4節)の意味は「罪の行為との死別」、つまり「罪の行為からの解放」としての「救い」です。

もしそうであれば、「新しい命に生きること」(4節)、あるいは「キリストの復活の姿にあやかること」(5節)は、罪の行為とは反対の「善い行為」を行うことにおいて積極的な生き方を意味しています。それが「罪に死に、キリストに生きること」の意味です。

教会で「善い行為」の話をすると「宗教は道徳ではない」と反論されることがありますが、パウロが書いているのは「善い行為」の勧めです。教会は犯罪計画を常に企て、それを実行に移す団体ではありません。

わたしたちは、たとえ聖書が人間の罪深い性質を教えているとしても、だからといって罪の行為に市民権を与えてはいけません。「わたしたち人間が罪を犯すのは当然である」とか「やむをえない」とか、そのようなことを聖書は教えていません。そんなばかげた話はないのです。

今こそ真剣に考えなければならないのは戦争の問題であると思います。私は昨日羽田空港から山口宇部空港まで飛行機で来ました。朝鮮半島との距離の近さを実感しました。とんでもないことがこれから始まるかもしれません。緊張が極度に高まっています。

このようなときに、教会が「人間が罪を犯すのはやむをえない、当然である、仕方ない」などと教えて、戦争による解決を当然視するようなことをしてはいけません。

わたしたちは、イエス・キリストの復活の姿にあやかります。罪深い性質は持ち続けていますが、罪の行為を断固拒否します。わたしたちは神の御心に従った信仰と希望と愛の道をめざします。この道をこれからも歩んでいこうではありませんか。

(2017年4月16日、日本基督教団下関教会イースター主日礼拝)