2018年4月15日日曜日

神を知る

ローマの信徒への手紙2章1~16節

関口 康

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。」

先週申し上げたとおり、今年度1年間、私が説教を担当する礼拝ではローマの信徒への手紙を続けて読みます。ちょうど1年で終わるように、聖書箇所の割り振りと説教題と、その日に歌う讃美歌まで、もう決めました。それは私のメモとして自分で持っておきます。

しかしそれは、ローマの信徒への手紙そのものを歴史的・文献学的に研究した成果を披露するというようなことではありません。私の意図は、この手紙の構造に基づいて、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の中身を分かりやすく解説することにあります。

それはある意味で、皆さんに対する私自身の自己紹介であると考えています。この牧師はどういう筋道でキリスト教信仰をとらえているのか、どういう立場に立っているかをお話しすることが、最も意味のある私の自己紹介になるだろうと期待しています。

それこそが、パウロがローマの信徒への手紙を書いた意図でした。なぜパウロはこの手紙をまだ行ったことがない、これからあなたがたに会いたいと願っているローマのキリスト者たちに宛てて書いたのでしょうか。それは自己紹介をするためでした。

「私はこういう信仰を持っています。こういう福音理解を持っています。この福音をあなたがたと一緒に宣べ伝えたいのです」と言おうとしています。私はパウロではありませんが、パウロの弟子ではあります。パウロ先生のやり方を真似することは許されているでしょう。

それで、今日は2章に入ります。先週お話ししたのは1章18節から32節までの箇所でした。それはローマの信徒への手紙の本文の最初といえる箇所ですが、そこにパウロがいきなり人間は「罪人だ、罪人だ」とまるで機関銃のように書き連ねていることに多くの人が驚き、また多くの人がつまずきを覚える、そういう箇所でした。

しかし私は申し上げました。パウロは決して、天地創造の初めから神が人間を「罪人として」創造されたという信仰を持っていたわけではありません。初めに神は人間を「極めて良い」存在として創造なさったことが創世記1章31節に書かれています。それをパウロが知らないわけがありません。

だからこそパウロは先週の箇所に、罪を「堕落」として描いています。「変わった、堕ちた、逆らった」状態が「罪」であるということは「本来、人間は罪人ではなかった」という大前提なしには、決して成立しえない話です。

わたしたちがよく知っている、多くの人に愛されているイエス・キリストの説教のひとつに、ルカによる福音書15章11節以下の「放蕩息子のたとえ」があります。このたとえ話が記されているルカによる福音書の直前の箇所に、99匹の羊を残してでも1匹の迷子の羊を探しに行く羊飼いのたとえがあります。さらに、見失った銀貨を捜して見つけて喜ぶ人のたとえもあります。

語られていることの趣旨はどれもみな同じです。たとえられているのは、人間が「罪人」であるとは何を意味するのかです。それは本来「極めて良きもの」に創造されたにもかかわらず、そこから「変わり、堕ち、逆らう」存在になりました。それが「罪」です。

もしそうだとしたら「罪から救われる」とは何を意味するかということも、おのずから分かることです。放蕩息子が父の家に帰ることです。迷子の羊が飼い主に抱かれることです。見失った銀貨が持ち主のもとに戻ることです。本来の場所に戻り、本来の姿へと回復されることです。

ですから、私はそれを「救われるとは人間が人間になることを意味する」と申しました。本来の姿へ回復すること以上のことは起こりません。何がどうなろうと、わたしたちは「人間以上の存在」になりません。人間は「神」にも「天使」にもなりません。そうなる必要がありません。

ここまでが先週のおさらいです。今日は2章を開いていただいています。今日の箇所にはいろんなことが書かれていますが、主旨ははっきりしています。ユダヤ人もギリシア人も神の前では同じ人間であるということです。そしてその場合の「ユダヤ人」と「ギリシア人」の意味は、今のわたしたちの常識とは全くかけ離れたものです。

パウロにとって全世界は「ユダヤ人」と「ギリシア人」の二種類だけで構成されていました。両者の違いは「律法を持っているかどうか」です。当時の「律法」は今の「聖書」です。聖書を物心つくころから知っているのがパウロの言う「ユダヤ人」であり、そうではないすべての人が「ギリシア人」です。民族の違いや国の違いを話しているのではありません。

ここで、先週宿題にした点に触れます。それならば、なぜパウロはローマの信徒への手紙を「人類の罪」から書き始めたのかという問題です。それを一言でいえば、この手紙は、主として今申し上げている意味の「ギリシア人」すなわち「異邦人」に宛てて書かれたものだからです。

「異邦人」(「ギリシア人」)は「ユダヤ人」とは違って、天地創造の初めから罪人として創造されたという意味ではありません。異邦人も「極めて良き存在」として創造されました。しかし異邦人はユダヤ人ほど「本来の状態」を自覚しにくい面があります。異邦人は、罪からの救いを「回復モチーフ」でとらえるのが難しい。自分を「放蕩息子」としてとらえるのが難しい。

たとえば、伝道集会の説教や証しの中でよく聞く話があります。「私はもともと信者の家庭で生まれ育ちました。途中、反抗して教会から出て行きましたが、また戻ってきました」という話を聞いてピンと来る人と来ない人がいます。ピンと来るのは、パウロの言う意味の「ユダヤ人」です。ピンと来ない人は「ギリシア人」(「異邦人」)です。

あるいは、ヨーロッパのような十数世紀も前からのキリスト教国や、そこから派生してできたアメリカで「リバイバル」(信仰復興)を訴えることでピンと来る人は、きっといるでしょう。しかし、日本で「リバイバル」と言われてもお困りになる人が多いでしょう。

そのことと、この手紙が「異邦人に宛てられたゆえに人類の罪から書き始められたこと」が関係していると思われます。断言はできません。十分な答えでないことをお許しください。

しかし、その「ギリシア人」も「ユダヤ人」も神の前では全く同じ人間であると、パウロは主張しています。どちらが「上」であり、どちらが「下」であるということはありません。神は両者を差別なさいません。「神は人を分け隔てなさいません」(11節)と書かれているとおりです。

「ユダヤ人」のほうはどれほど罪を犯しても、神がその人々を特別扱いして見逃してくださるが、「ギリシア人」(「異邦人」)のほうはそうではなく、神の厳しい裁きにあうということはありません。同じ罪を犯せば、どちらも同じ扱いです。そのような依怙贔屓を神はなさいません。

しかし問題はその先です。パウロの言う意味の「ユダヤ人」は傲慢になりやすいとパウロは考えています。

物心つくころから聖書を知り、「神の教え」を知っている。その者たちがまるで自分が神になったかのように、神の戒めは自分には当てはまらないかのように、自分の罪を棚に上げて、自分自身を神の立場に置いて、神の視点から人を裁きはじめるのです。教会の窓から外を見ながら「あの人々を悔い改めに導いてあげなければならない」などと言いはじめるのです。

パウロ自身は「ユダヤ人」ですから、それが自分自身の姿でもあることを強く自覚しています。しかしそのうえでパウロはそのような態度がいかに傲慢であり、根本的に間違っているかを強く訴えています。「だから、すべて人を裁く者よ、弁解の余地はない。あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている。あなたも人を裁いて、同じことをしているからです」(1節)と記されているのは、まさにその意味です。

この「あなた」がパウロの言う意味の「ユダヤ人」です。物心つくころから聖書を知り、神の教えを知っている人々。その人々が「神の教え」をひたすら自分に当てはめ、自分自身の反省と悔い改めの機会にし、常に謙遜に生きようとするのであれば、問題はないかもしれません。

しかし、自分に当てはめることを忘れ、あるいは意図的に拒絶し、「神の教え」を傘に着て、自分以外のだれかを裁く。そういうことをする「あなた」自身も、そのこと自体で神の前で重大な罪を犯していることを自覚せよと、パウロは厳しく警告しています。

しかし、続きに書かれていることを見てください。「神はこのようなことを行うものを正しくお裁きになると、わたしたちは知っています。このようなことをするものを裁きながら、自分も同じことをしている者よ、あなたは、神の裁きを逃れられると思うのですか」(2節)。

ここで分からないのは「このようなこと」の意味です。文脈を考えれば、神の教えを傘に着て他人を断罪することを指しています。そういうことをするのは、たいてい牧師です。教会の説教者です。「このようなこと」をすること自体が罪であるとするパウロの言葉は、教会の信徒の方々から歓迎されるかもしれません。「牧師こそが神の裁きにあう」「そうだそうだ」と。

しかし、それはそれで、人を裁く罪として全く同じことをしていることになるとパウロは言っています。「喧嘩両成敗」を言いたいわけではありませんが、「お互いさま」の面があるかもしれません。

「あるいは、神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことを知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか」(3節)と記されています。この意味は、人が自分の罪を認めて悔い改めるのは、神の憐れみによる、ということです。

これこそ、わたしたちが共有すべきキリスト教信仰の真髄です。教会が「世の人」を断罪しても、そのこと自体で人が悔い改めるわけではありません。心が頑なになるだけです。叱られれば萎縮します。見下げられれば恨みを抱きます。教会の場合は「二度と行かない」と決意する人々を生み出します。

「神の憐れみ」のみが、人を造りかえます。「神の豊かな慈愛と寛容と忍耐」が、人を罪から救います。人間は神ではありません。神になれませんし、なる必要がありません。神になろうとすること自体が罪です。わたしたちは、人間とは全く別の「神」がおられることをよく知る必要があります。

(2018年4月15日)