2015年4月17日金曜日

聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります

世界の歴史が無数の書物を生みました
一神教というまとめに馴染めたことはありませんが、なるほど我々は一神教。それで行けば「創造の源泉」は単線化します。不条理や犯罪を含む世と宇宙のすべての事象を「ほかの神」のせいにすることはできない。自分の親のような神に「なんとかしろ」と腹を立てながら訴える宗教だということになります。

子どもたちの要求をどこかしら弱腰で聞き、だいたい子どもたち側の願いどおりを実現してあげてしまう微妙な父親の姿で「神」をたとえているのは、新約聖書のルカ福音書15章の「放蕩息子のたとえ」です。何度も説教してきた箇所ですが、私が今まで考えたことがなかった問いがあることに気づきました。

「放蕩息子のたとえ」に「母親」は登場しませんが、あのたとえ話の解釈にジェンダーの問題がどうかかわるかはよく分かりません。私が気づいたのは、あの弱腰の微妙な父親が、やたら要求がましい自分の二人の子どもたちに見ていたのは、もしかしたらかつての自分の姿だったのではないかということです。

親子とはそういうものです。親はかつて子どもでした。自分の子どもは自分が子どもだった頃にそっくり。同じ顔して、同じことを言い、同じことしていたりします。「放蕩息子のたとえ」を遺伝や血縁の話に還元する意図は皆無ですが、親子が単純に似ているという話は、ある程度お許しいただけるでしょう。

親の生前に遺産の半分の受け取りを要求し、すべてを遊びで使い果たす。ふところが寒くなったので、あったかい父親のもとに帰ればなんとかなると思い込んでいる弟息子と、「なんなんだあいつは。残りは全部おれのもんだろうが。おれの分が減っては困るから、いまさら戻ってくるな」と思っている兄息子。

そんな二人の息子のどちらに対しても、どこかしら譲歩的で、おどおどしているとまで言うのは言い過ぎかもしれませんが、平たく言えば甘い態度しか取れない父親。この父はなんなんだ、「子どもに対する親の愛の深さ」ということだけでは説明できないものがあるよなと、ずっと前から実は感じていました。

正解は分かりませんし、ハズレかもしれません。ですが、さっき気づいたのは、「放蕩息子のたとえ」のツボは「子どもに対する親の愛の深さ」が神と人間との関係に当てはまるということだけではなく(この点を否定する意図はないです)「自分に似ている子どもを親は裁けない」ということもあるのかなと。

聖書のことばも、視点や入射角を換えて読み直してみると、新しい問いや謎が生まれ、興味がわいてくるということは十分ありうると思います。どの問題についても最終的な結論はまだ出ていないわけですから(世の終わりまで謎は続く)、新規参入は常時可能です。聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります。

「いわゆる『放蕩息子のたとえ』をめぐる一私見」に続く