2015年7月9日木曜日

風前の灯


今日の午前中考えたことを、もう一つ書き残しておこう。

ネットで散見する言葉に八つ当たりしたいわけではない。しかし、かなり繰り返し見かけるのは「私はキリスト教を信じているのではなく、キリストを信じている」という言い分だ。見かけるたびに思うのは、「という信じ方ないし教え方をするタイプのキリスト教を信じておられるのだな」ということだ。

「教会には行ったことがある。だが、やめた。あのようなところには二度と行かない。いろいろ嫌な目に遭った。しかし、私は神とキリストを自分の心で信じている。それで十分だ。教会なる団体は私には不要だ」とおっしゃる方はあまりにも多い。そのような言葉を見たり聴いたりするたびに、耳も心も痛い。

ふざけているわけではないが、たとえば「教会」を「ケーキ屋」に置き換えたらどうだろう。「ケーキ屋には行ったことがある。だが、やめた。あのようなところには二度と行かない。いろいろ嫌な目に遭った。しかし、私はすべてのケーキを自分で作る。それで十分だ。ケーキ屋なる団体は私には不要だ」。

あるいは「理容室」はどうだろう。「理容室には行ったことがある。だが、やめた。あのようなところには二度と行かない。いろいろ嫌な目に遭った。しかし、私は自分の髪は自分で切る。それで十分だ。理容室なる団体は私には不要だ」。おそらく実はあまり違和感ない文章になっていると思うのは私だけか。

「教会」を「ケーキ屋」や「理容室」に言い換えてみていることに、ケーキ屋さんや理容室の方々、それらのお店に行く人/行かない人に対する揶揄やからかいの意図は全くない。むしろ逆で、よく似ているところがあると思いながら書いている。すぐ思い浮かぶ、かなり共通している要素が実際にあると思う。

「教会」と「ケーキ屋」と「理容室」の共通点としてすぐ思い浮かぶのは、「そのようなことはすべて自分でできる。それで十分事足りる。なのであなたがたは要らない。少なくともそんな団体は要らない」と言われれば、「なるほどそうかもしれませんね」と立ち去るしかない存在かもしれないということだ。

しかし...と、このあたりで話を終わるのがいつもの私のやり方なので、今回もそうする。キキーッ。「あれ?もう着いちゃった。もっともっともーっと話を聞きたかったけど、続きはまたね。ヒゲの隊長さん」「ははっ、お手柔らかに」「シーユー!」みたいな、とても嫌な終わり方だ。いつも申し訳ない。