2015年7月22日水曜日

フィリピの信徒への手紙の学び 12

松戸小金原教会の祈祷会は毎週水曜日午前10時30分から12時までです
PDF版はここをクリックしてください

フィリピの信徒への手紙3・17~4・1

関口 康

前々回申し上げたとおり、パウロはこの手紙を「では、私の兄弟たち、主において喜びなさい」(3・1)という言葉で締めくくろうとした可能性があります。「では」は手紙などを締めくくるときに用いられる言葉だからです。

しかしパウロはそこで筆をおきませんでした。おそらくパウロはこの手紙を「喜び」を語ることだけで済ますことに躊躇を覚えたのです。「あの犬どもに注意しなさい」(3・2)と続けました。キリスト教信仰に敵対する人々がいるということを語りはじめました。

あからさまに書かれているのは当時のユダヤ教徒のことです。しかし、キリスト教信仰に敵対してきた人々はユダヤ教徒だけではありません。あらゆる国の、あらゆる時代の、あらゆる宗教の人々、あるいは無神論者が、キリスト教信仰に敵対してきました。

私が子どもだった頃には「アーメン、ソーメン、冷ソーメン」だのと、まだ言われていました。ものすごく嫌でしたが、多勢に無勢でしたので黙っていました。その手のことに巻き込まれるのが面倒だったので、教会に通っていることを学校では隠していました。

私の場合は、だからこそ牧師になろうと決心した面があります。牧師にならなければ、教会に通っている人間であるということを公表することすら憚られる、という思いがあったからです。私の故郷の岡山が中途半端な田舎だったからかもしれません。こういう理由で牧師になることが不純な動機かどうかは分かりませんが、いまだにこれ以外に表現のしようがないと思っています。

この個所をパウロは文字どおり泣きながら書いています。そのようにはっきり書いています。「何度も言ってきたし、今また涙ながらに言いますが、キリストの十字架に敵対して歩んでいる者が多いのです」。これは大げさな言葉ではありません。このあたりの字が涙でにじんでいたのではないでしょうか。

しかし、パウロが泣いていたのは、自分が信じている宗教を否定されたからであるとか、自分のしていることをけなされたからというようなこととは違うと思われます。続きを読みますと「彼らの行き着くところは滅びです」とあります。「彼らは腹を神とし、恥ずべきことを誇りとし、この世のことしか考えていません」。

ここでパウロが考えていることは、救い主としてのイエス・キリストに、あるいは宗教としてのキリスト教に敵対する人々の先行きを案じている、というのが最も近いです。要するにパウロは彼らの心配をしているのです。

「腹を神とする」と同じ意味の「腹」を、パウロはローマの信徒への手紙でも用いています。「こういう人々は、わたしたちの主であるキリストに仕えないで、自分の腹に仕えている。そして、うまい言葉やへつらいの言葉によって純朴な人々の心を欺いているのです」(ローマ16・18)。

「腹」の意味が同じであるだけでなく、「自分の腹に仕える」と「腹を神とする」が同じ意味です。自分のお腹をあたかも神であるかのように礼拝することです。これは比喩ですし皮肉です。パウロが書いている意味の「腹」は欲望の象徴です。食欲に限らず、すべての欲望が含まれます。

欲望を満たすことのすべてが悪いわけではありません。欲も望みもなくなれば、人生の活力は消え失せるでしょう。しかし、問題は、自分の腹(欲望)と神を引き換えにすることです。自分の腹を選ぶか、それとも神を選ぶかという二者択一を迫られる場面で迷わず腹を選ぶということになるならば、それは自分の腹と神とを引き換えにすることです。

しかし、よく考えれば、わたしたちが自分の欲望を満たすことと、神を信じて教会に通うことは激しく対立することではないはずです。このように言うと驚かれるかもしれませんが、わたしたちが教会に通うことに強制や脅迫の要素があるならばともかく、自由と喜びのうちに自発的に教会生活を送っている人は、そのことが自分の満足にもなっているはずです。

わたしたちが神を信じて生きるとは、神の祝福のもとに置かれることであり、神の恵みが豊かに注がれることを意味しています。それは言葉の正しい意味での幸福な人生であり、満足できる人生です。満足することと、欲望ないし欲求が満たされることは、矛盾することでも対立することでもありません。

ところが、両者があたかも対立するものであるかのようにとらえ、神か腹か、宗教か欲望か、教会か社会かというような二者択一を考え、神と教会とを切り捨てる選択肢をえらんでいくときに、パウロの言う意味での「自分の腹を神とする」という批判の言葉が該当しはじめるのです。

もちろん、どの宗教を信じても同じというわけではありません。どの登山口から登り始めても頂上は同じという考え方(それを宗教多元主義といいます)はパウロにはありません。彼はただ心配しているのです。真の救い主イエス・キリストを知る者として。イエス・キリストへの信仰によってしか決して赦されえない深く大きな罪をもっていることを自覚している者として。自分は弱い人間であることを知る者として。

「わたしたちの本国は天にあります」(3:20)はとても有名な言葉です。文脈的には唐突ではありますが、パウロの意図は分かります。「本国」と訳されているギリシア語(ポリテューマ)は「コロニア」というラテン語に訳されて、コロニー(植民地)の語源になりました。しかし、このパウロの言葉を「わたしたちの植民地は天にあります」と訳すのは誤解を招くだけでしょう。

とはいえ、この手紙の最初の読者、フィリピの教会の人々はローマ帝国の植民地(コロニア)に住んでいたという歴史的な事実は勘案されて然るべきでしょう。彼らがローマ帝国に逆らうことは反逆罪であり、ただちに死を意味していました。ローマ帝国は支配下の人々に対し、独裁者たるローマ皇帝を神のごとく崇拝すること、皇帝礼拝を行うことを強制しました。キリスト教に敵対していたのはユダヤ教徒たちだけではなく、こうしたローマ帝国の皇帝礼拝を強制する人々でもありました。

しかし、「キリスト者のコロニアは天にある」。このパウロの信仰告白には、ローマ帝国が強制する皇帝礼拝に対する明確な拒否があります。わたしたちの真の支配者は、父なる神と、救い主イエス・キリストだけであって、ローマ皇帝ではない。真の神がわたしたちを愛してくださり、守ってくださる。そのことを信じて生きていこうではないか。神の他に何も恐れるものはない。そのようにパウロは彼らを励ましているのです。

(2015年7月22日、松戸小金原教会祈祷会)