2015年7月1日水曜日

私もカール・バルトの本を30年は読み続けてきました

私の書斎の「カール・バルトコレクション」です
いやべつにいいんですが、つい先ほどネットで面白い記事を見つけました。関口康批判です。おお、ついに、叩かれてナンボのアイドル並みになったか。まあ、でも、私だけでなく、他の人たちのこともぶっ叩いておられるようですから、少し安心しました。反論の意思はありません。白旗あげます。まいった。

ご自分のブログで、ものすごい長文で私を名指しで批判してくださった方は、全く存じ上げません。ネットから垣間見えるのは、キリスト新聞社から『全キリスト教、最後の宗教改革者カール・バルト』(2013年)という本を自費出版した人で、1947年生まれ(今年69)の人だということくらいです。

よく分かりませんが、カール・バルトのことをほんの少しでも批判的に言うと、この方のターゲットになってしまうようです。ロックオンされる。まあ、つまりは、バルトを「愛しちゃっている」というところだと思いますね。それはそれで私はぜんぜん構わないし、恩師への尊敬の念は尊いものだと思うので。

恩師の悪口を言うやつはゼッタイ許せん的な何かでもお感じになったのでしょう。まあでも、バルトの「存在」とバルトの「論理」は区別できなくちゃ逆に困ると思うんですけどね。私はバルトの「存在」をけなしたことはないですよ。少なくとも高いお金払ってバルトのほとんどの著作を買って持っています。

「読めば分かる」ということを言われるなら、同じ言葉をファン・ルーラーに関してお返ししたいです。「ファン・ルーラー読んでくださいね」と言いたいです。私がバルトの神学を理解できていないという批判は甘んじて受けますが、ファン・ルーラーはバルトを徹底的に読んだ人ですからね。もーなんだか。

上の写真は私の書斎の本棚の一部ですが、写っている「すべて」がカール・バルト「の」(of)または「についての」(about)の本です。ジャスト30年かかってやっとこれだけ集めました。買うだけならだれでもできると言われればそれまでですが。

バルトのことで思い出しました。ちょうど30年前です。学生寮で仲良くしていただいた先輩の修士論文の手書きの清書をお手伝いしたことがあります。テーマがカール・バルトに関することでした。また、その先輩の紹介で、吉永正義先生訳『カール・バルト著作集』の清書のお手伝いをしたことがあります。

私が清書のお手伝いをした『カール・バルト著作集』(新教出版社)は、第5巻「倫理学論文集」です。どの論文だったかまでは覚えていませんが、複数の論文でした。原稿の受け渡しついでに、吉永正義先生のお宅で行われていたバルト翻訳会にも何度かお邪魔しました。すべてちょうど30年前のことです。

1998年から2004年まで山梨県の教会の牧師をしていましたが、最後の2年間くらい、山梨市在住の日本基督教団隠退牧師のお宅で開かれていたカール・バルト研究会に出席させていただきました。また今は休会中ですが、私が呼びかけ人になってグループビデオ通話でカール・バルト研究会をしています。

しかし、なるほど私は「カール・バルト研究者」のような者では全くありませんし、むしろバルトの神学に対して過去30年にわたって疑問を感じ続けてきた者です。その意味では、私はたしかに、バルトに対する「愛」において、バルト研究に専念しておられる方の足元にも及びません。全く敬服いたします。