私は今のところ、いかなる特定の政党の支持者でも(党員でも)ありません。しかし、今回の内閣不信任決議案は否決されてほしいという願いをもちました。本日それが「否決」されたことを順当な結果と受けとめ、ほっと胸をなでおろしています。
午前中の段階で、もし不信任決議案が「可決」された場合は衆議院を解散し、総選挙するという意向を現首相が表明していると分かり、そんなことをやっているヒマはどこにもないと思いました。
とはいえ、これは皮肉だけではなくて、いくらか真面目な意味で、今の状況の中であえて火中に栗を拾いに行きたがっている、次期首相になりたい人の顔が見てみたい気はしました。そういう人がどこかにいたからこそ、現内閣を退陣に追い込みたかったのでしょうから。しかし、それって、だれだったんですかね。今もって謎のままです。
客観情勢だけいえば、菅さんのままにしておいてギャアギャア文句だけ言っているほうがはるかに有利な立場にとどまれることは間違いないのに、どうして野党はわざわざ不信任案なんか出すんだろうと、不可解さを否めずにもいました。
本会議前に行われた民主党代議士会のNHK中継を通じて首相の「決意」を聞いたとき、この線で進んでほしいと思いました。
もし政治的な意味での「最悪のシナリオ」があるとしたら、世論はそのようなシナリオを決して許さないと信じていますが、民主党側であれ自民党側であれ、ある種の「極右内閣」のようなものが誕生し、「被災地復興支援」の名のもとに自衛隊を「日本軍」にし、米軍との一体化を図り、徴兵制を目指す、というような流れでしょうか。
子どもたちの将来に、放射能不安だけでなく軍隊生活まで加わるのでは、たまったものではありません。
自民党副総裁なる大島理森氏の演説は、なかなか興味深いものでした。かなり皮肉をこめていえば、人の非をあげつらう手本を示してくださった感じです。しかしあれほどの(長々と、八つまでカウントしながら)「理由」を述べても、内閣不信任決議案を肯定する「理由」にはなっていなかったです。ただのお芝居でした。政治家より役者のほうが向いている人物だと思いました。
石原伸晃氏の演説は貧弱でした。菅さんに対する「ヒットラー呼ばわり」は、驚きをこえて違和感でした。
石原氏の演説の最中あたりだったかな、「小沢元代表、不信任案の採決欠席の意向 周囲に伝える」という一報が入りました。ほとんど驚きはありませんでしたが、小沢氏の政治生命の真の終焉を感じとりました。
私個人は、原発問題を中心にすえた、最後の「みんなの党」の柿沢未途さんの言ったことが、いちばん説得力を感じました。原発問題は、民主党も自民党も、正面からは問えないようだと悟らせてもらえるものがありました。
それにしても、今日の「否決」の意味を理解するためには、豊かな想像力とレトリックが必要です。内閣不信任決議案の「否決」が現内閣の「信任」を意味しないことは明白です。現首相と現内閣はいずれにせよ近々辞めなければならない。「ただちに」辞めるべきではないという判断が出たというだけのことです。例の「ただちに~無い」です。
「ただちに~無い」というこのレトリックは、すっかり現内閣の十八番になってしまいましたね。「ただちに健康に被害は無い」然り。あまりにも不謹慎なので大っぴらには言えないでしょうけど、「ただちに~無い」は今年の(隠れた)流行語大賞ですね、きっと。
それから、これは今日の副産物のようなものですが、NHK記者の質問で、原口一博さんが次期首相候補に立候補した(させられた?)格好になりました。「絶対に逃げない」と言って(言わせて?)しまった。また、NHKは、不信任決議の投票前にも(小沢氏に近い)松木謙公氏を他の民主党議員が説得している場面を、しきりと映していました。露骨な世論誘導のように見えるので、NHKさんには、この手のやり方については控えめにお願いしたいですね。
NHKは本会議前の民主党代議士会の中継で、菅首相の決意表明後の質疑応答のとき、鳩山さんはともかく、あとは原口さんしか映さなかった。民主党幹部とNHKとのあいだで、菅さんから原口さんへの禅譲プランの裏約束でもあるのでしょうか。なんだか、そういうの、嫌だなあ。
原口さんは(政治の各論はともかくトータルな意味で)別に嫌いなわけじゃないんですが、NHK記者からの質問でも口走っておられた「日本維新の会」でしたっけ、あの「なんとか維新の会」というネーミングの団体が複数あるようですが、あれがかなり違和感あるというか、なんとも復古調というか、日本史の嫌な面を彷彿するんですよね。なんで「維新」なのかなあ?
2011年6月2日木曜日
「教会のストレス」を耐え抜いて初めて「神学」だ
まさに今、年に何度となく訪れる意識の拡散というか分散というかが起こっている状態なのですが、ある程度の統合というか連関というか予定調和というかが成り立っているというより、そこへと強引に引き寄せられているように感じられる(「壊れるなよ」という声がどこからともなく聞こえる)のは、どうしてでしょうか。
悔しがる資格はないし、その資格は自分にはないと、わりと早々と自覚できたからこそ、夢というか目標を、より狭く、より小さなものへと絞ったつもりだったはずなのに。なぜ悔しいんだろう、焦るんだろう。そして、できないんだろう。たちどまることは後退だ。だって、あの人は走ってるじゃないか!?
というようなことだったと思いますね、たしか。昨夜、しきりと書きとめておきたくなったこと。頭痛で(早くねろよ)断念したんだが。どうでもいいね、こんなこと。
今日は衝撃を受けた。受けてはならない衝撃だ(なぜなら失礼だから)。3月11日以来、一人の小説家が黙りこくっていると思っていましたが、それは違っていました。これほどまでに深く優しく。広告の文章と小説は、いや文学は違う。私には広告しか書けないと諦めていましたが、それも違う。苦しんでいないだけだ。それが分かった。もっと苦労して立とう。これだけやっても私はまだ苦しみ足りないのだろう。
自分で考えなくてはならない人(=すべての人)にとって宗教は、なるほどたしかに邪魔だ。キリスト教なんて最たるもの。「あつらえ向き」の答えがいくらでも取り出せる、というものでなくてはならないと自分で決めている。前提は取り払えない。でも「やっと分かったか」。このシタリ顔が嫌なのだ。そりゃ嫌だろう。
でも、教会は私の行く手を阻む。いや正確には「日曜日」が私の邪魔をする。それでいい。遠慮なくとめてくれ、この拡散の暴走を。教会は体を張って我々の行く手を阻む。我々は、自分で考えてもいい。いや、自分の頭と心で徹底的に考えなくてはならない。自分で考えたこと、そして書いたことだけが自分のものだ。しかし、だからこそ、邪魔が貴重なのだ。
邪魔、そしてストレスが貴重だ。不必要なストレスを抱え込み、必要なストレスは回避するのでは、無駄以外の何ものでもない。自分の頭と心で考え抜くことは、我々に必要なストレスだろう。隷属はみっともないじゃないか。なぜ回避するのか、なぜ自由を求めないのか。ヒマだから本を読むのではない。本を読む時間を、苦労して得るのだ。
しかし、それが教科書ならヒマなとき読めばいい。教科書を読む時間を苦労して得るのはバカだ。だって、そんなことは誰だって知っている。誰だって知っていることは他人に任せておけばよい。アングラもつまらない(そんな領域はもう無い)。まだ読んだことのないものを読め。手ずから辞書をめくれ。苦労せよ。
辞書をめくる時間を、喧噪の中にこじ開けろ!
今、また一人になった。朝考えていたことは全部忘れた。書いたことを読み返す気にはならない。これ、Twitterの特質かもしれないですね。思いつき、行き当たりばったり、出たとこ勝負。でも、書いたことはどこかに記録されている。「言質」はとられている。裁判ざたになったときは証拠として突き付けられる。
だから、Twitterに「失言」は書けない。緊張の連続のはずだ。しかし、それほどの疲労感が残らない。軽くハイのまま、いつまでも書き続けることができる。だからこそ流行するのだろうけど、だからこそ何か落とし穴がある(んじゃないかと警戒心が発動する)。これってなんなんだ、と空中に問いかける。
しかし、Twitterは、メーリングリストなどよりははるかに気楽だ。あれは「失言」どころか「誤字脱字」すら許されなかった。削除ができないから「先程のメールは削除してください。正しくは○○でした。謹んでお詫び申し上げます」と馬鹿丁寧な訂正状を送らざるをえなかった。メール数は余計増えるし、そんなことを書いて送っている自分が自分でウザくて仕方がなかった。
原発の問題に無理やり結びつけなくてもいいわけだが、「絶対に壊れないものなど地上には存在しない」のといわば同じで、「誤字脱字が一つもない完璧な書きものなど地上には存在しない」と言いたいくらいなのだから、メーリングリストのような「取り消しのきかなさ」は正直困る。もうあれには戻れないですね。
たった今、「メーリングリストにはもう戻れない」と書いたばかりですが、「取り消しのきかなさ」ゆえに強いられたあの緊張感こそが、私を飛躍的に成長させてくれたことも事実だったりはします。至るところ間違いだらけだったゆえに(今もね!)、年がら年中「お詫びと訂正」だらけだったけど(今もね!)必死でした。
逆に、メーリングリストが事実上ストップして以来、勉強も急ブレーキだ。「取り消しのきかなさ」は、参加者全員に絶えざる緊張を強いたが、頭の体操にはなった。大喧嘩になると、100人を超えるメーリングリスト上に「脱退させていただきます」というメールが送りつけられ、主催者は冷や汗を流した。
いくらなんでもあの緊張感を維持し続けることは本業に支障をきたすと、メーリングリストの継続に恐れを抱き、爾来、次なる「場」を探してきた。しかし、それが見つからない。2ちゃんねるは論外。mixiは匿名性が障害。FacebookとTwitterで実名顔出しが実現したが、どうも雰囲気が学術向きじゃない。
別に、FacebookとTwitterが学術向きでないことが「不満だ」と言いたいわけではない。私が探し求めてきた「場」とは程遠い感じがする、ということだけです。
「インターネットを使った共同研究会」としてたぶんいちばん優れているのは、「喧嘩しないメーリングリスト」ではないかと、そこに戻っていくものがありますね。でも、それはありえないし、メールの喧嘩は神経がもたない。学術の場は結局のところ、大学だ神学校だの「土地と建物」だ、ということに落ち着くのか。だとしたら、ネットは敗北ですね。
しっかし、今日、さむ!(ぶるる) 「夏」になったぜと、完全クールビズで半そでワイシャツだけで出たら、あの3月を思い出すくらいの寒さ。なんでだよ。疼痛はしりますよ。さっきから頑張って教会の牧師室で仕事してましたけど、もう牧師館に戻るしかないね。コートでも着こんで、家のパソコンで仕事続けます。
牧師館は教会と道を隔てた向かいにあるので、通勤時間は30秒だ。でも、雰囲気はまるで違う。集中力に大きな差が出る。さっき帰宅したときは「党首討論をやっている」という情報をえてテレビをつけてしまい、そのチャンネルが見当たらず、水戸黄門(西村晃バージョン)を見てしまいました。
というわけで、今日も「意識散りまくり」の一日でした。辞書は、一ページもめくれなかった。でも、これは何年も同じことを繰り返し書いていることですが、神学は「教会の学」ですからね、教会と伝道の仕事でシッチャカメッチャカで翻訳と研究が停滞するなら、これは本望と考えるべきなんですよ、これは真面目な話です。
教会と伝道の仕事をサボってでも語学と学問にひたすら沈潜できるのは、学生時代だけの特権です。学生時代に学問で悩まなきゃ、いつ悩むのよって話。でも再び毒舌っぽくいえば(全部が毒舌ですね、これ)、澱みない透徹した論理は「神学」には似合わない。「教会」との取っ組み合いのストレスを耐え抜いて初めて「神学」なんですよ(ね?)。
これ、私が松戸小金原教会と喧嘩している、という意味じゃないですよ。それは完全な誤解です。我々にとっては「中会」も「大会」も教会ですし、日本キリスト改革派教会だけが「教会」ではないわけですから、教派を超えた活動や交わりも十分すぎる意味で「教会」の範囲内です。
そういう意味では(そういう意味でだけ)「神学」は強者の学問かもしれません。「教会」は、いつの時代も頑固で、てこでも動かない。しかし教会も堕落と腐敗なしにはありえず正常化と改革が必要。「神学」が教会の現状追認の学なら、それは堕落の学なんです。常に改革され続けなければ「教会」じゃないですよ。
悔しがる資格はないし、その資格は自分にはないと、わりと早々と自覚できたからこそ、夢というか目標を、より狭く、より小さなものへと絞ったつもりだったはずなのに。なぜ悔しいんだろう、焦るんだろう。そして、できないんだろう。たちどまることは後退だ。だって、あの人は走ってるじゃないか!?
というようなことだったと思いますね、たしか。昨夜、しきりと書きとめておきたくなったこと。頭痛で(早くねろよ)断念したんだが。どうでもいいね、こんなこと。
今日は衝撃を受けた。受けてはならない衝撃だ(なぜなら失礼だから)。3月11日以来、一人の小説家が黙りこくっていると思っていましたが、それは違っていました。これほどまでに深く優しく。広告の文章と小説は、いや文学は違う。私には広告しか書けないと諦めていましたが、それも違う。苦しんでいないだけだ。それが分かった。もっと苦労して立とう。これだけやっても私はまだ苦しみ足りないのだろう。
自分で考えなくてはならない人(=すべての人)にとって宗教は、なるほどたしかに邪魔だ。キリスト教なんて最たるもの。「あつらえ向き」の答えがいくらでも取り出せる、というものでなくてはならないと自分で決めている。前提は取り払えない。でも「やっと分かったか」。このシタリ顔が嫌なのだ。そりゃ嫌だろう。
でも、教会は私の行く手を阻む。いや正確には「日曜日」が私の邪魔をする。それでいい。遠慮なくとめてくれ、この拡散の暴走を。教会は体を張って我々の行く手を阻む。我々は、自分で考えてもいい。いや、自分の頭と心で徹底的に考えなくてはならない。自分で考えたこと、そして書いたことだけが自分のものだ。しかし、だからこそ、邪魔が貴重なのだ。
邪魔、そしてストレスが貴重だ。不必要なストレスを抱え込み、必要なストレスは回避するのでは、無駄以外の何ものでもない。自分の頭と心で考え抜くことは、我々に必要なストレスだろう。隷属はみっともないじゃないか。なぜ回避するのか、なぜ自由を求めないのか。ヒマだから本を読むのではない。本を読む時間を、苦労して得るのだ。
しかし、それが教科書ならヒマなとき読めばいい。教科書を読む時間を苦労して得るのはバカだ。だって、そんなことは誰だって知っている。誰だって知っていることは他人に任せておけばよい。アングラもつまらない(そんな領域はもう無い)。まだ読んだことのないものを読め。手ずから辞書をめくれ。苦労せよ。
辞書をめくる時間を、喧噪の中にこじ開けろ!
今、また一人になった。朝考えていたことは全部忘れた。書いたことを読み返す気にはならない。これ、Twitterの特質かもしれないですね。思いつき、行き当たりばったり、出たとこ勝負。でも、書いたことはどこかに記録されている。「言質」はとられている。裁判ざたになったときは証拠として突き付けられる。
だから、Twitterに「失言」は書けない。緊張の連続のはずだ。しかし、それほどの疲労感が残らない。軽くハイのまま、いつまでも書き続けることができる。だからこそ流行するのだろうけど、だからこそ何か落とし穴がある(んじゃないかと警戒心が発動する)。これってなんなんだ、と空中に問いかける。
しかし、Twitterは、メーリングリストなどよりははるかに気楽だ。あれは「失言」どころか「誤字脱字」すら許されなかった。削除ができないから「先程のメールは削除してください。正しくは○○でした。謹んでお詫び申し上げます」と馬鹿丁寧な訂正状を送らざるをえなかった。メール数は余計増えるし、そんなことを書いて送っている自分が自分でウザくて仕方がなかった。
原発の問題に無理やり結びつけなくてもいいわけだが、「絶対に壊れないものなど地上には存在しない」のといわば同じで、「誤字脱字が一つもない完璧な書きものなど地上には存在しない」と言いたいくらいなのだから、メーリングリストのような「取り消しのきかなさ」は正直困る。もうあれには戻れないですね。
たった今、「メーリングリストにはもう戻れない」と書いたばかりですが、「取り消しのきかなさ」ゆえに強いられたあの緊張感こそが、私を飛躍的に成長させてくれたことも事実だったりはします。至るところ間違いだらけだったゆえに(今もね!)、年がら年中「お詫びと訂正」だらけだったけど(今もね!)必死でした。
逆に、メーリングリストが事実上ストップして以来、勉強も急ブレーキだ。「取り消しのきかなさ」は、参加者全員に絶えざる緊張を強いたが、頭の体操にはなった。大喧嘩になると、100人を超えるメーリングリスト上に「脱退させていただきます」というメールが送りつけられ、主催者は冷や汗を流した。
いくらなんでもあの緊張感を維持し続けることは本業に支障をきたすと、メーリングリストの継続に恐れを抱き、爾来、次なる「場」を探してきた。しかし、それが見つからない。2ちゃんねるは論外。mixiは匿名性が障害。FacebookとTwitterで実名顔出しが実現したが、どうも雰囲気が学術向きじゃない。
別に、FacebookとTwitterが学術向きでないことが「不満だ」と言いたいわけではない。私が探し求めてきた「場」とは程遠い感じがする、ということだけです。
「インターネットを使った共同研究会」としてたぶんいちばん優れているのは、「喧嘩しないメーリングリスト」ではないかと、そこに戻っていくものがありますね。でも、それはありえないし、メールの喧嘩は神経がもたない。学術の場は結局のところ、大学だ神学校だの「土地と建物」だ、ということに落ち着くのか。だとしたら、ネットは敗北ですね。
しっかし、今日、さむ!(ぶるる) 「夏」になったぜと、完全クールビズで半そでワイシャツだけで出たら、あの3月を思い出すくらいの寒さ。なんでだよ。疼痛はしりますよ。さっきから頑張って教会の牧師室で仕事してましたけど、もう牧師館に戻るしかないね。コートでも着こんで、家のパソコンで仕事続けます。
牧師館は教会と道を隔てた向かいにあるので、通勤時間は30秒だ。でも、雰囲気はまるで違う。集中力に大きな差が出る。さっき帰宅したときは「党首討論をやっている」という情報をえてテレビをつけてしまい、そのチャンネルが見当たらず、水戸黄門(西村晃バージョン)を見てしまいました。
というわけで、今日も「意識散りまくり」の一日でした。辞書は、一ページもめくれなかった。でも、これは何年も同じことを繰り返し書いていることですが、神学は「教会の学」ですからね、教会と伝道の仕事でシッチャカメッチャカで翻訳と研究が停滞するなら、これは本望と考えるべきなんですよ、これは真面目な話です。
教会と伝道の仕事をサボってでも語学と学問にひたすら沈潜できるのは、学生時代だけの特権です。学生時代に学問で悩まなきゃ、いつ悩むのよって話。でも再び毒舌っぽくいえば(全部が毒舌ですね、これ)、澱みない透徹した論理は「神学」には似合わない。「教会」との取っ組み合いのストレスを耐え抜いて初めて「神学」なんですよ(ね?)。
これ、私が松戸小金原教会と喧嘩している、という意味じゃないですよ。それは完全な誤解です。我々にとっては「中会」も「大会」も教会ですし、日本キリスト改革派教会だけが「教会」ではないわけですから、教派を超えた活動や交わりも十分すぎる意味で「教会」の範囲内です。
そういう意味では(そういう意味でだけ)「神学」は強者の学問かもしれません。「教会」は、いつの時代も頑固で、てこでも動かない。しかし教会も堕落と腐敗なしにはありえず正常化と改革が必要。「神学」が教会の現状追認の学なら、それは堕落の学なんです。常に改革され続けなければ「教会」じゃないですよ。
2011年5月27日金曜日
重要なことは破局で終わらなかった場合まで考え抜くことだ
「今年の夏、我々はもはや電気を使ってはならないのではないか」というくらいに思い詰めている人たちがいるようですね。
でも、電気は使えばいいです。問題はありません。「湯水」か「停電」かの二者択一なんて誰にも迫られてないはずです。適度な使い方でいいと思いますよ。
それとも、使わなければならない人に電気を残すために「ゼロ電」を迫られる人がいるとでも心配しておられるのでしょうか。それは無いですよ。現代社会で「ゼロ電」は死ですからね。それは無いです。
まあね、せめて7月、8月を迎えてみなければ、実際にどうなるかは分かりませんけどね。というか日本の場合、四季がはっきりしすぎてるので、せめて一年過ごしてみないとね。
想像力が豊かなことは、良いことですけどね。「想像」と「妄想」は同じですよ。我々にとって重要なことは、破局の場合だけで想像をやめず、破局で終らなかった場合まで考え抜くことです。
「破局オチ」という言葉があるかどうかは知りませんが、いわゆる「死にオチ」なら知ってます。「死にオチ」なんてイマドキ、辞書に載ってるんじゃないかなあ。もうそんな狭い世界のウフフ用語じゃないですよね。
そういうのは、もう十分見ましたよ。そして、うっぷ、もう飽きた。そういうのいいから、次、次ー!って気分ですね。
いま考えている「ゼロ年代」の克服の道は、まだ分かんないですけどね。「ゼロ年代」(いちおう2000年から2009年まで、としておきますね)と「イチゼロ年代」(こちらは私の造語。他のだれかが使っているかどうかは知らないです。まさに「今、ここ」の状況のこと)とのたぶん最も大きな違いは「実名顔出し」ですよね。FacebookとTwitterの普及が、時代を分けていると思います。
「ゼロ年代オタク」の基本は匿名性だったはず。2ちゃんねるとmixiどまり、かな。私はほとんど初めからネットで実名顔出しをしてきましたが、少数派でしたね。「著名人でもないくせにエラソウに」とか見てた人もいるんじゃないですかね。
「ゼロ年代」以前からのオタクの人もいますよね。オタクにも四層くらいありそうです。初代オタク(80年代以前)、次世代オタク(90年代)、「ゼロ年代」オタク(00年代)、「イチゼロ年代」オタク(10年代)。
四層というのは、オタク生活を始めた時期を言ったまでで、「初代」だった人が今でもオタクであり続けている場合は「初代」にカテゴライズすればいいんですよ。
それで、私は、「初代」から「ゼロ年代」までは、道具は変わっても「結果」は変わってない、と感じているんです。
90年代までと比べて「ゼロ年代」が手にした圧倒的に有力な武器はネットだったでしょ。でも、ネットはネットでも、「ゼロ年代」に至っても、こと日本人の場合、匿名性の限界内の悪あがきのまま。それでは世界を変えられない。匿名の「意見」なんて、だれも信用しなかったんです。
それに対して、昨年あたりから本格化した「イチゼロ年代」は、それまでとは違ってきているようだと感じます。それは「オタクをやめて世間に出る」という変化じゃありません。実名顔出しで「オタクのまま世間に出る」ようになったのです。
いま文章、ちょっと変だったかな。「ゼロ年代」までは「世間に出る」ためには「オタクをやめること」が求められましたが(と思いますが)、「イチゼロ年代」以降は、「世間に出る」ためには、ある意味「徹底的にオタクのままであり続けること」が求められている気がするのです。
ま、今日はこれくらいにしますね。ヒントは、世界の最先端の情報はどこで得られるか、ですね。私もまだ煮詰まってませんです。Googleが「アングラ領域」を無くしたという点を加えておきましょうか。
でも、電気は使えばいいです。問題はありません。「湯水」か「停電」かの二者択一なんて誰にも迫られてないはずです。適度な使い方でいいと思いますよ。
それとも、使わなければならない人に電気を残すために「ゼロ電」を迫られる人がいるとでも心配しておられるのでしょうか。それは無いですよ。現代社会で「ゼロ電」は死ですからね。それは無いです。
まあね、せめて7月、8月を迎えてみなければ、実際にどうなるかは分かりませんけどね。というか日本の場合、四季がはっきりしすぎてるので、せめて一年過ごしてみないとね。
想像力が豊かなことは、良いことですけどね。「想像」と「妄想」は同じですよ。我々にとって重要なことは、破局の場合だけで想像をやめず、破局で終らなかった場合まで考え抜くことです。
「破局オチ」という言葉があるかどうかは知りませんが、いわゆる「死にオチ」なら知ってます。「死にオチ」なんてイマドキ、辞書に載ってるんじゃないかなあ。もうそんな狭い世界のウフフ用語じゃないですよね。
そういうのは、もう十分見ましたよ。そして、うっぷ、もう飽きた。そういうのいいから、次、次ー!って気分ですね。
いま考えている「ゼロ年代」の克服の道は、まだ分かんないですけどね。「ゼロ年代」(いちおう2000年から2009年まで、としておきますね)と「イチゼロ年代」(こちらは私の造語。他のだれかが使っているかどうかは知らないです。まさに「今、ここ」の状況のこと)とのたぶん最も大きな違いは「実名顔出し」ですよね。FacebookとTwitterの普及が、時代を分けていると思います。
「ゼロ年代オタク」の基本は匿名性だったはず。2ちゃんねるとmixiどまり、かな。私はほとんど初めからネットで実名顔出しをしてきましたが、少数派でしたね。「著名人でもないくせにエラソウに」とか見てた人もいるんじゃないですかね。
「ゼロ年代」以前からのオタクの人もいますよね。オタクにも四層くらいありそうです。初代オタク(80年代以前)、次世代オタク(90年代)、「ゼロ年代」オタク(00年代)、「イチゼロ年代」オタク(10年代)。
四層というのは、オタク生活を始めた時期を言ったまでで、「初代」だった人が今でもオタクであり続けている場合は「初代」にカテゴライズすればいいんですよ。
それで、私は、「初代」から「ゼロ年代」までは、道具は変わっても「結果」は変わってない、と感じているんです。
90年代までと比べて「ゼロ年代」が手にした圧倒的に有力な武器はネットだったでしょ。でも、ネットはネットでも、「ゼロ年代」に至っても、こと日本人の場合、匿名性の限界内の悪あがきのまま。それでは世界を変えられない。匿名の「意見」なんて、だれも信用しなかったんです。
それに対して、昨年あたりから本格化した「イチゼロ年代」は、それまでとは違ってきているようだと感じます。それは「オタクをやめて世間に出る」という変化じゃありません。実名顔出しで「オタクのまま世間に出る」ようになったのです。
いま文章、ちょっと変だったかな。「ゼロ年代」までは「世間に出る」ためには「オタクをやめること」が求められましたが(と思いますが)、「イチゼロ年代」以降は、「世間に出る」ためには、ある意味「徹底的にオタクのままであり続けること」が求められている気がするのです。
ま、今日はこれくらいにしますね。ヒントは、世界の最先端の情報はどこで得られるか、ですね。私もまだ煮詰まってませんです。Googleが「アングラ領域」を無くしたという点を加えておきましょうか。
2011年5月26日木曜日
「電源コードにつながったエヴァンゲリオン」と「ネットの匿名掲示板」は大差ない
余談ですが、『ONE PIECE』はどっちですかね。私の範疇表に従えば、ONE PIECEの世界は、どちらかといえばエヴァンゲリオンの世界(ただ物だけの世界)に近いのですが、ルフィの腕が百メートルくらい伸びている場面とか見ると、やっぱりDEATH NOTEの世界に近いのかなと、迷いそうになります。
しかし、まあ、ルフィの腕なら何キロ伸びても驚きもしませんし、あっても許す。でも、ノートに誰かの名前を書いたら、書かれたその名前の人が死ぬなんてのは、無いですよ。道徳的に許せないとか、そういう話とはだいぶ違いますよ。
だから、ここで、せっかく面白い問題提起をしてくださったのだから、その宇野常寛氏の本の話に戻らざるをえない。そういう気色悪いノートが「ある」前提を抜きにしては成立しない夜神月の犯行を、碇シンジが「止める」必要はない。「そんなノートはない」と言って相手にしなければ、何も起こらないのです。
いま書いたことを、もうちょっと丁寧に書きなおしますね。碇シンジが「そんなノートはない」と言って、彼とは別の世界に住んでいるかもしれないが、ともかく出会ったことがないし、出会うことができない夜神月のことなどどうでもよいと言って相手にしなければ、碇シンジが住んでいる世界には何も起こらない、です。
私は断然、碇シンジの世界に住んでいます。死神だの悪霊だのは全く「見たこと」がありませんし、その声を「聞いたこと」もありません。「どうせフィクションだから」というオチで結構。しかし、たとえフィクションでも、碇シンジと夜神月は共存できませんよ。碇シンジの世界に夜神月は存在しえないし、逆も然りです。
したがって、論理的に整えていえば、「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、出会うことができない夜神月を、碇シンジは止めることはできないし、かかわることさえできないから」と言えるのではないかと、考えているところです。
ゼロ年代のデスノートって何だったんでしょうね。「ネットの匿名掲示板」なんて答えは駄目ですよ、それは違います。書いた人間は匿名で、だれかの実名や悪口を書きこんで、その書き込みを読んだ相手が自殺した、なんてのは、デスノートでも何でもない。電線越しにつながっている相手への直接的な、まさに「電撃」攻撃です。
「電源コードにつながったエヴァンゲリオン」と「ネットの掲示板」は本質的に同じだし、一ミリも超えてない。でも、DEATH NOTEは存在しないです。「ネットの匿名掲示板」(電源コードつき)は、DEATH NOTEとは全く異質なものなのです。
昨夜は船橋高根教会で東関東中会伝道委員会。早朝は教会の月報の原稿書き(巻頭言など3ページ分)。その後すぐに出かけ、午前中は松戸市PTA連絡協議会でした。ガガガガとラッシュで仕事していると、同時並行でいろいろ書きたくなるんですよね。
��続けましょう)
しかし、まあ、ルフィの腕なら何キロ伸びても驚きもしませんし、あっても許す。でも、ノートに誰かの名前を書いたら、書かれたその名前の人が死ぬなんてのは、無いですよ。道徳的に許せないとか、そういう話とはだいぶ違いますよ。
だから、ここで、せっかく面白い問題提起をしてくださったのだから、その宇野常寛氏の本の話に戻らざるをえない。そういう気色悪いノートが「ある」前提を抜きにしては成立しない夜神月の犯行を、碇シンジが「止める」必要はない。「そんなノートはない」と言って相手にしなければ、何も起こらないのです。
いま書いたことを、もうちょっと丁寧に書きなおしますね。碇シンジが「そんなノートはない」と言って、彼とは別の世界に住んでいるかもしれないが、ともかく出会ったことがないし、出会うことができない夜神月のことなどどうでもよいと言って相手にしなければ、碇シンジが住んでいる世界には何も起こらない、です。
私は断然、碇シンジの世界に住んでいます。死神だの悪霊だのは全く「見たこと」がありませんし、その声を「聞いたこと」もありません。「どうせフィクションだから」というオチで結構。しかし、たとえフィクションでも、碇シンジと夜神月は共存できませんよ。碇シンジの世界に夜神月は存在しえないし、逆も然りです。
したがって、論理的に整えていえば、「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、出会うことができない夜神月を、碇シンジは止めることはできないし、かかわることさえできないから」と言えるのではないかと、考えているところです。
ゼロ年代のデスノートって何だったんでしょうね。「ネットの匿名掲示板」なんて答えは駄目ですよ、それは違います。書いた人間は匿名で、だれかの実名や悪口を書きこんで、その書き込みを読んだ相手が自殺した、なんてのは、デスノートでも何でもない。電線越しにつながっている相手への直接的な、まさに「電撃」攻撃です。
「電源コードにつながったエヴァンゲリオン」と「ネットの掲示板」は本質的に同じだし、一ミリも超えてない。でも、DEATH NOTEは存在しないです。「ネットの匿名掲示板」(電源コードつき)は、DEATH NOTEとは全く異質なものなのです。
昨夜は船橋高根教会で東関東中会伝道委員会。早朝は教会の月報の原稿書き(巻頭言など3ページ分)。その後すぐに出かけ、午前中は松戸市PTA連絡協議会でした。ガガガガとラッシュで仕事していると、同時並行でいろいろ書きたくなるんですよね。
��続けましょう)
というか、そもそも「碇シンジは夜神月に出会うことができない」です
いろいろ考えながら書いていますので、途中のツッコミがあるとありがたいです。
宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)の中で書いておられることは、「碇シンジ」と「夜神月」の対比です。
そして、それはそのまま、氏の言うところの「1990年代後半の想像力」の代表者なる前者と「2000年代の想像力」の代表者なる後者との対比です。私自身は、フィクションを全否定したいわけではないです(んなの言ったら「碇シンジ」もフィクションです)。
で、もちろん(言うまでもなく)「エヴァンゲリオン」もフィクションなわけで(というか絵だし) 、そういうのをひっくるめて否定する論理は私の中には無いですよ。そういう片づけ方は、それこそ文学の否定にさえなるでしょ。それは私には無いから安心(?)してください。
宇野氏が書いておられることは、夜神月こそは2000年代の正義の象徴であるというような乱暴な展開ではありません。宇野氏の名誉を守る責任は私にはありませんが(たぶんね)、さすがにそこまで乱暴ではないです。「碇シンジのように引きこもっていては自分が殺されるので、決断主義的に行動する」(大意)のが夜神月だそうです。
私の読み方でも、「しょうがないから戦う」碇シンジと、「自分から仕掛ける」夜神月は確かに違うと分かります。今の私に芽生えている思いは、強いて言えば「碇シンジ型(または旧式)引きこもり」の擁護かもしれません。
しかし、宇野氏は、碇シンジのありさまから「しょうがないから戦う」というモチーフをほとんど引き出していないようにも見えます(まだ読了しえていない現段階では)。その代わりに「何が正しいかが分からないゆえに、間違いを犯したくないから何もしない」(大意)少年像としての碇シンジを強調したうえで、夜神月の決断主義と対比させています。
ところで、私(45歳)がようやく昨年(ウェブ上で)見た「エヴァンゲリオン」のどこが面白いと感じたのかといえば、あのロボット(じゃないんですよね、「拘束具」でしたっけ)が、それほど長くもない電源コードにつながっていたこと。そして、そのコードが外れると、残り数分しか動けなかったこと、でした。
あとは、なんだろう、碇シンジが葛城ミサトの部屋で同居することになった初日の、部屋の散らかりようとか、ゴミのほとんどがYEBISUビールの空き缶で埋め尽くされていたとか、掃除当番をじゃんけんで決めるとか。単純に「面白い」と思いました。夢見心地な所がまるでない感じ。
しかし、劇中で使用されるノートパソコンや携帯電話のデザインは「2015年」(でしたっけ。あと四年後ですね)という年代設定の割には古臭いものでしたね。 とくに携帯電話はデカすぎる。授業中の教室内で行われたチャットも「Y/N」とかキューハチ時代のパソコンみたいで笑いました。
で、宇野氏は「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を提示なさったわけですが、私の関心から言わせていただけば、碇と夜神とでは、道具の質があまりにも違いすぎて、比較が成り立たないと感じるのです。まあ、まだ結論めいたことを言いきる段階にはありませんが。
あるいは、かなり陳腐で古臭い言葉を持ち出せば「世界観の違い」でしょうか。私の見るかぎり(隈なく見抜いたわけではありませんが)、エヴァンゲリオンの世界は「ただ物だけの世界」(徹底的なマテリアルワールド)。空中にフワフワ浮かんでいる「死神」など出てきえない時空です。
そして、エヴァンゲリオンは「電源コード」につながれている。ロボット(じゃないことは知っています)に電力を集めるために、全国を「停電」にする作戦あたりまで描かれる。モノや、それを動かすためのデンキ(これもモノの一種)というような要素を、スキップしようとしないんです。
それに対して、DEATH NOTEの世界は、羽根の生えた「死神」(名前忘れました)が空中にふんわ、ふんわでしょ?「世界観」が違うというより「世界」が違う。「碇シンジでは夜神月を止められない」も何も、そもそも「碇シンジは夜神月に出会うことができない」んです。
宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)の中で書いておられることは、「碇シンジ」と「夜神月」の対比です。
そして、それはそのまま、氏の言うところの「1990年代後半の想像力」の代表者なる前者と「2000年代の想像力」の代表者なる後者との対比です。私自身は、フィクションを全否定したいわけではないです(んなの言ったら「碇シンジ」もフィクションです)。
で、もちろん(言うまでもなく)「エヴァンゲリオン」もフィクションなわけで(というか絵だし) 、そういうのをひっくるめて否定する論理は私の中には無いですよ。そういう片づけ方は、それこそ文学の否定にさえなるでしょ。それは私には無いから安心(?)してください。
宇野氏が書いておられることは、夜神月こそは2000年代の正義の象徴であるというような乱暴な展開ではありません。宇野氏の名誉を守る責任は私にはありませんが(たぶんね)、さすがにそこまで乱暴ではないです。「碇シンジのように引きこもっていては自分が殺されるので、決断主義的に行動する」(大意)のが夜神月だそうです。
私の読み方でも、「しょうがないから戦う」碇シンジと、「自分から仕掛ける」夜神月は確かに違うと分かります。今の私に芽生えている思いは、強いて言えば「碇シンジ型(または旧式)引きこもり」の擁護かもしれません。
しかし、宇野氏は、碇シンジのありさまから「しょうがないから戦う」というモチーフをほとんど引き出していないようにも見えます(まだ読了しえていない現段階では)。その代わりに「何が正しいかが分からないゆえに、間違いを犯したくないから何もしない」(大意)少年像としての碇シンジを強調したうえで、夜神月の決断主義と対比させています。
ところで、私(45歳)がようやく昨年(ウェブ上で)見た「エヴァンゲリオン」のどこが面白いと感じたのかといえば、あのロボット(じゃないんですよね、「拘束具」でしたっけ)が、それほど長くもない電源コードにつながっていたこと。そして、そのコードが外れると、残り数分しか動けなかったこと、でした。
あとは、なんだろう、碇シンジが葛城ミサトの部屋で同居することになった初日の、部屋の散らかりようとか、ゴミのほとんどがYEBISUビールの空き缶で埋め尽くされていたとか、掃除当番をじゃんけんで決めるとか。単純に「面白い」と思いました。夢見心地な所がまるでない感じ。
しかし、劇中で使用されるノートパソコンや携帯電話のデザインは「2015年」(でしたっけ。あと四年後ですね)という年代設定の割には古臭いものでしたね。 とくに携帯電話はデカすぎる。授業中の教室内で行われたチャットも「Y/N」とかキューハチ時代のパソコンみたいで笑いました。
で、宇野氏は「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を提示なさったわけですが、私の関心から言わせていただけば、碇と夜神とでは、道具の質があまりにも違いすぎて、比較が成り立たないと感じるのです。まあ、まだ結論めいたことを言いきる段階にはありませんが。
あるいは、かなり陳腐で古臭い言葉を持ち出せば「世界観の違い」でしょうか。私の見るかぎり(隈なく見抜いたわけではありませんが)、エヴァンゲリオンの世界は「ただ物だけの世界」(徹底的なマテリアルワールド)。空中にフワフワ浮かんでいる「死神」など出てきえない時空です。
そして、エヴァンゲリオンは「電源コード」につながれている。ロボット(じゃないことは知っています)に電力を集めるために、全国を「停電」にする作戦あたりまで描かれる。モノや、それを動かすためのデンキ(これもモノの一種)というような要素を、スキップしようとしないんです。
それに対して、DEATH NOTEの世界は、羽根の生えた「死神」(名前忘れました)が空中にふんわ、ふんわでしょ?「世界観」が違うというより「世界」が違う。「碇シンジでは夜神月を止められない」も何も、そもそも「碇シンジは夜神月に出会うことができない」んです。
今のところ「碇シンジは夜神月を止める必要はない」だと思っている
なるほど、こういう図になるのかと分かった(試してみたい気持ちもいくらかあったことは否定しないでおくが、特定の人々に対する能動的な挑戦的意図などは皆無である)。
ブログに「宇野常寛氏」という名前を書き込んだとたんに、検索で見つけられたようで、宇野常寛氏関連のとある掲示板に、私のプロフィールつきでデカデカと貼り出された。どうりで、ふだんよりアクセスカウンターのまわりが速いわけだ。
はは、いやいや、私は別に宇野氏に「反論」したいわけではないです。「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を見て「違うよ」とは思ったが、初めから書いているとおり、宇野氏の本はまだ読んでる最中なので、書評めいたことを開始しうる段階ではない。読書中のメモにすぎないと、初めの初めから言っている。
それでも、たしかに、宇野氏の本をたまたま読んで(そもそも宇野氏に関心があったわけではなく、「ゼロ年代」という単語の意味を知りたくて、それこそ検索で「ゼロ年代」で引っかかった本を買っただけだ)、その本の中に書いてあった命題を見て、「違うよ」と思った、と書きはした。それだけで、私は何かある人々の神聖な領域を侵したことになるのだろうか。
そうね、強いて言えば、「宇野氏」への反論ではなく、『DEATH NOTE』への違和感、いやほとんど嫌悪感のようなものであれば、あるかもしれない。あの空中にフワフワ浮かんだやつ・・・なんだっけ、「死神」でしたっけ、固有名詞ありましたっけ、あれがダメですね。ああいうのが「いる」前提でなければ成立しない話。そういうのに反吐が出ます。
あとは、DEATH NOTEなるものそれ自体が存在しない。そこに誰かの名前を書いただけで、名前を書かれたその人が死ぬというノート。そういうものは、この地上には存在しない。そういうのが「ある」前提でなければ成立しないような話が、私は苦手です。とても耐えがたい。
宙にフワフワ浮かんだ感じのやつも、DEATH NOTEなるものも、どこにも存在しないし、ありえない。この二者が存在しないかぎり、夜神月なる登場人物は「無力」なのだから、そもそも「恐怖すべき夜神月」なる何者かは「存在しない」と考えたまでだ。
そこで至った(今のところの)帰結はこうだ。
問 「碇シンジでは夜神月を止められない」か。
答 「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、夜神月の犯行を成立させる前提としての死神(だっけ)も、なんとかノートも、そんなものはこの地上にはどこにも存在しないから」。
��いくらなんでも、ここでは終われないので、たぶんもう少し続く。)
ブログに「宇野常寛氏」という名前を書き込んだとたんに、検索で見つけられたようで、宇野常寛氏関連のとある掲示板に、私のプロフィールつきでデカデカと貼り出された。どうりで、ふだんよりアクセスカウンターのまわりが速いわけだ。
はは、いやいや、私は別に宇野氏に「反論」したいわけではないです。「碇シンジでは夜神月を止められない」という命題を見て「違うよ」とは思ったが、初めから書いているとおり、宇野氏の本はまだ読んでる最中なので、書評めいたことを開始しうる段階ではない。読書中のメモにすぎないと、初めの初めから言っている。
それでも、たしかに、宇野氏の本をたまたま読んで(そもそも宇野氏に関心があったわけではなく、「ゼロ年代」という単語の意味を知りたくて、それこそ検索で「ゼロ年代」で引っかかった本を買っただけだ)、その本の中に書いてあった命題を見て、「違うよ」と思った、と書きはした。それだけで、私は何かある人々の神聖な領域を侵したことになるのだろうか。
そうね、強いて言えば、「宇野氏」への反論ではなく、『DEATH NOTE』への違和感、いやほとんど嫌悪感のようなものであれば、あるかもしれない。あの空中にフワフワ浮かんだやつ・・・なんだっけ、「死神」でしたっけ、固有名詞ありましたっけ、あれがダメですね。ああいうのが「いる」前提でなければ成立しない話。そういうのに反吐が出ます。
あとは、DEATH NOTEなるものそれ自体が存在しない。そこに誰かの名前を書いただけで、名前を書かれたその人が死ぬというノート。そういうものは、この地上には存在しない。そういうのが「ある」前提でなければ成立しないような話が、私は苦手です。とても耐えがたい。
宙にフワフワ浮かんだ感じのやつも、DEATH NOTEなるものも、どこにも存在しないし、ありえない。この二者が存在しないかぎり、夜神月なる登場人物は「無力」なのだから、そもそも「恐怖すべき夜神月」なる何者かは「存在しない」と考えたまでだ。
そこで至った(今のところの)帰結はこうだ。
問 「碇シンジでは夜神月を止められない」か。
答 「碇シンジは夜神月を止める必要はない。なぜなら、夜神月の犯行を成立させる前提としての死神(だっけ)も、なんとかノートも、そんなものはこの地上にはどこにも存在しないから」。
��いくらなんでも、ここでは終われないので、たぶんもう少し続く。)
2011年5月24日火曜日
「疎開ビジネス」や「線量計詐欺」にも警戒すべきだ
「松戸市は独自に23日から小中学校などで松戸市は23日以降、市内の保育所、小中学校、公園などで簡易測定器による放射線量を測定して、その結果をホームページなどで公表すると発表した」。放射線量、測定地点増やします(朝日新聞千葉版、2011年5月21日)
いま起こっている危機的な緊急事態に対しては、突き詰めて言えば「一家に一台、線量計」しか打開策は無いような気がしています。「データをもっていない素人に発言の資格は無い」と言われる国ですから。ただ、そのためには、線量計が値崩れするのを待つしかない。松戸市の迅速な動きは、誇らしく思っています。
「風評被害」も「安全デマ」も、そのすべての原因は(十分すぎる意味で「被害当事者」である)一般市民がデータをもちえていないこと、つまり線量計の値段が高すぎて買えなかったこと(そんなものが普通に市販されているとも知らなかったこと)にあると思います。値段が体重計(?)くらいになれば、みんな買いますよね?
とはいえ、放射能の影響からの退避ということをもし本気で考えるとしたら、一時的な疎開では済まず、最終的には転居を考えざるをえない(私が転居したがっているという話ではありませんからね)。まさに人生をかけた、重大な決意が伴う。その決断に耐えうる線量計は、ある程度高性能のものであってほしいとは思います。高性能であるが、一般市民の手に届く範囲内の価格のものがあるといいですね。我々のパソコンにUSBでつないで簡単に使えるようなものがいい。
線量計を一般人には買えない値段にし、データを公表せず、かつデータを素人には判読不可能な難解なものにするなどのやり方で、「企業防衛」というか、「既得権益の保護」というか、あるいはもっと戯画的にいえば「原発インペリアリズムの砦」にしてきたのでしょうけど、彼らの城門は、もはや守りきれないでしょうね。
文系人間と理系人間との違いという問題は(その二分法自体が無意味であるという意見があることも知りつつ)、私もずっと考えてきました。文系人間に線量計を扱うことはできないだろうと、理系の人たちから言われてしまうかもしれません。しかし、線量計を「開発する」ためには理系の知識が必要だと思いますが、線量計を「利用する」ためには数学や物理ができなくても大丈夫ではないでしょうか。パソコンでも携帯でも電子レンジでも、みな同じことが言えるでしょう。
ともかく、世の中の理系の人たちを責めないであげましょうよ。もしかしたら、いま、彼らは自分たちが国民全体から責められていると感じて、必要以上に身構えておられるかもしれません。理系の人たちの中の原発に反対してきた人たちは学会等で徹底的に虐げられてきたようですから、そういうのを目の当たりにして、表立って反対できなかった理系人は多かったと思います。
原発推進に消極的だったとか批判的だったとかの理由で、学会の中であからさまな妨害や非難を受けた良心的な学者たちもいたということを知るにつけ、私などは「犯罪」の二文字を思わずにいられません。ここから先は、法学者たちの出番ではないでしょうか。今回の事故が「天災」や「運命」や「想定外」の面だけではなかったことは今や誰の目にも明白なのですから、首謀者の逮捕をもって原発時代を終わらせるべきです。
私の原発に対する立場としては、中立とは言えないにしても、存在そのものに反対したことは、いまだかつて(実は今も)ないのです。事故を想定して備えること自体が妨害されるとか、データの隠ぺいや改ざんが行われるような国には原発をもつ資格がない、と思っているだけです。
あと一つ、言わずもがなのことをあえて言えば、福島第一原発からの大量の放射能汚染水の海洋放出の問題はいまだに終息していないわけですから、現時点ですでに日本国内にも、あるいは地球上のどこにも、将来にわたって真に安全と言いうる「疎開先」は無いと、私は考えています。要するに、逃げ場はどこにも無いのです。
なぜ今あえて「言わずもがなのこと」を書いたかといえば、近い将来にも、「疎開先あります」とか「引っ越し先にどうですか」といった内容で、人の不安につけこんで、家や不動産を高く売りつける詐欺的な商法が横行しそうな気がしているからです。そういうことも監視し、警戒していく必要を感じています。
その種の詐欺に何と名付けるべきでしょう。「疎開ビジネス」かな。線量計も慌てて飛びつく必要なし。そのうち値崩れしますから、手の届く値段になってから買えばよい。いま飛びつくと「線量計サギ」に引っかかるかもしれません。
最良の堕落は最悪なり(corruptio optimi pessima)。善意の衣を着た狼は、あらゆるところに潜んでいます。
いま起こっている危機的な緊急事態に対しては、突き詰めて言えば「一家に一台、線量計」しか打開策は無いような気がしています。「データをもっていない素人に発言の資格は無い」と言われる国ですから。ただ、そのためには、線量計が値崩れするのを待つしかない。松戸市の迅速な動きは、誇らしく思っています。
「風評被害」も「安全デマ」も、そのすべての原因は(十分すぎる意味で「被害当事者」である)一般市民がデータをもちえていないこと、つまり線量計の値段が高すぎて買えなかったこと(そんなものが普通に市販されているとも知らなかったこと)にあると思います。値段が体重計(?)くらいになれば、みんな買いますよね?
とはいえ、放射能の影響からの退避ということをもし本気で考えるとしたら、一時的な疎開では済まず、最終的には転居を考えざるをえない(私が転居したがっているという話ではありませんからね)。まさに人生をかけた、重大な決意が伴う。その決断に耐えうる線量計は、ある程度高性能のものであってほしいとは思います。高性能であるが、一般市民の手に届く範囲内の価格のものがあるといいですね。我々のパソコンにUSBでつないで簡単に使えるようなものがいい。
線量計を一般人には買えない値段にし、データを公表せず、かつデータを素人には判読不可能な難解なものにするなどのやり方で、「企業防衛」というか、「既得権益の保護」というか、あるいはもっと戯画的にいえば「原発インペリアリズムの砦」にしてきたのでしょうけど、彼らの城門は、もはや守りきれないでしょうね。
文系人間と理系人間との違いという問題は(その二分法自体が無意味であるという意見があることも知りつつ)、私もずっと考えてきました。文系人間に線量計を扱うことはできないだろうと、理系の人たちから言われてしまうかもしれません。しかし、線量計を「開発する」ためには理系の知識が必要だと思いますが、線量計を「利用する」ためには数学や物理ができなくても大丈夫ではないでしょうか。パソコンでも携帯でも電子レンジでも、みな同じことが言えるでしょう。
ともかく、世の中の理系の人たちを責めないであげましょうよ。もしかしたら、いま、彼らは自分たちが国民全体から責められていると感じて、必要以上に身構えておられるかもしれません。理系の人たちの中の原発に反対してきた人たちは学会等で徹底的に虐げられてきたようですから、そういうのを目の当たりにして、表立って反対できなかった理系人は多かったと思います。
原発推進に消極的だったとか批判的だったとかの理由で、学会の中であからさまな妨害や非難を受けた良心的な学者たちもいたということを知るにつけ、私などは「犯罪」の二文字を思わずにいられません。ここから先は、法学者たちの出番ではないでしょうか。今回の事故が「天災」や「運命」や「想定外」の面だけではなかったことは今や誰の目にも明白なのですから、首謀者の逮捕をもって原発時代を終わらせるべきです。
私の原発に対する立場としては、中立とは言えないにしても、存在そのものに反対したことは、いまだかつて(実は今も)ないのです。事故を想定して備えること自体が妨害されるとか、データの隠ぺいや改ざんが行われるような国には原発をもつ資格がない、と思っているだけです。
あと一つ、言わずもがなのことをあえて言えば、福島第一原発からの大量の放射能汚染水の海洋放出の問題はいまだに終息していないわけですから、現時点ですでに日本国内にも、あるいは地球上のどこにも、将来にわたって真に安全と言いうる「疎開先」は無いと、私は考えています。要するに、逃げ場はどこにも無いのです。
なぜ今あえて「言わずもがなのこと」を書いたかといえば、近い将来にも、「疎開先あります」とか「引っ越し先にどうですか」といった内容で、人の不安につけこんで、家や不動産を高く売りつける詐欺的な商法が横行しそうな気がしているからです。そういうことも監視し、警戒していく必要を感じています。
その種の詐欺に何と名付けるべきでしょう。「疎開ビジネス」かな。線量計も慌てて飛びつく必要なし。そのうち値崩れしますから、手の届く値段になってから買えばよい。いま飛びつくと「線量計サギ」に引っかかるかもしれません。
最良の堕落は最悪なり(corruptio optimi pessima)。善意の衣を着た狼は、あらゆるところに潜んでいます。
2011年5月19日木曜日
平田オリザ氏の「発言撤回」の意味を考える
「平田オリザ氏、汚染水放出巡る発言を撤回し謝罪」(読売新聞、2011年5月19日04時40分)
内閣官房参与で劇作家の平田オリザ氏は18日、東京電力が4月に福島第一原子力発電所から低濃度の放射性物質を含む汚染水を海に放出したことについて、「米政府からの強い要請で(海に)流れた」とソウルで述べた自らの発言について、所属団体を通じ、「私の発言が混乱を呼び、関係各位にご迷惑をおかけしました。当該の事実関係について知りうる立場にありません。撤回して謝罪します」とする談話を出した。
さて問題は、この記事を我々がどう読むべきかである。内閣官房参与までが「知りうる立場にない」なら、誰が「知りうる立場にある」のだろうかと思わずにはいられない。
内閣官房のホームページを見るかぎり、組織図に「内閣官房参与」の位置づけはない。Wikipediaの説明によると「相談役的な立場の非常勤の国家公務員」だそうで、その人が「知りうる立場」になかった。逆にいえば、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちは内閣官房の「常勤公務員」に絞られるわけだ。
内閣官房の定員は778人だそうだ。意外に多い。でも、その多くは「なんとか推進室」「かんとか検討室」「どうとか対策チーム」の人たちのようだから、778人全員が、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」立場にいたとは思えない。「知りえた」人たちは、何人くらいいたのだろうか。
オモテに名前が出ているこの人たちは、知っていたのだろうか(敬称略)。
菅 直人 (内閣総理大臣)
枝野幸男 (内閣官房長官)
仙石由人 (内閣官房副長官(政務))
福山哲郎 (内閣官房副長官(政務))
瀧野欣彌 (内閣官房副長官(事務))
伊藤哲朗 (内閣危機管理監)
佐々木豊成 (内閣官房副長官補)
河相周夫 (内閣官房副長官補)
西川徹矢 (内閣官房副長官補)
千代幹也 (内閣広報官)
植松信一 (内閣情報官)
辻元清美 (内閣総理大臣補佐官)
藤井裕久 (内閣総理大臣補佐官)
細野豪志 (内閣総理大臣補佐官)
馬淵澄夫 (内閣総理大臣補佐官)
芝 博一 (内閣総理大臣補佐官)
いま16人だ。内閣官房ホームページの「幹部紹介・内閣総理大臣補佐官紹介」のページに載っている人たちだ。テレビに出て来る人と、出て来ない人がいるのが分かる。
この人たちの名前は、べつに秘密でも何でもなく、どこでも公表されているのだから、書いても構わないはずだ。堂々たる公人だ。この16人が、大量汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちだろうか。
我々はこの16人の名前を、終生、記憶と記録にとどめておく必要がある。これは、平田オリザ氏の言葉をそのまま受けとめるなら、内閣官房参与である人をして、放射能で汚染された水の海洋放出について「私は知りうる立場になかった」と言わしめた、今の内閣官房の中核にいる人々の名簿である。
それでは「知りえた」のは、だれなのだろう。どのレベルの人たちまでは知っていたのか。何人知っていたのか。米国の「要請」か「了解」なしに汚染水の廃棄などできたとは思えないが、まさか本当に、米政府にも知らさず、要請も了解もなく、そして内閣官房参与にも相談せず、ごく一握りの人たちがゴーサインを出したというのか。
責任の所在を内閣官房だけに限定できるかどうかは分からない。「内閣」には省があり、大臣がいる。各省の大臣は「事前に」知っていたのか知らなかったのか。いま私が知りたいと願っているのは、放射能水の海洋放出の「ゴーサイン」の責任を有する人々は、何人くらいいたのだろうか、という点である。
まさか、先ほど名前を挙げた16人だけで「ゴーサイン」を出したのではないでしょうねと聞いてみたいのだ。「相談役の非常勤公務員」たる内閣官房参与の口から「知りうる立場に無い」と言わせるほどに、まわりの誰とも相談せずに。
内閣官房の中核にいると思われる「16人」が多いのか、それとも少ないのか。そんなことは部外者には知る由もない。16人と言えば、一中学校のPTA運営委員会の人数くらいだ。この人たちが「海に流せ」と言った。そう考えてよいのだろうか。全世界に放射能を拡散させてよいとゴーサインを出したのは、彼らなのか。
私は別に、この「16人」に損害賠償請求をしたいわけではない。とくに面識があるわけでもない平田オリザ氏をほんの少しだけ庇いたい気持ちを持っているにすぎない。まあ、今や国民全体からバッシングを受けている人をかばおうとすると、かばった者までバッシングを受けかねないが、それは致し方ない。
平田氏が何を意図してリーク(と呼んでよいと思う)したかは本人以外には分からないが、私の拙い読解力からいえば、これから徹底的に責任を追及されることになるであろう現内閣を擁護する心の表われだとしか思えない。野党が平田氏を追及するのは当然だが、与党にとってはむしろ重宝な存在ではないか。
たとえば、いま流れている、GEと米政府を提訴する意思が日本政府にあるという噂とリンクするものだとすれば、汚染水放出に「米国のお墨付き」があったというのは決定打につながるのでは、とも思う。
平田オリザ氏という一人の文学者が、我々一般人には立ち入れない奥の間の只中で、知恵をこらして懸命に戦ってくれているような気がするのは、私だけだろうか。
政治の「腹芸」や「どんでん返し」や「敵を騙すにはまず味方から」のような要素は、それこそ劇作家の十八番だろう。シナリオ通りに政治が進むわけがないことも、シナリオライターだからこそ分かるものがあるのではないか。
ともかく、平田氏のような方が内閣官房から排除されないことを、私は願っている。「ド素人の政治参加」、けっこうなことじゃないか。
内閣官房参与で劇作家の平田オリザ氏は18日、東京電力が4月に福島第一原子力発電所から低濃度の放射性物質を含む汚染水を海に放出したことについて、「米政府からの強い要請で(海に)流れた」とソウルで述べた自らの発言について、所属団体を通じ、「私の発言が混乱を呼び、関係各位にご迷惑をおかけしました。当該の事実関係について知りうる立場にありません。撤回して謝罪します」とする談話を出した。
さて問題は、この記事を我々がどう読むべきかである。内閣官房参与までが「知りうる立場にない」なら、誰が「知りうる立場にある」のだろうかと思わずにはいられない。
内閣官房のホームページを見るかぎり、組織図に「内閣官房参与」の位置づけはない。Wikipediaの説明によると「相談役的な立場の非常勤の国家公務員」だそうで、その人が「知りうる立場」になかった。逆にいえば、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちは内閣官房の「常勤公務員」に絞られるわけだ。
内閣官房の定員は778人だそうだ。意外に多い。でも、その多くは「なんとか推進室」「かんとか検討室」「どうとか対策チーム」の人たちのようだから、778人全員が、汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」立場にいたとは思えない。「知りえた」人たちは、何人くらいいたのだろうか。
オモテに名前が出ているこの人たちは、知っていたのだろうか(敬称略)。
菅 直人 (内閣総理大臣)
枝野幸男 (内閣官房長官)
仙石由人 (内閣官房副長官(政務))
福山哲郎 (内閣官房副長官(政務))
瀧野欣彌 (内閣官房副長官(事務))
伊藤哲朗 (内閣危機管理監)
佐々木豊成 (内閣官房副長官補)
河相周夫 (内閣官房副長官補)
西川徹矢 (内閣官房副長官補)
千代幹也 (内閣広報官)
植松信一 (内閣情報官)
辻元清美 (内閣総理大臣補佐官)
藤井裕久 (内閣総理大臣補佐官)
細野豪志 (内閣総理大臣補佐官)
馬淵澄夫 (内閣総理大臣補佐官)
芝 博一 (内閣総理大臣補佐官)
いま16人だ。内閣官房ホームページの「幹部紹介・内閣総理大臣補佐官紹介」のページに載っている人たちだ。テレビに出て来る人と、出て来ない人がいるのが分かる。
この人たちの名前は、べつに秘密でも何でもなく、どこでも公表されているのだから、書いても構わないはずだ。堂々たる公人だ。この16人が、大量汚染水の海洋放出を事前に「知りえた」人たちだろうか。
我々はこの16人の名前を、終生、記憶と記録にとどめておく必要がある。これは、平田オリザ氏の言葉をそのまま受けとめるなら、内閣官房参与である人をして、放射能で汚染された水の海洋放出について「私は知りうる立場になかった」と言わしめた、今の内閣官房の中核にいる人々の名簿である。
それでは「知りえた」のは、だれなのだろう。どのレベルの人たちまでは知っていたのか。何人知っていたのか。米国の「要請」か「了解」なしに汚染水の廃棄などできたとは思えないが、まさか本当に、米政府にも知らさず、要請も了解もなく、そして内閣官房参与にも相談せず、ごく一握りの人たちがゴーサインを出したというのか。
責任の所在を内閣官房だけに限定できるかどうかは分からない。「内閣」には省があり、大臣がいる。各省の大臣は「事前に」知っていたのか知らなかったのか。いま私が知りたいと願っているのは、放射能水の海洋放出の「ゴーサイン」の責任を有する人々は、何人くらいいたのだろうか、という点である。
まさか、先ほど名前を挙げた16人だけで「ゴーサイン」を出したのではないでしょうねと聞いてみたいのだ。「相談役の非常勤公務員」たる内閣官房参与の口から「知りうる立場に無い」と言わせるほどに、まわりの誰とも相談せずに。
内閣官房の中核にいると思われる「16人」が多いのか、それとも少ないのか。そんなことは部外者には知る由もない。16人と言えば、一中学校のPTA運営委員会の人数くらいだ。この人たちが「海に流せ」と言った。そう考えてよいのだろうか。全世界に放射能を拡散させてよいとゴーサインを出したのは、彼らなのか。
私は別に、この「16人」に損害賠償請求をしたいわけではない。とくに面識があるわけでもない平田オリザ氏をほんの少しだけ庇いたい気持ちを持っているにすぎない。まあ、今や国民全体からバッシングを受けている人をかばおうとすると、かばった者までバッシングを受けかねないが、それは致し方ない。
平田氏が何を意図してリーク(と呼んでよいと思う)したかは本人以外には分からないが、私の拙い読解力からいえば、これから徹底的に責任を追及されることになるであろう現内閣を擁護する心の表われだとしか思えない。野党が平田氏を追及するのは当然だが、与党にとってはむしろ重宝な存在ではないか。
たとえば、いま流れている、GEと米政府を提訴する意思が日本政府にあるという噂とリンクするものだとすれば、汚染水放出に「米国のお墨付き」があったというのは決定打につながるのでは、とも思う。
平田オリザ氏という一人の文学者が、我々一般人には立ち入れない奥の間の只中で、知恵をこらして懸命に戦ってくれているような気がするのは、私だけだろうか。
政治の「腹芸」や「どんでん返し」や「敵を騙すにはまず味方から」のような要素は、それこそ劇作家の十八番だろう。シナリオ通りに政治が進むわけがないことも、シナリオライターだからこそ分かるものがあるのではないか。
ともかく、平田氏のような方が内閣官房から排除されないことを、私は願っている。「ド素人の政治参加」、けっこうなことじゃないか。
2011年5月18日水曜日
「終わりある日常だけど生きろ」ですかね
昨日の段階で、日本政府がGEと米国を提訴する可能性があるという噂があることを知りました。しかし、情報源の確かさを含めて真相はまだ分かりません。しかしまた、もしそういうことになった場合におそらく争点となるのは、購入の際に必ずや取り交わされたはずの売買契約の際に、このマシンが壊れたときの修理方法まで教えてもらえたかどうかではないかと想像しています。
しかし、原発がブラックボックスであることは周知のとおり。開発者以外の誰も中身を見たことがないと言われている。そういうものの修理方法を教えられた可能性があるとは、私にはどうしても思えないのです。
パソコンとかでもそうですよね、「壊れたら自分で直さずに、必ずメーカーに返送してください。自分で裏ぶたのネジを開けたら、保証に応じられなくなります」というような警告文が書かれている。企業防衛の論理から言えば、当然すぎる言葉でしょう。でも、何のことはない、いまどき、パソコンくらいなら、多くの人が自分で部品を取り換えているはずです。
でも、原発のネジを開けて自分で部品を取り換えられる人なんて、ごく少数の開発者以外にはちょっと考えにくい。だから、ここで「ブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」という論理が成立しうるのではないかと、昨夜愚考してみたまでです。
ですから、私の発想から言わせていただけば、今回の原発事故や今後の原発存続の是非の問題は、結局のところ、最終的には「哲学」の問題じゃないかと思っているんです。
それは単純明快な哲学です。「絶対に壊れないものなど存在しない」という、いわばアホみたいな命題です。
しかし問題は、このアホみたいな哲学をこれまで我々が持ちえていたかどうか、いまからでも持ちうるかどうか、です。数学も物理も苦手な文系人間の幼稚な発言と思われても結構。いま問われていることは、実はただこれだけであるような気がしてならないのです。
東日本大震災以降しきりと考えさせられてきたことは、文学とか哲学とか神学などが現代社会から締め出されてきた(これは事実)結果がどうなのかというあたりなのですが、字義通りの「終わりなき日常」が、まるで本当に存続しうるかのような錯覚に、(私も含めて)多くの人が陥ってきたと思うのです。
オウム問題以降に語られた「終わりなき日常を生きろ」も、たしかに至言とは思います。私にはオウムを庇う思いは一ミリもない。「宗教」というカテゴリーで一緒くたにされて激しく迷惑したのは我々です。また、とりわけオウム被害者の苦痛はいまだ癒えていないことも分かっているつもりです。
しかし、大震災以降、いや原発「爆発」以降は、「終わりなき日常を生きろ」とは、もう言えなくなりました。「終わりある日常だけど生きろ」とでも言い換えなければならなくなった気がしています。
まあ、もちろん、歴史的な知識がある人たちは、「メメント・モリ」なり「武士道というは死ぬことと見つけたり」なりの言葉を思い出して重んじてもいいでしょう。しかし、なるべくならば「人間はどうせ死ぬし、世界はどうせ滅びるんだから」みたいな諦念っぽいのじゃなくて、「心配なことはいろいろあるけど生きようよ」と言えるほうが私はいい。
ただ、いま言いたいことは、これからどうするかの話ではなく、これまでどうだったかの話です。
数日前から頭をよぎっていることは、「終わりなき日常を生きろ」と真顔で(そして、ちょっとヒロイックな調子で)語りえた時代というのは、そもそも決して存在しうるはずのない「無限のエネルギー採掘所」が存在しうる、という詐欺的で人を幻惑する「哲学」の上に立っていたのではないか、ということです。
この問題は、いま読んでいる最中の宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)のテーマにも深い次元で関係してくるような気がしていますので、その意味でも目下の私の関心事になっています。ちなみに、この本(『ゼロ年代の…』)の帯に「宮台真司氏推薦」と書かれています。「終わりなき日常を生きろ」と言ったのは、そう、宮台真司氏です。
まあ、でも、こういうことも、ただつぶやいているだけではどうにもならないんですけどね。人の中に一度根付いた「哲学」は、そう簡単に変わるものではありませんしね。
しかし、原発がブラックボックスであることは周知のとおり。開発者以外の誰も中身を見たことがないと言われている。そういうものの修理方法を教えられた可能性があるとは、私にはどうしても思えないのです。
パソコンとかでもそうですよね、「壊れたら自分で直さずに、必ずメーカーに返送してください。自分で裏ぶたのネジを開けたら、保証に応じられなくなります」というような警告文が書かれている。企業防衛の論理から言えば、当然すぎる言葉でしょう。でも、何のことはない、いまどき、パソコンくらいなら、多くの人が自分で部品を取り換えているはずです。
でも、原発のネジを開けて自分で部品を取り換えられる人なんて、ごく少数の開発者以外にはちょっと考えにくい。だから、ここで「ブラックボックスが壊れた責任は開発者以外とりえない」という論理が成立しうるのではないかと、昨夜愚考してみたまでです。
ですから、私の発想から言わせていただけば、今回の原発事故や今後の原発存続の是非の問題は、結局のところ、最終的には「哲学」の問題じゃないかと思っているんです。
それは単純明快な哲学です。「絶対に壊れないものなど存在しない」という、いわばアホみたいな命題です。
しかし問題は、このアホみたいな哲学をこれまで我々が持ちえていたかどうか、いまからでも持ちうるかどうか、です。数学も物理も苦手な文系人間の幼稚な発言と思われても結構。いま問われていることは、実はただこれだけであるような気がしてならないのです。
東日本大震災以降しきりと考えさせられてきたことは、文学とか哲学とか神学などが現代社会から締め出されてきた(これは事実)結果がどうなのかというあたりなのですが、字義通りの「終わりなき日常」が、まるで本当に存続しうるかのような錯覚に、(私も含めて)多くの人が陥ってきたと思うのです。
オウム問題以降に語られた「終わりなき日常を生きろ」も、たしかに至言とは思います。私にはオウムを庇う思いは一ミリもない。「宗教」というカテゴリーで一緒くたにされて激しく迷惑したのは我々です。また、とりわけオウム被害者の苦痛はいまだ癒えていないことも分かっているつもりです。
しかし、大震災以降、いや原発「爆発」以降は、「終わりなき日常を生きろ」とは、もう言えなくなりました。「終わりある日常だけど生きろ」とでも言い換えなければならなくなった気がしています。
まあ、もちろん、歴史的な知識がある人たちは、「メメント・モリ」なり「武士道というは死ぬことと見つけたり」なりの言葉を思い出して重んじてもいいでしょう。しかし、なるべくならば「人間はどうせ死ぬし、世界はどうせ滅びるんだから」みたいな諦念っぽいのじゃなくて、「心配なことはいろいろあるけど生きようよ」と言えるほうが私はいい。
ただ、いま言いたいことは、これからどうするかの話ではなく、これまでどうだったかの話です。
数日前から頭をよぎっていることは、「終わりなき日常を生きろ」と真顔で(そして、ちょっとヒロイックな調子で)語りえた時代というのは、そもそも決して存在しうるはずのない「無限のエネルギー採掘所」が存在しうる、という詐欺的で人を幻惑する「哲学」の上に立っていたのではないか、ということです。
この問題は、いま読んでいる最中の宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)のテーマにも深い次元で関係してくるような気がしていますので、その意味でも目下の私の関心事になっています。ちなみに、この本(『ゼロ年代の…』)の帯に「宮台真司氏推薦」と書かれています。「終わりなき日常を生きろ」と言ったのは、そう、宮台真司氏です。
まあ、でも、こういうことも、ただつぶやいているだけではどうにもならないんですけどね。人の中に一度根付いた「哲学」は、そう簡単に変わるものではありませんしね。
2011年5月17日火曜日
「ゼロ年代の想像力」の作品群
宇野常寛著『ゼロ年代の想像力』(早川書房、第一版2008年、第六版2010年)に触発されて書きはじめたことは、しかし、同書の書評のようなことではない。書評なら最低でも全部読んでから書く。いまはまだ、読んでいる最中のメモを取っているだけだ。感じたことを感じたまま書く。
ただ、すでに分かってきたことがある。どうやら「ゼロ年代の想像力」(書名ではない)とは、私が長らく違和感…いや拒絶反応…いや嫌悪感(は言いすぎかもしれないが限りなく近い)すらおぼえてきたものようだ、ということである。宇野氏がリストアップしている作品群の名前を見てそう思った。
『バトル・ロワイヤル』(1999年)、『リアル鬼ごっこ』(2001年)、『仮面ライダー龍騎』(2002年)、『ドラゴン桜』(2003年)、『野ブタ。をプロデュース』(2004年)、『女王の教室』(2005年)、そして『DEATH NOTE』(2003~2006年連載)。
なるほど共通しているものがある。ただし、いちいちは言えない。目をそむけたくなったし、実際に目を背けたので、「ゼロ年代の想像力」なるものの産物をほとんど直視できていない。要するに知らないのだ。「ゼロ年代フォビア」かもしれない。まるでその時代の日本に私はいなかったかのようだ。
それと、私が「目をそむけた」のは、もっぱらテレビドラマとなったものだ。原作(小説・マンガなど)があるのかどうかさえ知らない。原作はもっと直視に耐えるものなのかもしれない。といって、テレビで見た俳優たちの演技を云々するつもりはない。
「目を背けた(くなった)」理由は思い出せないし、当時も自覚していなかったはずだ。しかし、今にして思うと、はっとさせられることがある。単純な話だ。宇野氏がリストアップしている「ゼロ世代の想像力」なるものの作品群がちまたに流れていたとき、うちの子どもたちは小学生だった、ということだ。
作者たちには失礼であるに違いないが、子どもたちに「ああいうの」は見せたくなかった。そういう感情は持っていた。原作も読まず、テレビドラマを直視さえしていないのに「ああいうの」呼ばわりするのは申し訳ないことだが、「読む」ということはある程度巻き込まれることだ。巻き込まれたくなかった。
「ああいうの」の中で、唯一、私自身が原作(マンガだが)をすべて読み通したのは『DEATH NOTE』だけである。必ずしも「面白かった」わけではないが「興味はあった」。歓喜をともなう好奇心ではなく、「なんなんだ、こりゃ」という目で眺めていたというに近かった。
そうね、『DEATH NOTE』を読んでいたときの気持ちは、同じ週刊少年ジャンプの中で『ONE PIECE』を読んだ後のバランスをとるような感じだった。ルフィの笑顔を見た後に夜神月のすっとした表情を見ると、なんとなくバランスがとれる。食後のコーヒー、かな。カレーの福神漬け、は言い過ぎか。
でも、逆はありえなかった。夜神月は、まさに「月」で、ルフィが主役だった。『ONE PIECE』を読んだ後でなければ『DEATH NOTE』のページをめくる気がしなかった。夜神月は、あくまでも「陰」。本人(?)がそれを望んだわけでしょ?
おっと、長々とやってしまった。今日は午後からまた中学校に行かねばならない。PTA運営委員会だ。昨夜は遅くまで中会の会議(東日本大震災被災教会緊急支援特別委員会。長いね)だった。今朝の寝覚めは悪くなかったが、取り組むべき課題が大きすぎて、ちょっとだけ逃避したい気分ではある。
��たぶんまだ続く)
ただ、すでに分かってきたことがある。どうやら「ゼロ年代の想像力」(書名ではない)とは、私が長らく違和感…いや拒絶反応…いや嫌悪感(は言いすぎかもしれないが限りなく近い)すらおぼえてきたものようだ、ということである。宇野氏がリストアップしている作品群の名前を見てそう思った。
『バトル・ロワイヤル』(1999年)、『リアル鬼ごっこ』(2001年)、『仮面ライダー龍騎』(2002年)、『ドラゴン桜』(2003年)、『野ブタ。をプロデュース』(2004年)、『女王の教室』(2005年)、そして『DEATH NOTE』(2003~2006年連載)。
なるほど共通しているものがある。ただし、いちいちは言えない。目をそむけたくなったし、実際に目を背けたので、「ゼロ年代の想像力」なるものの産物をほとんど直視できていない。要するに知らないのだ。「ゼロ年代フォビア」かもしれない。まるでその時代の日本に私はいなかったかのようだ。
それと、私が「目をそむけた」のは、もっぱらテレビドラマとなったものだ。原作(小説・マンガなど)があるのかどうかさえ知らない。原作はもっと直視に耐えるものなのかもしれない。といって、テレビで見た俳優たちの演技を云々するつもりはない。
「目を背けた(くなった)」理由は思い出せないし、当時も自覚していなかったはずだ。しかし、今にして思うと、はっとさせられることがある。単純な話だ。宇野氏がリストアップしている「ゼロ世代の想像力」なるものの作品群がちまたに流れていたとき、うちの子どもたちは小学生だった、ということだ。
作者たちには失礼であるに違いないが、子どもたちに「ああいうの」は見せたくなかった。そういう感情は持っていた。原作も読まず、テレビドラマを直視さえしていないのに「ああいうの」呼ばわりするのは申し訳ないことだが、「読む」ということはある程度巻き込まれることだ。巻き込まれたくなかった。
「ああいうの」の中で、唯一、私自身が原作(マンガだが)をすべて読み通したのは『DEATH NOTE』だけである。必ずしも「面白かった」わけではないが「興味はあった」。歓喜をともなう好奇心ではなく、「なんなんだ、こりゃ」という目で眺めていたというに近かった。
そうね、『DEATH NOTE』を読んでいたときの気持ちは、同じ週刊少年ジャンプの中で『ONE PIECE』を読んだ後のバランスをとるような感じだった。ルフィの笑顔を見た後に夜神月のすっとした表情を見ると、なんとなくバランスがとれる。食後のコーヒー、かな。カレーの福神漬け、は言い過ぎか。
でも、逆はありえなかった。夜神月は、まさに「月」で、ルフィが主役だった。『ONE PIECE』を読んだ後でなければ『DEATH NOTE』のページをめくる気がしなかった。夜神月は、あくまでも「陰」。本人(?)がそれを望んだわけでしょ?
おっと、長々とやってしまった。今日は午後からまた中学校に行かねばならない。PTA運営委員会だ。昨夜は遅くまで中会の会議(東日本大震災被災教会緊急支援特別委員会。長いね)だった。今朝の寝覚めは悪くなかったが、取り組むべき課題が大きすぎて、ちょっとだけ逃避したい気分ではある。
��たぶんまだ続く)
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