レオンハルト・ラガツ著『ブルームハルト父子の神の国のための戦い』(1925年) |
「要するに人類は罪深い」「要するに社会は悪い」「要するに教会はだらしない」と言い放つのは痛快ではあるが、激怒を買うか聞き流されるだけだ。全否定すべきでないと言いたいのではないが、全否定するにも丁寧な手続きが必要だ。しかも、全否定する対象の中に、自己の存在は必ず含めることが大切だ。
今の社会は、死刑執行者や無人戦闘機(ドローン)操縦者や積極的安楽死に携わる人のPTSDを緩和する対策を考えようとする。躊躇も葛藤もなく人の命を奪う仕組みを生み出そうとする。宗教はそれではまずい。どれほど精密な対策がなされていても、そこに躊躇があり葛藤があることを言い続けるべきだ。
明日は報道をシャットアウトして投票ボタンを押させることで強行採決の罪悪感を緩和しようとするのか。顔と名前をさらして政権批判を行う若者たちを匿名で叩くネトウヨと大差ない。匿名の国会議員は概念矛盾ではないか。国民の代表者でも何でもない。そのやり方に妥当する形容詞は「卑怯」ではないか。
実際どうするつもりだろう。丸腰のデモ隊に戦車かマシンガン隊でも差し向ける気なのか。戒厳令でも発令するのか。国際世論に耐えられるのか。天につば吐く行為だろう。連休明けたらみんな忘れるだって。本気でそう思うのか。それは希望的観測ならぬ希望的妄想だ。地下シェルターに潜り続ける気なのか。
私が考え過ぎなのか。いっそそうであってほしい。宗教者らしく奇跡を期待しよう。いっそそうしたいものだ。「結局何も起こらなかったね。なーんだあはは」と笑えるようならありがたい。頭痛と胃痛がまたひどいので、そろそろ休む。ぐっすり眠れるだけの神経が残っているのは、かろうじて幸せではある。