2015年7月9日木曜日

「を信じる-人々の-団体」の必要性

胃薬の必要性

「を信じる-人々の-団体」というクッションがあるからこそ、うまくいけば主観性-人間性-一般性が出てきて、人にやさしいものになるはずだ。でも「うまくいけば…はずだ」とへんちくりんな断り書きをしなくてはならないのは、クッションの価値が正しく評価されないことが少なくないと思えるからだ。

人へのやさしさなんか要らないと言われてしまうことがあるのかもしれない。でもそうなると脅迫・恐喝のたぐいに近づく。「を信じる-人々の-団体」が正しく機能すれば、それはむしろ阻止できる。阻止できない原因は「団体」が存在すること自体ではなく、「団体」が本来の機能を果たせていないからだ。

「を信じる-人々の-団体」は苦手なのでそういうのを介さない直接的な関係のほうが気楽だという向きがある(少なくない)のは、全く理解できないとは思わないが、そこであとひとふんばりをお願いしたいところだ。主観性-人間性-一般性を「不純」とする潔癖感覚から離脱する必要があるかもしれない。

というようなことを今朝考えた。毎日よく眠れるので、朝だけはとりあえず調子いい。あと数時間もすれば「ああもう疲れた」という感覚に悩まされ始めるのだが。主観性-人間性-一般性は、たしかに疲れる。でもこの疲れこそが、「原液のままで飲むと胃がやける」ものを飲み干すためのクッションになる。

主観性-人間性-一般性は疲れる。しかし、その疲れが「原液のままで飲むと胃がやける」ものを飲み干すためのクッションになるとは、どういうことか。疲れを自覚している人は、一気飲みはしないし、できない。チビチビやる。無理やり一気に決着つけなくてはならない場合でも、せめて胃薬くらいは飲む。

芸術家、ないし芸術家タイプの人(揶揄の意図はない)は、何日も眠らず、何ヶ月も一日も休まず、ひとつの作品を造り上げたりする。文筆家然り、プログラマー然り。強靭な心身の持ち主なら、それやってもすぐ次の作品に着手できるかもしれない。しかし、そうでない人は、一つ仕上がるとしばらく倒れる。

そういう「一気」の集中力なしには、いかなる芸術も完成しない、かもしれない。だけど、そのような「一気」のやり方は人の心身を著しく壊す。そして、悪く行けば、その作品も一発屋で終わる。あとが続かない。それでいいのかと心配になる。「余計なお世話だ」と反発されるかもしれないが、あえて言う。

ファン・ルーラーの神学は日本ではいまだにほとんど評価されていない。その理由が私は分かる。この神学者は「を信じる-人々の-団体」の持つ主観性-人間性-一般性の価値と必要性を擁護し続けるからだ。それが彼の「聖霊論」の趣旨だ。彼の「聖霊論」は人間くさい。それが不純だと思われるのだろう。

しかし私はファン・ルーラーの人間くさい「聖霊論」を擁護する。それは「を信じる-人々の-団体」の価値と必要性を擁護する必要を痛感するからだ。最初からファン・ルーラーの神学を知っていたわけではない。彼の神学が「を信じる-人々の-団体」を擁護する神学だと分かったから支持することにした。