2015年7月21日火曜日

大げさに言えば宗教と政治

本文とは関係ありません
私は純粋かつ客観的に無党派層の一員であり、日本国内の何党の党員でも支持者でもない。「事実上」とか「隠れ」とかでない明示的な公党としてのキリスト教政党が日本に誕生すれば支持しますと(ネタでなく)ずっと前から公言しているのだが、一向にその動きはないので「支持政党なし」の状態のままだ。

だから「九条の会」とか今の学生たちのデモに、特定既成政党の党勢拡大の意図を少しでも感じたら、私は即日身を引く。べつにリベンジではないが、教会が信者獲得(我々はそれを「伝道」と呼ぶ)を意図した行動をとることへの社会的白眼視や警戒心と、たぶんよく似ている。お互いさまだと思ってほしい。

お察しの通り教会という団体は「神を信じる」などということを口にするだけあって、きわめて自尊心の強い集団だ。他の団体に利用されることを最も苦手とする。外部からの支配や制御を少しでも感じると即刻抵抗する。下品な言葉は意図的に避けようとする人が多いが、心中では「なめるな」と思っている。

だからこそ、日本国内でキリスト教というか教会が急激に「流行る」ことはないのかもしれない。波に乗るとか、風に乗るとかが苦手な者たちだ。だけど、いったん一つの視座や土台を得ると、相当辛抱強い、人と社会の何かが健全なものであるように持続的に支え続けうる集団になる。これもたしかなことだ。

ふとそういうことを考えたので、忘れないうちにメモしておく。もう一度書く。日本に限らずキリスト教の教会は外部のいかなる団体からの支配や干渉もおそらく拒否する。票田のようなものにはたぶんならない。たとえそれが「政治的に良いこと」であっても、教会は距離を置く。自主判断で何事も決断する。