2009年3月30日月曜日

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(2)

バルトが大学教授になる前にはザーフェンヴィルで牧師をやっていたことは私も知っています。大学教授になってからもいわゆるバルメン宣言の起草などを通して教会に大きな影響を与えましたし、晩年のバルトは刑務所で説教したりしていました。

私がバルトを「教会に通わない神学者」であると呼ぶのは、これらの事実を全く知らないで言っていることではないつもりです。

私が問うていることは、神学者、とくにわざわざ『教会的な教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)というタイトルの本を書いた「自称『教会的な』教義学者」が、それを書いている最中に教会に通っていなかったというのは、どういうことを意味するのだろうかということです。

ご承知のとおり(伝統的な)神学、とりわけ教義学には「教会論」(Ecclesiologie)という項目が不可避的に置かれることになっており、バルトの『教会的な教義学』にも「教会論」に該当する部分はありますし、非常に詳細な議論がなされてもいます。

しかしそれらの議論も「教会に通わないで」書かれていたというわけです。日曜日の礼拝には行かない。また、日本語で言えば教団や教区、大会や中会における「教会行政」などにも関与しない。 教会との関係という観点からいえばバルトは「フリーランスの神学者」であったと言えるでしょう。

したがって、バルトの語る「教会」は、深井さんの言葉を借りれば、本質的教会論であるということになるわけです。聖書と諸信条あたりを持ち出して「教会はこうあるべきだ」と本質論的に語る。そんな話は、やはり「絵に描いた餅」です。

そのようなバルトの議論を「無責任である」というような言葉で断罪するつもりはありませんが、あまりにも抽象的すぎるため、まともに傾聴するに値しないとは思います。

『教会的な教義学』というタイトルからして、これが「教会に通わない神学者」が自分の主力商品に付けた名前であるということになりますと、ギャグやジョークだったのか、あるいは皮肉たっぷりの当てこすりだったのかと勘繰りたくなります。

私は、仮にそれがギャグやジョークや当てこすりであったとしても、そのこと自体を悪いと言いたいのではありません。そうである可能性を知らない読者があまりにも多すぎるのではないかと言いたいのです。


2009年3月29日日曜日

真理を行う者は光の方に来る


ヨハネによる福音書3・19~21

「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」

今日を含めて四回(予告したよりも一回多く)、わたしたちの救い主イエス・キリストとユダヤ最高法院の議員ニコデモとの対話を学んできました。今日で一応最後にしますので、少しまとめのような話をいたします。しかし、最初に今日の個所に書かれているイエス・キリストの御言葉に注目していただきたく願っています。

こんなふうに書かれています。「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ」。これはどのような意味でしょうか。「光が世に来た」と言われている場合の「世」の意味については、先週かなり強調してお話ししたとおりです。途中の議論を全部省略して最初と最後だけくっつけて申せば、「世」とは要するに「世間」(せけん)のことです。わたしたちが日常生活を営んでいるこの地上の世界そのものと、わたしたちがかかわっているあらゆる人間関係そのものです。

その「世間」に来た「光」とは神の御子イエス・キリスト御自身です。「神は、その独り子を世にお与えになったほどに、世を愛された」(16節)のです。神が愛されたのは「世間」です。「俗」の字をつけて「俗世間」と言い換えても構いません。あるいは「世俗社会」でもよいでしょう。

神は、世俗社会と敵対するためにイエス・キリストをお与えになったのではありません。イエス・キリストを信じる者たちは俗世間に背を向けて生きることを求められているわけではありません。すべては正反対です。わたしたちに求められていることは、世間の真ん中で堂々と生きていくことです。世間の中に生きているすべての隣人を心から愛することです。そのことがわたしたちにできるようになるために、神は独り子イエス・キリストを与えてくださったのです。

別の言い方をしておきます。わたしたちが今立っているところは、絶望に満ちた暗闇ではありません。一寸先も闇ではありません。この地上にはすでに神の光が輝いています。わたしたちの歩むべき道もはっきり見えています。わたしたちに求められていることは、その道をとにかく歩み始めることです。

その道を歩んだ先はどこに行くのかも、教会に通っているわたしたちには分かります。教会には信仰の先輩たちがたくさんいるからです。すでに地上にいない、御国に召されている先輩たちもいます。わたしたちはその人々のことをよく憶えています。その人々の顔はひどく歪んでいたでしょうか。私にはそんなふうには見えませんでした。わたしたちはどんなふうになっていくのか皆目見当もつかない。全く路頭に迷う思いであるということがありうるでしょうか。そんなことはないはずです。

もちろんわたしたちには「あの人が幸せであることと、私がどうであるかは関係ない」と言って関係を遮断することもできます。「私の悩みは特別だ。他の人の悩みよりもひどい。私のことは誰にも分かってもらえない」と言って自分の殻に引きこもることもできます。しかしそれは勿体無いことです。また、少し厳しい言い方をすれば、それは罪深いことでもあります。それはイエス・キリストが「悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである」とおっしゃっているとおりです。

神の救いの光はすでに地上に届いている。わたしたちが歩むべき道もはっきりと見えている。しかし、それにもかかわらず、その光を見ようとしないこと、光の届かない物陰を探してその中に逃げ込もうとすること、そのようにして光を憎み、闇を好むことは、端的に言えば悪いことであり、罪深いことなのです。

しかしまた、よく考えてみれば、そもそもわたしたちにはその光から逃げおおせる場所があるわけでもないのです。聖書の真理から言えば、わたしたちの世界は一つしかありません。神は世界をただ一つだけ創造なさったのです。この世界は二つも三つもないのです。ですから、光から逃げて闇の中に閉じこもろうとしても、そこに光が追いかけてきます。光の世界から出て闇の世界に逃げ込めるわけではありません。一つの世界に光にさせば、闇は消えていくのです。神がその人をどこまでも追いかけていきます。その人の心の扉を叩いてくださる。それが神の御意志なのです。

続きに書かれていることも見ておきましょう。「しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために」。

これはすぐには理解できそうにない言葉です。ただ、ともかくこれは重要だと思えるのは「真理を行う者」が光の方に「来る」と言われている点です。神は「真理を行う者」が光の方に「来る」ことを望んでおられます。「来る」のはその人自身です。その時その人に求められるのは主体性です。神は人の心の扉をハンマーで叩き壊して無理やり突入するという暴力的な方法をお採りになりません!その人が自分で扉を開けるのを、神は待っておられるのです。

神が与えてくださった救い主イエス・キリストの光によってわたしたちが歩むべき道ははっきり見えていると、先ほど申しました。しかしそれは、鋼鉄のレールの上を無理やり転がらされることではありません。神を信じるということにおいても、信仰生活を営むということにおいても、人間の主体性はきちんと確保されるのです。わたしたちは無理やり連れて行かれるわけでも、やらされるわけでもないのです。そのことを「来る」という字に中に読み取ることができると思います。

しかしまた、そのとき、わたしたちは傲慢さに陥ることも許されていません。「真理を行う者」が光の方に「来た」ときにはっきり知らされることは、すべてのことは自分一人の努力によって達しえたことではなく、「神に導かれて」なされたことであるということです。光が来たときに闇の中に逃げ込もうとしたことも、しかしまた、逃げおおせることができないことを知って自ら扉を開ける決心をすることができたことも、です。そのことをわたしたちは、神無しに行ったのではなく、神と共に・神に導かれて、行ったのです。

ここから、これまでの四回分の話をまとめておきます。ニコデモに対してイエスさまがおっしゃったのは、「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」ということであり、「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」ということでした。この二つの言葉は同じことが別の言葉で言いかえられているのです。

これについて私は、この文脈においてイエスさまがおっしゃっている「水」とは教会でわたしたちが受ける洗礼を指しているということ、また「霊」とは、わたしたちキリスト教会が信じるところの聖霊なる神のことであるということ、そして「霊によって生まれる」とは聖霊なる神の働きによってわたしたち人間の心の内に「信仰」が生みだされ、それによってわたしたち人間が「信仰生活」を始めることであるということを、相当ねちっこく駄目押し的な言い方をしながら説明してきました。洗礼はバプテスマのヨハネに始まり、その後の二千年間の教会の歴史が受け継いできたものです。わたしたちは洗礼を受けることによって自分の信仰を公に言い表わしてきたのです。

そしてまた、これは特に先週の説教の中で強調させていただいた点ですが、イエスさまがニコデモに向かって「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」とおっしゃった中に出てくる「地上のこと」の意味は何かという点については、次のように申しました。

わたしたちにとって教会とは地上の人生の中で必要なものであり、信仰をもって生きる生活、すなわち信仰生活もまた徹底的に地上で行われるものであるということです。教会こそが、またわたしたちの信仰生活こそが「地上のこと」なのです。今ここはまだ天国ではありません。わたしたちはまだ天上にいません。ここでイエスさまがおっしゃっている「地上のこと」とは否定的ないし消極的な意味で語られていることではありません。地上の価値を低める意味で言われているのではありません。天国だけが素晴らしいのではありません。神と共に生きる地上の人生が素晴らしいのです!

そして、いずれにせよはっきりしていることは、死んだ後に洗礼を受けることは不可能です。つまりそれは死んだ後に教会のメンバーになることは不可能であるということです。しかし、これは、洗礼を受けなかった人が必ず地獄に行くとか、教会に通わない人は必ず不幸せになるというような話をしているのではありません。それは全くの誤解です。そのようなことを私は決して申していませんし、そのような信じ方もいません。

私が申し上げたいことは、もっと明るいことであり肯定的なことです。また、ある見方をすれば、かなりいい加減なことでもあり、お気楽で、能天気で、人を食ったような話だと思われても仕方がないようなことでもあります。それはどういうことでしょうか。私が申し上げたいことは、洗礼を受けて教会のメンバーになるという、いわばその程度のことだけで、神はその人の罪を赦し続けてくださるのだということです。

先ほどもこの礼拝の初めのほうで、「罪の告白と赦しの宣言」が行われました。そのときわたしたちは定められた文章を読むことによって、自分の罪を告白しました。そして牧師が赦しの宣言の文章を読み上げました。これによって、わたしたちは「罪が赦された」と信じるわけです。これだけで何がどのように変わるのでしょうか。何も変わりっこないではないかと思われても仕方がないほど、あっけなく。傍目に見れば、「そんなのずるい」と思われても仕方がないほどに。これほどいい加減なことは他に無いかもしれないほどです。

しかし、ぜひ考えてみていただきたいことは、人の罪を赦そうとしないことそれ自体も、わたしたちの犯す大きな罪ではないだろうかということです。わたしたち自身は、人の罪をなかなか赦すことができません。「あのときあの人が私にこう言った。私はそれで傷ついた」。「あのときあの人は、私にこんなことをした。そのことを私は決して忘れない」。

自分に加えられた危害や罪は何年でも何十年でも憶え続けるのです。いつまでもこだわり続け、恨み続け、呪い続け、ビデオテープのように何度でも再生し続けるのです。私自身も同じです。洗礼を受けて教会に通い始めたくらいで、あの人のどこがどのように変わるというのか。変わるはずがないし、変わってなるものかと、固く信じているようなところがあるのは、わたしたち自身ではないでしょうか。

しかし、です。わたしたちは、こと罪の問題に関しては開き直った言い方をすべきではないかもしれませんが、それでもあえて言わせていただきたいことがあります。それは、イエスさまがおっしゃった「水と霊とによって生まれること」、すなわち洗礼を受けて信仰生活を始めることは、わたしたちが犯した自分の罪を悔いて「死んでお詫びする」というようなことよりもはるかに尊いことであるということです。死んだところで何のお詫びにもなりませんし、何も償うことができませんし、何も生み出すことができません。地上の人生から逃げ出したところで、神がお造りになったこの世界以外に、どこにも逃げ場所はないのです。

わたしたちが犯した罪と向き合うために選びうる最も良い選択肢はとにかく生きることです。そして、生きながらにして、神を信じて悔い改めることです。わたしたちは、暗闇の中ではなく光の中を、閉ざされた部屋の片隅ではなく世間のど真ん中を、堂々と歩いてよいのです。そうすることができる道を、イエス・キリストが開いてくださったのです。

(2009年3月29日、松戸小金原教会主日礼拝)

「教会に通わない神学者」の『教会的な教義学』(1)

カール・バルトの書物は、やはり、とにかく一度はじっくり読まれるべきです。バルトは「今年150歳」と祝われている日本のプロテスタント教会の神学思想に、あまりにも大きな影響を及ぼしすぎました。つまり、現在の日本の教会の「病因」を探るためにバルトを読む必要があるのです。

ヨーロッパやアメリカの教会には「バルト以前の神学的伝統」があり、その中にあった様々な悪い面を徹底的に批判するアンチテーゼ提出者としてバルトが登場したわけです。その登場には歓迎されるべき面もあったことを私も認めます。

ところが、日本の教会には「バルト以前の神学的伝統」どころか、「キリスト教の伝統」そのものがほとんどなかったわけです。神学体系などというものが存在していなかった日本。そこに「体系的なもの」としてまとまったバルトが、まるでこれこそ「ザ・プロテスタント」、いや「ザ・キリスト教」でございます的な装いをもって、どどーんと輸入された。

おいおい、ちょっと待て、バルトが書いていることはあくまでも「アンチテーゼ」なのであり、要するにほとんどいつも「けんか腰」で書いていることなんだっつーことを知らないで、あるいは正体を見抜くことができず、彼が書いていることをほとんど無批判に鵜呑みにして、そのギラギラとした光を放つ鋭利な刃先を素人相手に向けては、迫力満点に「教会なるもの」の現状を批判し、ほとんど破壊していくほどにそれを罵倒する。

「教会なるもの」に対する批判や不満を持っている人にとってはバルトの言葉は救いだったと思います。私もかつてはそうでしたから。こんなクダラネエもん壊れちまえと、青春時代の破壊衝動みたいなものと共に教会を睨みつけていたい頃に接するバルトの言葉には、新鮮かつ衝撃的な感動がある。

しかし、いつまでもそれだけでは困るでしょう。我々は、こんなクダラネエもんと自分でもどこかで思いながら、また他の人々からそう思われていることを熟知しながらも、そんなもん(教会なるもの)でも、「これは我々の人生にとって水や空気、毎日の食事のように必要不可欠なものだ」と確信をもつことができたから、そんなもんを実に二千年も担い続けてきたのです。

「バルト自身は教会に通っていなかった」ことを、先週金曜日に行われた日本基督教学会関東支部会(会場:聖学院大学)での深井智朗先生の講演を通して確認しました。たぶんそうだろうなあと予想していたことが当たってしまった格好です。

「教会に通わない神学者」が『教会教義学』(キルヒェリッヒ・ドグマティーク)を書く!そのバルトが描き出す「教会」とは何ぞやが問われて然るべきなのです。はっきり言えば、それは「絵に描いた餅」にすぎません。深井先生の言葉を借りれば、「バルトは本質主義者であった」ということです。教会の本質はこうだと主張はするが、現実の教会にはコミットしようとしなかったのです。


2009年3月27日金曜日

「○○最大の」:人を幻惑するトリッキーな言葉

「無礼者め。この方は『20世紀最大の神学者』であらせられるぞ。控えおろう!」

水戸黄門かっつーの。アホクサ。

実際問題、これまでカール・バルトが紹介されてきた際に「20世紀最大の神学者」という(これ自体は意味不明な)マクラコトバがつけられたこと、何回くらいあったかを数えてみたらよいのです。

あるいは、今なら「20世紀最大の神学者」という検索語でネット上を調べてみれば、すぐに結果が出てくるんじゃないかと思うほど。直視するのが恐ろしいので私は検索したくないので、ぜひどなたかに試してみていただきたいところです。

「○○最大の」とかいう(どうとでも取れる)トリッキーな宣伝文句に頼るようになったら、神学も教会も終わりです。



2009年3月26日木曜日

「20世紀最大の神学者カール・バルト」という非学問的な宣伝文句

幸か不幸かこのところ仕事が立て込んでいて禁欲的な生活を強いられてきましたので、たまには発散することをお許しいただいてもよいでしょう。とても辛らつな皮肉を書きたくなりました。といっても、大したことではありません。前世紀以来、教会と神学の文献の中に繰り返し書き込まれてきた一つのクダラナイ決まり文句を笑い飛ばしたくなっただけです。

「20世紀最大の神学者カール・バルト」。

この非学問的な宣伝文句に多くの人々が踊らされてきました。出版関係の方々からすればただの販促のつもりで書いていることでしょうから、この方々を責めるのは酷です。しかし、これと同じ言葉を(なるべく客観性を求められる)学者や教師たちが反復するのはいただけません。事の真相をよく分かっていながら善良な市民をだましているなら、ペテン師であるとの誹りを免れません。あるいは、もし学者や教師たちまでも「だまされている」なら、ちゃんと勉強してくださいねと言わなくてはならなくなります。

とにかく意味不明なのは「20世紀最大の」です。何をもって「最大」と呼ぶのでしょうか。

例の『教会教義学』のページ数の多さでしょうか。「九千頁もある!」と驚かれてみたり、百科辞典サイズの白いクロス張りの本が教師たちの本棚の相当大きなスペースを分捕るので「白鯨」と呼ばれてみたり。

あれのページ数が多いことには以下のような理由があります。あれを実際に読んだことがある人なら誰でも知っていることです。

(1)とにかく繰り返しが多い。あれは一冊の本として書きおろされたものというよりも、大学での講義のレジュメ(というか完全原稿、というかセリフ)を集めて作ったもの。しかも、文書化(タイプ打ち)に際しては秘書のシャルロッテ・フォン・キルシュバウムの手がかなり加えられていることは確実で、バルトが書いたのかキルシュバウムが書いたのか分からないところも多々ある。つまり、漫画などでよく見る「原作 ○○ 作画 △△」がなされていたと言ってよい。「原作 バルト 作文 キルシュバウム」である。私はそうであることが悪いと思っているわけではない。しかし、九千頁の作文をバルトひとりでなしえたかのように宣伝する人々がいることは悪いと思っている。

(2)古代・中世・近代の神学者たちの文献からの引用(コピー&ペースト)がやたら長い。つまり、他人の書いた文章でページ数をかなり稼いでいる。翻訳されるわけでもなくラテン語ならラテン語のままで書き抜かれているだけである。このバルトのようなやり方は、他の人々がしてきたように、脚注で引用個所を指示するだけで文章そのものは引用しないやり方よりは「便利」で「ありがたい」かもしれない。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(3)バルトは『教会教義学』の中に教理解説と聖書釈義を区別しないで並べているので、両者を分けて出版してきた従来の神学者たちの教義学よりもページ数が多いのは当たり前。ついでに、あの本には時事評論やら政局分析やら書評のようなもの、さらにジョークとそのオチまで加わっている。私はそれが悪いと思っているわけではなく、好ましいことであるとさえ思っている。しかし、そのことと、この本が「九千頁もあるからすごい」と言われてきたことのクダラナサとは、話が別である。

(4)あとは余計なことですが、日本の中でカール・バルトを「20世紀最大の神学者」と呼びたがる人々の中に、自分の所属教団を「日本最大のキリスト教団」とも呼びたがる人が多かったりする(全員がそうだと言っているわけではありません)。そして、その教団の中の「最大規模」の教会に属していたりすると「おれは日本最大だ!」とさぞかしご満悦なのでしょうね(大爆笑)。

(5)かつて出会った一人の中学生から聞いた言葉。「おれたちの県の中学生の学力は、全国レベル最下位と言われている。そして、おれの通っている学校は県内最下位と言われている。そして、おれはその学校の最下位である。つまり、おれは全国最下位だということだ。鬱だ。」この中学生の用いた三段論法と、(4)の人々が用いる三段論法は、よく似ているものです。

2009年3月24日火曜日

カルヴァン写真コンクール!

以下、謹んでお知らせいたします。三件あります。



(1)カルヴァン写真コンクール!



オランダの新聞Trouw(トラウ=「真実」)のメールニュースは毎日私のパソコンにも届いているのですが、このところ忙しくて読む時間がありませんでした。しかし今朝、先週あたりの記事を読んでいて、驚くやら喜ぶやら。Trouw誌が現在、「カルヴァン生誕500年」を記念して「カルヴァン写真コンクール」(?!)を実施していることを知りました。



その記事はTrouw誌のホームページ(以下URL)にも掲載されています。興味深いものばかりです!
http://www.trouwcommunities.nl/trouw/ontspanning/interactief/calvijn-fotowedstrijd/



このページ中のStuur een foto op(写真を送信する)というリンクをクリックすると、自分の写真を送信できるページが開きます。



写真は誰でも送ることができます。テーマは「カルヴァンと私」(Calvijn en Ik)。カルヴァンとカルヴィニズムに関するものであれば、受け付けてくれるようです。締切は4月9日(木)です。作品は5月8日(金)からドルトレヒトに展示され、また最優秀作品はTrouw誌に掲載されるとのことです。写真が得意な方はぜひチャレンジしてみてください。



ちなみに、上記URLに公開されている写真の中で私が最も興味をひかれたのは、Kerkgang(教会に通う)というタイトルがついているものです。



黒っぽくて平べったい手さげカバンの横に、聖書と賛美歌、数枚のコイン(たぶん献金用)、そしてKINGという名前のドロップ飴か何か(よく分かりません)が並べてあるのを写しているものです。我々キリスト者にとっては当たり前の中身かもしれませんが、一枚の写真として見せられるといろんなことを考えさせられるものがあります。そして、何よりこれが「カルヴァンと私」というテーマのもとに置かれていることが興味深い。



日本でも「カルヴァン写真コンクール」、やりたいですね!



(2)カルヴァン生誕500年記念集会



さて、前にもお知らせしましたとおり、今年7月6日(月)以下の要領で「カルヴァン生誕500年記念集会」を行うことになりました。



日 時  2009年7月6日(月) 受付13:00 開会13:30 閉会19:55
会 場  東京神学大学  東京都三鷹市大沢3-10-30
会 費  2,000円 (軽食有 学生500円)



* プログラム
第一部 講演(13:45~)
「讃美と応答―この世を神の栄光の舞台とするために―」 芳賀 力氏(東京神学大学教授)
「ジュネーヴ礼拝式について」 秋山 徹 氏(日本基督教団上尾合同教会牧師)



第二部 講演と演奏(16:45~)
「ジュネーヴ詩編歌について」 菊地純子 氏(日本キリスト教会神学校講師)
ジュネーヴ詩編歌オルガンコンサート 今井奈緒子 氏(東北学院大学教授、オルガニスト)



第三部 ジュネーヴ礼拝式・聖餐式再現(18:25~)
礼拝司式         石田 学 氏(日本ナザレン神学校教授)
カルヴァン説教朗読  高砂民宣 氏(青山学院大学准教授)
聖餐式司式       関川泰寛 氏(東京神学大学教授)



その他詳細は以下URLをクリックしてください。



カルヴァン生誕500年記念集会
http://calvin09.protestant.jp/



主催は「カルヴァン生誕500年記念集会実行委員会」(久米あつみ委員長)。これは「アジア・カルヴァン学会日本支部」と「日本カルヴァン研究会」が協力してできた委員会です。私は委員会書記です(本日夕方、実行委員会のミーティングを青山学院大学で行います)。



また協賛者として、会場を快く提供してくださった「東京神学大学」(4月から近藤勝彦学長)を筆頭に、「一麦出版社」、「いのちのことば社」、「教文館」、「キリスト新聞社」、「クリスチャン新聞」、「新教出版社」、「日本基督教団出版局」(五十音順)と、最強のキリスト教出版各社が勢揃いでサポートしてくださることになりました。本当に感謝しております。



さらに、7月6日(月)当日、東京神学大学は夏休みに入っていますので、神学生たちがいろんな奉仕をしてくださることになっています。このことも感謝です。



とにかくこれが「五百年に一度の(!)ビッグイベント」であることは間違いありません。このところ連絡窓口である私のところに、問い合わせの電話が相次いでいます(しかし、なるべくなら、電話よりメールのほうが助かります)。



・「ファン・ルーラー」だけではなく、「カルヴァン」、「カルヴァン主義」、「改革派・長老派の教会と神学」、「詩編歌」、「ジュネーヴ礼拝式」等にも関心がある方、



・日本屈指のオルガニスト今井奈緒子先生のパイプオルガンの美しい音色をお聴きになりたい方、



・「東京神学大学の建物をまだ見たことがないし、入ったこともない」という方、



・「久米あつみ先生を一目見たい」という方(?)、



・その他、動機・理由は何であれ、



この機会にぜひお集まりくださいますよう、主催者の一人として心からお願いいたします。



(3)アジア・カルヴァン学会第7回講演会



また、再度お知らせしますが、4月25日(土)立教大学を会場に行う「アジア・カルヴァン学会第7回講演会」(主題「ヨハネス・アルトジウスの政治思想とその現代的意義~カルヴィニズムと政治をめぐる一側面~」講師 関谷 昇氏、コメンテーター 小川有美氏、司会 田上雅徳氏)にも、ぜひご出席くださいますよう重ねてお願いいたします。



詳細は以下URLをクリックしてください。



アジア・カルヴァン学会
http://society.protestant.jp/



寒い寒い(ホントに寒い)冬を乗り越えて、やっと春らしくなってきましたね(でも今日の松戸は、まだちと寒い)。皆さん、これから元気を出していきましょうね。花粉症の方はどうかお大事に。



このところ主日礼拝の出席者数が少し持ち直し、受洗志願者も複数与えられて、励まされています。厳しい戦いの中にある日本の教会のみんなが元気になるようなメッセージを発信していきたいです。これからもどうかよろしくお願いいたします。



ブログ「今週の説教」も毎週更新中です(「今週の説教メールマガジン」も続けています)。
http://sermon.reformed.jp/



ちなみに、検索サイトで「今週の説教」という語で検索すると、GoogleYahooGooではいまだに第一位で拾ってくれますが、MSNではなぜか百位以内にも入らなくなってしまいました。



2009年3月22日日曜日

神の愛


ヨハネによる福音書3・16~18

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。神が独り子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」

先週学びました個所に「わたしが地上のことを話しても信じないとすれば、天上のことを話したところで、どうして信じるだろう」というイエス・キリストの御言葉が記されていました。イエスさまは、ニコデモに「地上のこと」をお話しになりました。ところが、ニコデモはイエスさまの御言葉を正しく理解することができませんでした。

ニコデモが理解できなかった「地上のこと」とは、何のことだったのでしょうか。ここで注目していただきたいのは次の御言葉です。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない」(5節)。「水」とは洗礼のことです。すなわち洗礼を受けて教会のメンバーになることです。そのように言い切って間違いありません。そして「霊」とは聖霊のことです。聖霊があなたとわたしに注がれるのです。それによって、あなたとわたしに信仰が与えられるのです。

これらをまとめて言えば、次のようになります。「水と霊とによって新しく生まれる」とは、洗礼を受けて教会のメンバーに加わり、信仰に基づく人生を新しく始めることです。これこそが「地上のこと」です。すなわち、このことは、わたしたちの地上の人生の中で起こらなければならないことなのです。

駄目押し的な言い方をさせていただくことをお許しください。「私は洗礼は受けません。教会には加わりません。信仰生活も始めません。しかし天国には行きたいです」。このような言い分は通用しないということです。地上の人生が終わった後に洗礼を受けることは不可能です。洗礼は地上で受けるものです。教会と信仰は人生の中で必要なものなのです。

そして、わたしたちの信じる「天国」とは「神の国」です。両者は同義語です。天国におられるのは神です。ですから、「神は信じませんが、天国には行きたいです」というのは言葉の矛盾です。天国に行きたい人は、神を信じなければならないのです。

しかし、今私が申し上げていることは、多くの人の耳には厳しい裁きの言葉として響くものかもしれません。なぜなら、ご承知のとおり今日では多くの人が教会に通っておらず、洗礼を受けておらず、神を信じる信仰をもっていないからです。

そのような中でわたしたち教会の者たちが「教会に通っていない人は天国に行けない」というふうに語りますと、「それは冷たい言い方である」という反応がかえってくることがあります。それは全くの誤解なのですが、なかなか理解していただけません。

誰かを裁くつもりなど私にも教会にも全くありません。ただ、一つのことを願っているだけです。そのことをなんとかして理解していただきたいだけです。ご理解いただきたいと願っていることは、要するに地上の教会の存在意義です。「教会が存在することには意味があります」ということです。また、教会生活そのものの価値です。「教会に通うことには価値があります」ということです。

「教会なんて何をしているのか分からない、得体の知れない集団だ」と思われていることがとても歯がゆく思います。わたしたちはここに、教会に通っていない人々を裁くために集まっているのではありませんし、そのような人々を軽蔑するために集まっているのでもありません。ただ、わたしたちが強く自覚していることは、わたしたち人間は独りでは生きていないということです。互いに助け合う仲間が必要であるということです。教会は、そのことを自覚しつつ互いに助け合うために存在しているのです。

しかしまた、わたしたちは、人間同士の助け合いだけでは足りません。嵐の海でおぼれかけている者同士がどうして助け合うことができるでしょう。上から手を伸ばして助けてくださる方がおられなければ!人間の力をはるかに超える力をもっておられる方がおられなければ!わたしたちは助からないのです。

わたしたち教会の者たちが多くの人に何とかして理解していただきたいと願っていることは、このことです。わたしたちには互いに助け合う仲間が必要です。そして同時に神が必要なのです。そのことを強く自覚している者たちが、教会に集まっているのです。

ですから、わたしたちには誰かを裁く意図などは全くありません。裁くのはファリサイ派の得意技です。裁かれることを最も恐れているのは、むしろわたしたち自身です。

「神とか宗教とか、そういうものが必要なのは弱い人である。教会とかそういう場所は弱い人が集まるところである」と昔からずいぶん言われてきました。私も直接そのように言われたこともあります。しかし私は反論はしません。「はい、そのとおりです」と答えることにしています。「そのようにおっしゃるあなた自身も弱い人間の一人ではありませんか」と問い返すこともしません。もしそのようなことを心の中で思っていても、滅多に口には出しません。相手が嫌がるようなことは言わないほうがよいのです。わたしたちにできることは、黙って待つことだけです。あるいは、祈って待つことだけです。

しかしまた、わたしたちは、もう一つの単純な事実も知っているつもりです。先ほど私は「地上の人生が終わった後に洗礼を受けます」と言われても返答に困ると申しました。それは無理な話です。しかしこれとはいくらか違う言い分として、「神も宗教も必要であることは分かっているつもりです。でも、今は忙しいので、教会に通うひまがありません」と言われることがあります。こちらのほうならば、繰り返し聞かされてきたことですし、理解できることでもあります。

しかし、たしかに理解できることではあるのですが、心の中ではかなり腹を立てていることでもあります。わたしたちは「ひまだから」(?)教会に通っているのではありません!「逆ですよ!」と言いたいところです。わたしたちは、むしろ「忙しいからこそ」教会に通っているのです!

気が滅入りそうなくらいに忙しい。自分を見失いそうになるくらい、他人の顔も見えてないくらいに目が回っている。そのようなときこそ、わたしたちには教会が必要なのです。神の助けと、同じ信仰の仲間たちの助けとが必要です。わたしたちは「忙しいからこそ」自分自身を取り戻すために、心の平安を取り戻すために、教会に通っているのです。

さて、私は今日これまでのところで、「水と霊とによって生まれなければ神の国に入ることはできない」というイエス・キリストの御言葉の意味を考えてきたつもりです。洗礼を受けて教会のメンバーになって信仰生活を送ることの意義と価値を訴えてきました。また、そのことはすべて地上で起こるべき出来事であるとも申しました。それが意味することは少なくとも私にとって「教会とは、わたしたち人間が生きていくために通うものである」ということです。教会は「ひまだから通う」ところではなくて、「忙しいから通う」ところなのです。

その際、しかし、わたしたちがどうしてもこの点だけは押さえておきたいと私が願っていることを、これから申し上げます。ただし、もしかしたら、皆さんをひどく驚かせてしまう内容を含んでいるかもしれません。

そのことが、実は、今日お読みしました個所に記されているイエス・キリスト御自身の御言葉に関係しています。16節に記されている「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というこれです。この中でとくに注目していただきたいのは「世」という名で呼ばれている事柄です。この御言葉を短く言い直すなら、「神が世を愛された」となります。ですから、わたしたちが問題にしなければならないことは、神に愛されている「世」とは何のことなのかという点です。

これからこの問題の答えを申し上げたいわけですが、その答えは単純明快、読んで字のごとくです。「世」とは、ギリシア語「コスモス」の訳です。花の名前にもなっています。これは神が創造なさった天地万物を指します。ユニバースと訳されることもあります。

そしてまた、ここで語られている「世」とは、わたしたちが生きているこの地上の世界のことです。ワールドです。しかし、世界といっても「海外旅行先」の話をしているのではありません。「世」とはこの世界に生きている人々を必ず含んでいます。そしてもちろんわたしたち自身(わたしとあなた)も含まれます。

つまり、もっと分かりやすく、あるいはもっと身近で卑近な言葉で言い換えるとしたら「世」(コスモス)とは「世間」(せけん)です。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世間(せけん)を愛された」と訳してもよい。そのようなことがここで突然語られているのだと理解することができるのです。

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)と言われている中に繰り返し出てくる「世」の意味も全く同じです。これらすべてを「世間」と呼び換えてもよい。「神が御子を世間(せけん)に遣わされたのは、世間を裁くためではなく、御子によって世間が救われるためである」。

このことを今、私は非常に力をこめて語っているつもりですが、もちろん明確な理由と意図があります。それは先ほどから申し上げていることにもちろん関係あります。わたしたちが教会に通っているのは、忙しく生きているからこそだと、先ほど私は言いました。しかし、わたしたちが決して間違ってはならないこと、それは、わたしたちが教会に通う理由は、「世間で過ごす忙しい日々」の中から逃れるためであるということであってはならないということです。

このように申し上げる理由は、はっきりしています。「神は世間を愛された」からです。神の独り子、救い主イエス・キリストを「世間」にお遣わしになったほどに。イエスさまは「世間」の中へと遣わされた方であると言われている以上、「世間」の中にこそおられる方なのです。

洗礼を受けて教会生活を始めること、信仰をもって生きる人間になることこそが「新たに生まれること」、すなわち新しい人生を始めることであるとイエスさまがおっしゃったことも、この点に直接関係しています。

頭の上にちょこっと水をかけたくらいで、あるいは、毎週日曜日の礼拝に通いはじめたくらいで、何が変わるのか、何も変わらないではないかと思われたり言われたりすることは多いのです。しかし、この点で私が申し上げたいことは、いや、むしろ、いっそのこと、何も変わらないほうがよいということです。わたしたちは、洗礼を受ける前も受けた後も、同じひとつの「世間」の中で生きていかなければならないことには変わりません。洗礼を受けた人は必ず職場を変えなければならないとか、人間関係も全く変えなければならないということはありませんし、変えるべきでもありません。

もし変えるべきことがあるとしたら、わたしたちが関わりをもってきた職場や人間関係を「愛する」ようになることです。かつては愛することができなかったかもしれないものを、です。「愛する」とは、裁いたり軽蔑したりすることの反対です。あなたと共に生きている人々を直視し、笑顔を向け、その人々のために生きること・死ぬことです。またそこには、自分自身を愛し、受け容れることが必ず含まれます。そのことが、実際にはとても難しいのです。その難しいことができるようになるために、すなわち世間と自分を愛する訓練を受けるために、わたしたちは神を信じる必要があり、教会に通う必要があるのです。

ですから、わたしたちは「ひまだから」教会に通うのではありません。それどころか、教会に通いはじめるとますます忙しくなります。世のため・人のために楽しんで奉仕する時間が増えていきます。それでよいのです!

(2009年3月22日、松戸小金原教会主日礼拝)

2009年3月21日土曜日

W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(2)

ご参考までに、ファン・アッセルト教授の講演の中で語られているいくつかの単語の発音を私の耳で聴くと、以下のようなカタカタ表記になります。「関口くん、あなたと私は違った聞こえ方がするんだが」とおっしゃる方の耳は、最大限に尊重します。しかし、とりあえずは私の聞き取り内容をご紹介してご批判を乞うことにします。( )内は辞書的意味であり、赤い字はアクセントの位置です。



van Ruler(人物名)
「ファン・ルーラー」
※「ルー」は舌がぶるると震えていますが、「リューラー」には全く聞こえません!



gereformeerde theologie(改革派神学)
「ヘリフォルミールテ・テオロヒー



scholastiek(スコラ神学)
「スコラスティーク」



protestantse orthodoxie(プロテスタント正統主義)
「プロテスタントセ・オルトドキシー



Nadere Reformatie(第二次宗教改革)
ナーデレ・レフォルマーチー」
※「チー」(tie)は「シー」ではないし、scholastiekの「ティー」(tie)でもありません。



traditie(伝統)
「トラディチー」



Calvijn(人物名)
「カルフェイン」
(カフェインではありません。カルヴァンのことです)



Calvinisme(カルヴァン主義)
ルフィニスメ」



onderzoek(研究)
オンデルジューク」



Abraham Kuyper(人物名)
ブラハム・イパー」
(「コイペル」には聞こえません。口を大きく開けた「カ」です!)



Bavinck(人物名)
バーフィンク」
(日本のキリスト教書店に流通している「バビンク」では絶対にありません)



loci(場所、転じて教説の意。いわゆるロキ)
チ」



menselijke vrijheid(人間の自由)
メンセラック・フイヘイト」



W. J. ファン・アッセルト講義「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(1)

以前も「国際ファン・ルーラー学会」(2008年12月10日、アムステルダム自由大学)の「講義音声」をネット上で聴くことができるサイトをご紹介しました。それを再び聴いています。不思議なもので、何度も聴いているうちに、だんだん意味が分かってくるものがあります(というか、何度も聴かないと私にオランダ語は分かりません!)。



なかでも特に面白くて何度も聴いているのは、W. J. ファン・アッセルト先生の「ファン・ルーラーと改革派スコラ神学」(Van Ruler en de gereformeerde scholastiek)です。



ファン・アッセルト教授は、プロテスタントスコラ神学に関する研究の世界的権威者の一人であり、とくに17世紀のオランダで活躍した改革派神学者ヨハネス・コクツェーユス(Johannes Cocceius)の研究者です。ユトレヒト大学神学部でファン・ルーラーから直接教わった学生であり、御自身もユトレヒト大学神学部で教えておられる人です。現在は「オランダプロテスタント神学大学」で教えておられます。



ファン・アッセルト教授の神学的立場はファン・ルーラーと同じ「改革派神学」です。プロテスタントスコラ神学に対する評価は非常に高いものです。20世紀の弁証法神学者やそれ以降のエキュメニズム神学者が好んで持ち出してきた「16世紀宗教改革からの逸脱ないし退落としての17世紀の(死せる)正統主義」という説明図式に立たず、16世紀宗教改革からのラディカルな継続性(radicale continuiteit)が17世紀正統主義にあることを主張するものです。



この講演の中でファン・アッセルト教授は、radicale continuiteit theorie(根本的継続理論)という表現を用いておられます。この理論と同じ基本線に立つ人々として、元ハーバード大学教授ハイコ・A. オーバーマン教授(故人)や米国カルヴァン神学校のリチャード・ムラー教授といった方々を挙げておられます。



そのファン・アッセルト講義の音声はこれ(↓)です。
http://cgi.omroep.nl/cgi-bin/streams?/eo/radio/kerkinbeweging/2008-2009/vanasselt.wma



これは分科会における短い講義だったのですが、私は別の分科会に参加しましたので直接聴くことはできませんでした。しかし、帰国後ネットに講義音声が公開されて以来何度も聴いていてやっと分かってきたことが、いくつかあります。今日特にピンと来た部分は、この講義の真ん中あたりですが、次のようなことを言っておられるところです。



「ファン・ルーラーはカルヴァンをラディカルに相対化した。彼は自分の神学を『カルヴィニズム神学』(Calvinistische theologie)として把えることは決して無く、常に『改革派神学』(gereformeerde theologie)として把えていた。しかし、それはまた、一教団としてのオランダ改革派教会(Gereformeerde Kerken in Nederlands、GKN)の神学であるという意味でもないことは言うまでもない〔なぜならファン・ルーラーはGKNではなくNHKの神学者であるゆえに〕」。



この発言の直後、会場から爆笑が起こります。この講演会場が元GNK教団の教職者養成機関(神学校)であった「アムステルダム自由大学」であったゆえの笑いであると思われます。つまり、出席者たちは、ファン・アッセルト教授がアブラハム・カイパーの「カルヴィニズム」とカイパーが創設した「アムステルダム自由大学」とに対する軽い当てこすりを述べたことに大いに反応したわけです。他にもご紹介したい点がたくさんありますが、今は我慢します。



この国際ファン・ルーラー学会の講演音声は、多くの方々にお聴きいただくことをお勧めいたします。何度も聴いているうちにだんだん分かってくるはずです(一度も聴かなければ決して聴き取れるようにはなりません)。



以下URLに講演音声のリストがあります。http://cgi.omroep.nl...から始まるリンクをクリックすると、音声がスタートします(メディアプレーヤ等の音声再生ソフトが必要です)。レッツ・トライです!



国際ファン・ルーラー学会の講演音声リスト
http://www.aavanruler.nl/index.php?alias=Impressie



2009年3月19日木曜日

質疑応答(7)罪との格闘

(7)義認後の罪の問題といつまでも格闘し続けるのが、福音派の一つの特徴なのかもしれません。



ファン・ルーラーもウェスレー的な「完全聖化主義者」ではありませんので、聖化のプロセスにおける「罪との格闘」の問題は軽視していません。しかし、そのことをファン・ルーラーは徹底的に「三位一体論的・聖霊論的に」考え抜くのであり、つまり、それを「聖霊の内住」(inhabitatio Spiritus sancti)の事態として捉えるのであって、わたしたち人間(イエス・キリストにあって選ばれ、信仰を与えられた人間)のうちに「聖霊」(プニューマ)が働いてくださっていることを前提としながら、聖霊(なる神)と人間精神との(ティリッヒ的に言えば大文字のSpiritと小文字のspiritとの)内的葛藤として「罪との格闘」を描き出すのです。



そして、人間存在のうちに聖霊が(そして同時に「三位一体の神」が)内住してくださっていることそのものが、すでに「救われた状態」です。わたしたちは「神無しで」罪と闘うのではなく、「神と共に」闘うのです。その勝敗はいずこにありやは、すでに決していると信じるべきです。



そしてファン・ルーラーの場合には、すでに書きましたとおり、「地上の存在を喜び楽しまないこと」や「このわたしを全面的に受け容れないこと」こそが「創造者なる神への冒涜」なのであり、それこそが端的に「罪」なのです。「人生を嘆き悲しむこと」や「憂鬱にとらわれたままでいること」でさえ、彼に言わせれば「罪」なのです。



ですから、事は単純です!神の力を信頼して、大胆にこの世を喜び楽しめばよいのです。わたしたちにできることは、それ以上のことでも、それ以下のことでもありません。(終わり)



「ファン・ルーラーの喜びの神学(1)―喜び楽しんでよいのは「神」だけか―」