よく売れたキリスト教の本がいまだかつてあったのかは別問題 |
でも、私がいま、心理的に耐え切れずに「嫌な言い方をすれば」とひとこと断りを入れてしまう(そう書かざるをえないと自分で感じてしまう)ことに、キリスト教の本の「売れるような書き方」を拒む力(それは外圧というよりも自分の中の心理的規制として)が働いているのではないかと、ふと思い当たる。
何年か前に『純粋理性批判 まんがで読破』というのを買って読んでみた。悪いとは思わなかったが、女性の教授キャラの人が板書しながら学生に講義するまんが。教授キャラの人の口元につながる吹き出しの中に、ほぼ難解なままの「カント哲学」が移し置かれただけの状態にすぎないと、私には感じられた。
字に書くときつくなってしまうが、思想・宗教を「売れる本」にするために試みられる「サブカル偽装」は、なんら解決策にならないどころか逆効果ではないかという思いをわりと前から抱いてきた。誤解されたくないのは、私は「サブカル」を問題にしているのではなく「偽装」を問題にしているという点だ。
装丁やプレゼンの方法は斬新に「サブカル化」するが、思想・宗教の「ドグマ」は変えない。それは思想・宗教のポテンシャルの放棄、ひいては敗北を意味するのではないかと書くのは、きつすぎるだろうか。松戸市お得意のサブカルキャラの警察署ポスターや、トップアイドルの自衛官募集ビデオと大差ない。
でも、いま言いたいのは、ここから先(この吹き出しがクライマックス)。キリスト新聞新連載の「ピューリたん」は、あの『純粋理性批判 まんがで読破』のベクトルの逆を向いていると思えたので嬉しかった(マジです)。「思想・宗教のサブカル偽装」ではなかった。初回を読ませていただいて安堵した。
世代や年齢の話に還元するのは失礼だし思考停止の罠かもしれないが、今年50の中年男子のたわごとをお許しいただけば、「ピューリたん」の描き手の方とその世代の方々こそが「これからの思想・宗教」の新しい可能性を切り開いてくださるに違いないと期待できましたというのが連載初回の読後感想です。