2015年4月5日日曜日

復活の希望 イースター礼拝

日本キリスト改革派松戸小金原教会 礼拝堂

マルコによる福音書16・1~20

「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。彼女たちは、『だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか』と話し合っていた。ところが、目を上げて見ると、石は既にわきへ転がしてあった。石は非常に大きかったのである。墓の中に入ると、白い長い衣を来た若者が右手に座っているのが見えたので、婦人たちはひどく驚いた。若者は言った。『驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である。さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われていたとおり、そこでお目にかかれる」と。』婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された。このマリアは、以前イエスに七つの悪霊を追い出していただいた婦人である。マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた。しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった。その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された。この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくななこころをおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。それから、イエスは言われた。『全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。』主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。婦人たちは、命じられたことをすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン。」

今日はイースターです。わたしたちの救い主イエス・キリストの復活をお祝いする日です。教会のイースター礼拝は、毎年行っています。それはイエスさまの復活の意味を毎年思い起こすためです。

イエスさまは十字架にかかって死んだ方だ、死んだ方だという話は多くの人が知っていることです。キリスト教といえば十字架というほどに、イエスさまの十字架上の死はよく知られています。しかし、その十字架上で死んだイエスさまが三日目に復活されたということが、聖書に記されています。その聖書に記されていることに基づいて、わたしたち教会はイエスさまの復活を信じ、お祝いしています。

しかし、聖書に記されているのはそのことだけではないと言わなければなりません。イエスさまが復活されたことが、聖書に記されています。それはそのとおりですが、聖書に記されているのはそれだけではありません。聖書に記されているもう一つの重要なことは、イエスさまの復活の話を聞いた多くの人はその話を信じなかった、ということです。たとえば、先ほどお読みしました個所に「信じなかった」という語が3回繰り返されています(11節、13節、14節)。

もしかしたら、みなさんの中に、聖書の中にそういうことが書かれているのをお読みになると慰められるという方がおられるのではないかと思います。イエスさまが復活されたことを信じなかった人がたくさんいた。私もそうだ。私も信じられない。でも、私だけが信じられないわけではなかった。二千年前から信じない人はたくさんいた。ああ、よかった、ほっとした。私だけが信じられないわけではなかった。そのことに慰めを覚える方がおられると思います。

聖書の中に復活を信じなかった人のことがたくさん描かれているのは、私は大切なことだと考えています。なぜかといえば、復活は信じるか信じないかの問題であるということです。信仰の問題です。イエスさまが復活したと信じる人と信じない人とがいるということです。それは信仰の問題であり、宗教の問題です。物理の問題でも、科学の問題でもありません。STAP細胞のようにイエスさまがどのようにして復活したかを科学的に証明してみよと言われても、それは無理です。そういう話ではないからです。

こういうふうに言いましても教会の中では問題にならないと思います。しかし、信仰を持たない人たちにとっては、それならば、そういう話は我々には関係ないことであると思われるかもしれません。復活というのは、信者の心の中の出来事であって、それは現実に起こったことではないのだから我々には関係ないことなのだと。

実際にそのように考えた人たちは大勢います。それは、今の人たちは疑り深いから疑う人が多いが、昔はそうではなかったというような話ではありません。二千年前の聖書の登場人物たちの中にも信じられなかった人は大勢いたのです。弟子たちも例外ではありません。

イエスさまの復活の話を聞いても信じなかった人たちは、それではその人たちは復活のことを話す人たちの言葉をどのように聞いたのかといえば結局そういうことです。それは信者の心の中の出来事なのであって、現実に起こったことではない。いちばんストレートに言えば、単なる気休めであると考えたのです。

しかし、問題はそれでいいかどうかです。信仰は気休めだ、宗教は気休めだ。現実にはないことを、ただの気休めとして思い込んでいるだけだ。そのように考えたい人たちの気持ちも私には分かります。私も現代人の一人です。中学でも、高校でも、徹底的な無神論教育、科学教育を受けた人間です。

宗教は気休めだ。死者が復活することなどありえない。イエス・キリストの復活は現実には起こらなかった。そのようなうそを教会は二千年も教え続けてきた。そのように言いたい人たちが大勢いることを私はよく分かっているつもりです。そして、ある意味で理解できるところもあります。

しかし、そういう見方を私は受け入れることができません。教会はうそをついていません。イエス・キリストが復活したということが聖書に書かれています。だからこそ教会は復活を、聖書に基づいて信じています。そしてそれは、逆に言えば、もし聖書に書かれていなければ、教会はそれを信じることの必然性もないということでもあります。

しかし、教会はそのことを信じます。イエスさまの復活を信じます。なぜなら、ちょっと不謹慎な言い方かもしれませんが、そのほうが面白いからです。死んだ人が生き返るという話のほうが楽しいからです。それを信じることによってわたしたちは希望をもつことができます。

人が死んだらすべて終わりでしょうか。わたしたちも死ぬのです。私も死にます。それで終わりでしょうか。わたしたちはもうすぐ終わるのでしょうか。それで何もかもパーでしょうか。そんなふうに考えることが楽しいでしょうか。思い残すことはない。やりたいことはすべてやった。あとは死ぬのを待つばかり。ああ、死んだらすべて終わる。さようなら。そんなふうに考えることは、楽しいでしょうか。嫌ではないでしょうか。死んだ人が復活する。まだ生き返る。永遠に生きている。そのように考えることができるならそのほうが楽しくないでしょうか。

もちろん、それは人それぞれかもしれません。しかし、教会は、そこでずいぶん楽観的なのです。面白くて楽しいほうの考え方をします。死んだらすべてが終わりなどというような陰鬱な考え方を、教会はしないのです。

いわばそれだけです。イエスさまがどのように復活されたのかとか、具体的な詳細なことについては、よく分かりません。聖書に書いてあるとおりではありますが、聖書に書いてあることしか分かりません。

人生について、命について、面白くて楽しいほうの考え方をしているだけです。死んだ人が復活する。そのようなことがもし本当に起こるならば素晴らしいことだと思っているだけです。そのようなことが、二千年前に起こった。イエスさまが復活した。そのことが聖書に書いてある。それを信じて生きていきましょう。教会が考えていることは、いわばそれだけです。

毎年のイースター礼拝には召天者のご遺族をご招待しております。わたしたち教会の死生観はいま申し上げたようなものです。非常に楽観的なものです。召天者の皆さまもまたイエスさまと同じように復活することを、わたしたちは信じています。

実は亡くなっておられないという話ではありません。わたしたちの目の前におられたあの方は、たしかに亡くなられました。しかし、その日で終わりではない。復活する。そのようにわたしたちは信じています。

そして、わたしたち自身も、です。わたしたちも復活します。私も復活します。もう結構だよと、言わないでください。もう早く終わらせてくださいよ。早く死なせてください。復活などさせないでください。そのように言いたい方がおられるかもしれませんし、その気持ちも私には分かります。

しかし、それは駄目です。わたしたちは死ぬことによって逃げ切ることはできません。生きている間にしなければならないことがあります。死んでも、復活させられて、後始末することが求められることがあります。自分が犯した罪の処理です。逃げても無駄です。神さまが追いかけて来て、わたしたちに最後まで責任をとらせます。そういうものだと思ってください。

イースターはおめでたい日であると言いながら、最後はだんだん恐ろしい話になってしまいました。しかし、復活はわたしたちにとって恐ろしい話ではなく、喜びと希望の根拠です。召天者のご遺族の皆さまの上に深い慰めがありますように、心からお祈りいたします。

(2015年4月5日、松戸小金原教会イースター召天者記念礼拝)