2015年7月8日水曜日

フィリピの信徒への手紙の学び 11

松戸小金原教会の祈祷会は毎週水曜日午前10時30分から12時までです

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フィリピの信徒への手紙3・12~16

関口 康

この個所にパウロが書いているのは一つのことです。私パウロはまだゴールにたどり着いていないと言っています。走っている最中である。何ひとつ諦めないで、投げ出さないで、走り続けている。一等賞はもらっていないが、最下位でもない。決着はついていない。勝敗は決していない。

書かれていること自体は、パウロの人生を彼自身がそのようにとらえていたことを表わすものです。それは彼の人生観であり、自己理解です。人生とはレースである。スタートがあり、ゴールがある。その間をひたすら走り続けるのが我々の人生である。少なくとも私パウロは自分の存在をそのようなものとしてとらえていると言いたいのです。

人生の時間の長さは人それぞれです。客観的・時間的な意味で短かったと言わざるをえない人生もあり、他の人と比べて長かったと言いうる人生もあります。どちらのほうがよいと一概に言えない面もあります。人間的な言い方をすればイエスさまは「短命」でした。レースには短距離走も長距離走もあります。重要なことはスタートからゴールまで走り切ることです。すべての道を自分なりの力を尽くして走り終えることができたと自分で思えるなら、それでよいのです。

「既にそれを得たというわけではなく」(12節)の「それ」が指している内容が10節から11節までに書かれています。「わたしはキリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」。

これは明らかにパウロの人生の究極目標です。しかし、それをパウロは遠慮がちに「何とかして…したい」と書いています。そのあとのパウロも遠慮がちです。「だから、わたしたちの中で完全な者はだれでも、このように考えるべきです。しかし、あなたがたに何か別の考えがあるなら、神はそのことをも明らかにしてくださいます」(15節)と書いています。

「このように考えるべき」(15節)の「このように」に、パウロがここまで書いて来たこと、とくに10節以下に記されている「わたし」の人生の目標の内容のすべてが含まれています。パウロの意図は明らかに、「わたし」の目標は「わたしたちの中で完全な者」のすべてにとっての目標でもあるべきであるということです。しかし、パウロはあなたがたには「わたし」とは「別の考え」もあるかもしれませんと続けます。私の確信をあなたがたに強制するつもりはありません。みなさん各自のご判断にお任せしますと言い出し始めるのです。

しかしパウロは、どれほど遠慮がちに書いているときでも、自分の信じていることに確信を持っていないわけではありません。すべてのキリスト者のみならず地上に生きる全人類が目標とすべきことはこれであると確信するものを持っています。それは四点あります。

第一は「キリストとその復活の力を知ること」です。

第二は「キリストの苦しみに与ること」です。

第三は「キリストの死の姿にあやかること」です。

第四は「何とかして死者からの復活に達すること」です。

これだけでは、ほとんど意味が分からないでしょう。しかし、ある程度までなら理解できそうなのは、第二と第三かもしれません。「苦しみ」と「死」は全人類の共通する事実であり、体験だからです。苦しんだことがない人はひとりもいませんし、死ぬことがないという人はひとりもいません。

しかしまた、書かれていることをじっくり読めば、パウロが書いていることは、わたしたちが各自の人生の中で体験するのと全く同じ意味の単なる苦しみや単なる死の話ではないように思えてきます。なぜなら、ここでパウロが書いているのは「キリストの苦しみ」だからであり、「キリストの死の姿」のことだからです。

「キリスト」とは歴史上に実在した人物です。パウロはこの方を真の救い主として信じています。その救い主であるお方が地上の人生において深く味わい続けた苦しみが「キリストの苦しみ」です。そして、この方が多くの人々の前にさらされた十字架上の死の姿が「キリストの死の姿」です。このキリストの苦しみに私も与る。このキリストの死の姿に私もあやかる。それが私の、そして私たちの人生の目標なのだと、パウロは語ろうとしています。

「与る」の意味は「参加すること」です。参加するとは、英語でパーティシペイト(participate)と言います。その意味は、パート(part)になること、役割を分担することです。全体の中の一部分を構成する要素になるということです。

このことがパウロの言葉にもそのまま当てはまります。キリストの苦しみにわたしたちが与るとは、誤解を恐れず言えば「キリストの苦しみの一部をわたしたち自身が受け持つこと」です。

もちろん、わたしたちはキリストではありませんので、キリストが味わわれたのと等しい苦しみをわたしたちが味わうことはできないし、そこまでのことはわたしたちに求められていません。

しかし、キリストの苦しみの一部分でも分け与えていただき、それを受け取り、味わうことを、わたしたちの光栄とし、誇りとし、喜びとする。それが「キリストの苦しみに与ること」の意味です。これは難しい話ではありません。キリストが苦しまれた理由をわたしたちは知っているからです。

父なる神の御心に忠実であり続けることにおいて、赦しがたい人類の罪を赦すことにおいて、助けを求める人々のもとを訪ね、力を尽くして助けることにおいて、わたしたちの救い主イエス・キリストは苦しまれました。「キリストの苦しみ」の内容は、イエス・キリストが現実社会の中で働いてくださり、世と人のために最善を尽くしてくださったことと決して無関係ではありません。

キリストは十分な意味で「労働」してくださった方です。そしてわたしたちもその意味での労働者です。教会の中で/教会を通して、さまざまな奉仕を行うことにおいて苦労があり、疲労があります。わたしたちが、教会の中で/教会を通して味わう苦労や疲労は、歴史の中で活躍されたわたしたちの救い主イエス・キリストから受け継いだものです。

たとえば、わたしたちが聖書を読んで理解すること、聖書に描かれているイエス・キリストが地上でなさったのと全く同じことを真似してみること(イミタチオ・クリスチ、キリストのまねび)だけでも一苦労です。

イエスさまは、安息日ごとに会堂で説教されました。多くの人の相談に乗り、悩みを聞き、問題を解決してくださいました。信仰に反対する人々と戦われました。集会を開くこと、団体を運営すること。それらすべてのことをイエスさまがなさいました。

それを今、わたしたちもしています。それらの苦労や努力も、十分な意味で「キリストの苦しみに与ること」です。教会活動に参加することによって、それが十分可能です。

しかしまた、それは単に、教会の中で/教会を通して、ということだけに限定すべきものではありません。教会の外へと出て行くこと、社会の中でキリスト者として生きること、奉仕すること、このこともまた、わたしたちにとっては多くの苦労を味わうことですが、やりがいのあることです。

(2015年7月8日、松戸小金原教会祈祷会)