2015年4月8日水曜日

紙の本をいかにして擁護するかを考えています

「着た」のか「脱いだ」のか、それが問題だ

1年間、紙の本を「読んでいない」人が4割超える【国立国会図書館調査】
http://www.huffingtonpost.jp/2015/04/05/ndl_n_7008468.html


重要な記事が出ました。こういうのを待っていました。いい悪いの評価はともかく、趨勢をできるだけ冷静・正確に見守る必要があると思います。

これからどうなるのでしょうか。ネットの情報は速い。次々更新され、飽きない。反面、ネットは「テキストの確定」が困難であると私は考えています。「ネットのテキスト」は情報提供者側で容易に書き換えうるものです。その結果、「テキストに基づかないうろ覚えの議論」が増えるのではないでしょうか。

「とんでもない。うろ覚えの議論などするものか。すべてテキストに基づいて議論するに決まっている」と言うにしても、情報提供者側の更新頻度が高く、かつ他の情報との関連を考え始めてしまうや否や、ネット全体の情報量があまりに多いため、「テキスト斜め読みの議論」が増えるのではないでしょうか。

「テキストに基づかないうろ覚えの議論」や「テキスト斜め読みの議論」でお茶を濁している自覚がある人は聖書学者を見習うべきです。聖書に関して片言隻句と言うのは間違いですが、たとえば、パウロが書いたのはενかεκかが問題になります。意味は正反対ですので慎重かつ真剣な判断が求められます。

コリントの信徒への手紙二5章3節のことです。日本聖書協会の口語訳(1954年)の「それを着たなら、裸のままではいないことになろう」が、新共同訳(1988年)は「それを脱いでも、わたしたちは裸のままではおりません」になりました。「着る」と「脱ぐ」は正反対。これがενとεκの差です。

「着たので裸でない」のは当たり前すぎて退屈な話ですが、「脱いだのに裸でない」(えっ?!)としたら尋常でない。興味津々の話になります。その違いは聖書学者の方々の緻密な研究の成果によります。ενとεκの差は、一ミリ足らずの線が引かれているかどうか。まさにミクロの世界。顕微鏡作業です。

この文脈で、なぜ聖書学者の話をしているのかといえば、「テキストの確定」に命をかけておられる方々の代表格だと思われるからです。ネットのテキストは、情報提供側で容易に書き換えうるものです。ブログでもPDFでも、黙って書き換えています。私もよくするので誰かを責めているのではありません。

「テキスト斜め読み」でなく「テキストを精読した上での議論」の場合でも、もしネットのテキストを用いるなら、情報提供者側で書き換えがなされていないかどうか、なされている場合どのヴァージョンを用いるかを徹底的に考える必要がありますが、問題は「それを聖書学者ほどまで徹底できるのか」です。

私は断然、紙の本の価値を擁護したいと思っている側です。しかし、最近買っている本は古本ばかり。著訳者や出版社や書店経営者の方々への貢献度が低すぎます。なので、かなり後ろめたいです。穴があれば入りたい。頭隠して尻隠さず。穴に詰まったクマのプーさん状態。申し訳ない気持ちでいっぱいです。