2015年7月20日月曜日

いっそ神学書もすべてツイッターで書けば

2年前(2013年)の写真です。まだ元気だったなあ(遠い目)
ツイッター公式サイトの「140字枠」を利用して説教原稿を書くことに慣れてきました。このままツイートボタンを押して拡散してもよさそうだと思えるほど、不特定多数の方々の目を意識しながら書いています。まだまだですが、分かりやすさと上品さを兼ね備えた文体を追求するようになったと思います。

換言すればそれは、教会の言葉としての説教の言葉がより多くの「社会性」を獲得することを意味するはずです。私はかねてから説教の改善のためには「塾」に通うより原稿をブログに貼り付けて公衆の面前に晒すほうがはるかに有効だと主張し続けてきましたが、今書いているのはその「ツイッター編」です。

いっそ神学書もすべてツイッターで書くといいのかもしれません。もしそれが「人間の言葉で」かつ「日本語でも」表現されるべきものであるならば、「社会性」を身につける必要があります。ツイッターに書く言葉が「何を言っているか分からない」人は、教室でも「何を言っているか分からない」はずです。

ウケを狙う必要はありません。ウケ狙いの内容や文体はすぐバレますので、かえって信頼を失う原因になります。ただ、実際に始めると分かりますが、心身を集中して説教原稿として30ツイート分を書き下ろすのは重労働です。ハタ目から見ると「ツイッターしかしていない人」に見えますが、それはご愛嬌。

しかし、私がツイッターを説教原稿を書くために利用しているというのは、実際の説教を行う前に原稿をツイッターで流してしまうという意味ではありません。重要なことは「140字枠」と「不特定多数の読者」を意識しながら書くことだけです。仕上がった原稿は、説教終了後、ブログに貼り付けています。