本文とは関係ありません |
挙句の果てに、礼拝の中でのお祈りで「この小さい教会を」とか「この少ない礼拝を」とか言い出したり。その場で家に帰りたくなる。逆に、数十年単位でその教会にいた方々が「小さくなった」とか「少なくなった」とかおっしゃるのも聞いていて胸も頭も痛くなる。なぜわざわざ言わなきゃ気が済まないの?
ものの考え方のクセのようになってしまっていて、ご自分たちでも無自覚なのかもしれない。こういうことを書くのも、批判というより「気づいてくださいよ」と言いたい気持ち。謙遜のつもりかもしれないというのは分かる。でも、だから前記の意味の「外から来た人たち」がそれを言うのが気になるわけだ。
ひとつの教会に長くいれば、それはもういろいろある。四分五裂もある。それでも教会に踏みとどまってきた人たちの前で、そのいろいろに居合わせたわけでもないという意味で何も知らない「外から来た人たち」が、現象面だけを見て「小さい教会」「少ない教会」と、よく口にできると、呆れる思いになる。
教会の規模が持つ意味は、初めての方には敏感に分かることだとは思う。あまりいろいろ構われたくなくて、そっと行ってそっと帰りたい方々にとっては「その他大勢」の扱いをしてもらえそうな規模の教会の中に紛れ込みたいだろうし、会話やふれあいを求めたい方々は規模が小さいほうがありがたいだろう。
でも、初めての方にちょっとだけ分かってもらいたいのは、「小さい教会」「少ない教会」は、初めから小さくあろうとしたわけではないし、「成長したい」という願いを全く持っていないわけではないということだ。「小さい教会」「少ない教会」と言われると、教会の人は、少なからずがっかりするものだ。
今書いていることは、初めての方や、最近通いはじめた方々や、赴任したばかりの牧師は、古くからの教会員を斟酌すべきだとか忖度すべきだとか言いたいのではない。小さい教会を見ると「小さい」と言うのは、太った人を見ると「太っている」と見たままを言うのと似ているのではないかと言いたいだけだ。