2015年4月17日金曜日

いわゆる放蕩息子のたとえをめぐる一私見

持って行きどころがない父は甘いモノに逃避
今日ブログに書いたこと(聖書「も」一生かけて学ぶ価値があります)のfacebook版のほうに、貴重なコメントをたくさんいただきました。ほんとのほんとの、ただの思い付きで、忘れないうちにメモっておこうと思っただけでした。でも、反応していただけて、うれしいです。ありがとうございます。

私が思い至った「謎」は、「放蕩息子のたとえ」をイエスが話したとルカが、この文書が流布され読まれた時期・時代の教会(?)と社会のニードとの関連で、(他の福音書に見当たらない)このたとえを、「イエスが言った」という形式で福音書に書き込んだ《動機》は何かというあたりから出発しています。

ですから、山口里子先生のご解説(『イエスの譬え話1』2014年、新教出版社、139頁、注46)は、なるほどこういうことを考えることができる可能性は十分あるなと思いました。ですから、トンデモ解釈というようなことは全く感じませんでしたし、面白いなあと思いながら読ませていただきました。

そして、山口先生のご解説を読ませていただいて思いましたことは、私の考えたことと矛盾しないようだということです。山口先生がおそらくフェミニズムのお立場から指摘なさっているのと同じ「現象」を、自己弁護なしに「父親」の側から見ると、私が考えたようなことになるのではないかということです。

それが「自分に似ている子どもを親は裁けない」ということです。あの父親はなぜ弟息子にも兄息子にも甘いのか。自分に似ていると感じているからではないかということです。そうです、まさに。あのたとえ話は、山口先生のご表現を一部お借りして言えば「崩壊家庭の父親のたとえ」なのだと私も思います。

そして、あのルカ福音書に描かれている「崩壊家庭」を生み出した第一原因者としての(もしかしたらなるほどDV的な)「父親」としての「神」の話であると言われれば、なるほど確かにそのように言えなくもないようだと、気づかされるものがあります。それがトンデモ解釈だなんて、とんでもないです。

これは私が、山口先生のお言葉を読ませていただいた後で、後出しじゃんけんのように取って付けた話ではないことをご理解いただきたいので書きますが、前稿の最初の段落の「一神教うんぬん」のくだりは、そういうことをイメージしながらも明快な言葉が見つからなくて困っていたことの痕跡です、じつは。

しかし、山口里子先生のおかげで、私のイメージしたことにやっと言葉が与えられました。それは、「教会」も含めた人類社会という崩壊家庭を生み出した第一原因者としての神のイメージです。「一神教」は、それを否定することはできないはずです。どんな問題も「ほかの神」のせいにできないのですから。

父が子を虐待、夫が妻を虐待。家庭崩壊の一切の原因者は男性にある。その事実は枚挙にいとまがないでしょう。しかしまた、一切の混乱と崩壊の原因者たる男性は、事実を指摘されるがままで持って行きどころがない。家庭と社会(と教会)から「なんとかしろ」「なんとかしろ」と連日連夜突き上げられる。

そういう状況になれば、ひたすら黙って耐えるしかない。自分の子どもの頃にそっくりの子どもたちの傍若無人さに付き合いながら。「一神教」の神は、そういう神さまかもしれないなと思い至ったというのが、とくに最初の段落のフラグメントの趣旨です。皆さま、なんらかのお答えになりましたでしょうか。