2015年4月11日土曜日

切り出しはいつも「セリフを読ませていただきます」です

これが浅草の「人形焼」だ(本文とは関係ありません)
私、こう見えて、小さい頃から最近まで(今も時々)けっこうひどい吃音持ちなんです。人前でしゃべるのが苦手、下手、極度に緊張、支離滅裂。原稿なしでフリートークとかありえない。だからSNSはありがたいですね。まるで流暢にしゃべっているかのようにすらすら書けちゃう。夢の中にいるようです。

なので、私、礼拝説教は完全原稿以外はありえないし、講演や研究発表のレジュメも基本的に「ですます調」の完全原稿を配布します。で、講演や研究発表の最初に言うことはいつも決まって「レジュメに書いたセリフを読ませていただきます」です。文章は、私にとっては「セリフ」なんです。吃音ゆえです。

私の場合、「間違ったことを言うと責められる。それが苦痛だから私は正しいことを言わねばならない。でもこの場面で正しいこととは何かを明確に判断できない。でも何かをしゃべれと言われている。自分の番が回ってきた。どうしよう」と逡巡しながら無理にしゃべろうとすると、たいてい吃音になります。

ですので逆に言えば、その「私が吃音になる仕組み」から解放されれば、吃音そのものから解放されるわけです。「間違ったことをわざと言って文句あるかと開き直る。何かをしゃべれと言われても、基本断る。自分の番が回ってきたら、すみません分かりませんという」。これなら私は吃音から解放されます。

いま書いたことは7割くらいは冗談ですが、3割は真面目な話です。私、ほんとに、吃音状態になったら、いまでも、どこでも、しばらく口をつぐんで黙ることにしています。流暢にしゃべれない人であることを知られても構わないというか、むしろ私のほうから知らせておきたいと思っているくらいですので。

あとは、人前でしゃべらなくてはならないとき決まって足や肩や首筋が固く緊張していることに事前に気づくことが、最近はできるようになってきました。礼拝説教の直前でもそういうときあります。それに気づいたときは、礼拝が始まっていても、緊張をほぐすためにだらっと脱力するように心がけています。