ゴジラ視線で見た東京(たぶん) |
ご心配やらいろいろいただいてしまうと申し訳ないと思っているので、自分の不調をネットに書くことがほとんどない私であるが、お許しいただきたい。血圧上昇の原因は分かっているので、それが取り除かれれば復調する。単純な算数の問題だ。引き算するか、足し算するかの違いだけ。ご心配には及ばない。
めしはうまいし、よく眠れる。病院はかかっていない。それがダメだと言われるが、だって医者きらいなんだもん。それでも最近レントゲンとエコーでお腹見てもらったが異常なし。あとは売薬の頭痛薬と胃薬だけ。頭痛薬が続くと血圧が上がる。逆も然り。頭痛薬を減らせられる状況になれば、血圧は下がる。
しかし、頭痛薬はくせものだと感じる。最近ストレス耐性が弱くなった気がする。神経が前より細くなったというか。ついさっきも信号待ちしていたときに横をゆっくり走り抜けた救急車のサイレンの音が神経に障る。目をつぶって歯を食いしばって去りゆくのを待つ感じ。こんなこと前にはなかったと思うが。
話は突然飛躍する。私は前々から書いてきた。何年か前に若くして亡くなられた翻訳者/翻訳研究者の山岡洋一さん(『翻訳とは何か』著者)が改めて惜しいと思う今日このごろだ。今の状況にこそ必要な存在だったと思う。「翻訳」という独特の観点から日本の社会や教育の本質と課題を考え抜いておられた。
山岡先生によれば日本は明治政府以来、国策として「翻訳」を重んじてきた。選抜されたトップエリートの学生と学者に国が与えた仕事は「翻訳」だった。それによって日本人は、たとえまだ完全でないとしてもとにかく自分の母語で世界の名著を読めるし、日本語で世界水準の教育を受けられるようになった。
しかし、日本以外のアジアやアフリカの国は、日本ほど「翻訳」を重んじてこなかった。だから、それらの国ではトップエリートというほどでなくても最終学校歴を欧米の大学に求める人が多い。このあたりは山岡洋一さんが書いていたことか私の読み込みか、少し怪しいが、趣旨はこういうことだったと思う。
べつに私は負け惜しみを言っているわけではないつもりだが、山岡洋一さんの「翻訳」についての考えに強く感銘を受けた。ちょうどその頃だったはずだが、日本のテレビでハーバード白熱教室なる番組が始まり、サンデル教授の講義に接する機会を得た。そして山岡さんの考えが当たっていることが分かった。
サンデル教授とハーバードの学生たちのやりとりを聞いていて思ったことは、これ現地に行かなくてもできるよなということだった。プラトンやアリストテレス、カントやヘーゲルのような古典的な哲学書は日本語版が完備されている。あれを読めばいい。それで「サンデル超え」できる(いやそりゃ無理だ)。
もちろん日本語にはほとんど「翻訳」されたことがない学問分野はいまだにいくらでもあるので、源泉の地で学ぶことの意味を否定する意図は皆無だ。また、純粋かつ単純にハクをつけるためという目的もありだと思う。しかし、日本は「翻訳文化」を国策として選択してきた。そこに、他国との違いさえある。
私が言いたいことは、日本の大学は世界大学ランキングなど気にしなくていいと思うということに尽きる。プラトン、アリストテレス、カント、ヘーゲル、あと聖書、アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、ウェスレー、バルトその他を日本語で十分読みうる。これ読んで理解できればサンデル教室と同格だ。
悪い意味の「対米従属」の片棒を担ぐ人々のプライドの根拠が現地の人とツーカーだということであるとしたら(本人たちに聞いたわけではないので想像の域を超えないが)、人脈力においては現地に行ったことがない者たちは彼らにたしかに敵わない。しかし、学術レベルの差まで言われると反発したくなる。
ああ、またちょっと血圧が上がってきたようだ。深呼吸、はふう。気忙しく働いておられる方々には申し訳ないことだが、今日はパソコンの前から離れて休ませていただくほうが良さそうだ。際限なき長寿を求めているわけではないが、しなければならないことがあと少しだけ残っている。プリーズ・ウェイト。