ローマの信徒への手紙8章31~39節
関口 康
「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。」
今日は、昭島教会のみなさまに対する特別な感謝の思いをもってこの場に立たせていただいています。
私が東京都昭島市に引っ越ししてきたのがちょうど1年前の今日です。2018年3月10日。土曜日でした。正確に言えば、私の荷物だけは2日前の3月8日木曜日に到着しました。牧師館の改修工事をする予定になっていて、まだ入居できない状態でしたので、代わりの仮牧師館として昭島市内の一室で単身赴任生活を始めさせていただきました。
そういうわけで、今日は私の昭島生活1周年の記念日です。引っ越しの日から今日までの1年間、大変お世話になりましてありがとうございます。
しかし、翌日の3月11日日曜日は昭島教会の礼拝に出席しませんでした。私が千葉英和高等学校の常勤講師として日本キリスト教団の教務教師だった1年間と、翌年の無任所教師としての1年間、合計2年間、家族と共に住んでいた借家から最も近かった日本キリスト教団小金教会の礼拝に、他の教会から説教を依頼されていない日曜日のほとんどに出席していました。その小金教会のみなさんにお別れの挨拶をするために、3月11日は小金教会の礼拝に出席しました。
そして、その後すぐに、昭島市内の仮牧師館に戻りました。滝澤操一さんが冷蔵庫と洗濯機と電子レンジを持ってきてくださいましたので、それを据え付けました。滝澤操一さんにこの場をお借りして個人的な感謝を申し上げます。ありがとうございます。
いまご紹介しましたのは、昨年3月11日日曜日のことです。前日の3月10日土曜日の日記も確認しました。その日に私が何をしたかを思い出しました。すっかり忘れていました。
日本キリスト教団の無任所教師であった1年間、何もしないわけに行かなくてお手伝いしていた建築会社の社長はイスラム教徒のイラン人の方(モハマッド・バニジャマリさん)でしたが、その社長さんが朝8時半にご自分の大型トラックで私の家まで来てくださり、いわゆる引っ越しごみを千葉県柏市の3か所のクリーンセンターまで運び、ごみを捨てました。
それが全部終わったのが午後5時でした。そして、レンタカー(カーシェア)で千葉県柏市から昭島市まで来ました。昭島市に到着したのが、夜10時でした。
「目まぐるしい」という言葉を辞書で調べると「目の前にあるものが次から次へと移ったり動いたりするので目が回るようだ」という意味であると書かれています。1年前の今日と明日の私は、まさに目まぐるしい状態だったことを、日記を見て思い出しました。
なぜこの話をしているかと言いますと、ちょうど1年前の今日の私の心境はどのようなものだったのかをお話ししたいと思っているからです。それを言い表すためにそのままぴったり当てはまる言葉を、パウロが書いています。コリントの信徒への手紙一2章3節です。「そちらに行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れにとりつかれ、ひどく不安でした」。
「衰弱していた」というわりには丸々と太っていたとは思いますが、心理的・精神的な面での衰弱です。「無任所教師」と言っても、私は完全な失業者でした。2人の子どもたちがまだ学業の途中であったその最中に父親である私が失業してしまい、家族に大きな迷惑をかけました。
私にできることといえば、教会の牧師の仕事、すなわち「伝道」しかないのですが、伝道はお金儲けの手段ではありません。牧師とその家族は教会のみなさんに生活を助けていただいているだけです。
前に所属していた教派と、最後の教会をなぜ辞めたかについては、みなさんにきちんとお話ししていません。「何があったのですか」と尋ねないでいてくださることを感謝しています。そのうちいつかお話しできる日が来るかもしれませんし、来ないかもしれません。
パウロが「私は衰弱していた」と書いているのは、コリントに行く直前にいたギリシアのアテネの伝道が失敗したことを指していると言われることがあります。「伝道に失敗も成功もない」という見方もあるとは思いますが、自分の主観において、あるいは他者から客観的に見て「あれは失敗だった」と評価されざるをえない伝道は、実際にはありうると思います。
そのようなことを私も体験しました。何よりも悲しく、そして申し訳ない気持ちでいるのは、私の家族を苦しめてしまったことです。その苦しみは今も続いています。
しかし、今の私の心の内にあるのは、今日までの1年間、温かく助けてくださった昭島教会のみなさまへの感謝です。そして、伝道へのさらなる意欲と、明日への希望です。
幸か不幸か、私は自分が「神に召された伝道者」であるということを自分で否定することができません。自分の思い込みではないかと、何度も何度も疑います。しかし、具体的な教会から牧師として招聘していただき、さらにこのたび都内のミッションスクールで聖書を教える教員としての仕事を再び与えられる運びになりました。
昭島教会のみなさまとも、また来月から働かせていただくミッションスクールとも、過去に何のつながりもなく、お互いに全く知らない関係でした。その私に「御言葉を宣べ伝えなさい」と伝道の場所と機会を与え続けてくださっているのは神であるとしか言いようがありません。すべてが奇跡であるとしか言いようがありません。私は伝道をやめないし、やめることができません。神がそうするように私に命じておられるからです。
先週申し上げましたとおり、来月からミッションスクールで働かせていただくことが決まったのが、先週日曜日の前日の3月2日土曜日でした。面接試験が行われたのが3月2日土曜日でした。面接試験の様子は牧師招聘委員会さながらだったことをお伝えしておきます。一般的な教員採用試験とは性質が違いました。
面接で私が答えたのは今日みなさんにお話ししていることと同じです。「もともと私は学校の教員になるつもりはなかった。教会の牧師であることしか考えたことがなかった」と言いました。教員免許は20年以上、書斎のごみの山の中に放置したままでした。その話も面接のときはっきりしました。そのうえで採用していただきましたので、隠すような内容ではないと思います。
ほとんどすべて自分の話だけになってしまい、申し訳ありません。今日開いていただいた聖書の箇所に記されている御言葉は、今の私の思いと全く同じであると確信できるものがあります。
「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」(31節)。
ここにパウロが書いているのは、誤解されやすい言葉かもしれません。パウロは、だれが自分の敵で、だれが自分の味方かという「敵・味方」の話をしたがっているのではありません。「敵はいない」という意味での「無敵」であると言っているだけです。だって神が共にいてくださるのだから。
そして、その神が大切なひとり子イエス・キリストの命さえも惜しまずに差し出してくださったのだから、イエス・キリスト以上に大切な存在は他にないのだから、そのイエス・キリストの命を差し出してくださったその神がすべてのものをわたしたちに与えてくださらないわけがないでしょうと言っているだけです。
そして、その神が「御計画に従って召された」神を愛する者たち(28節)を愛してくださるその愛からわたしたちを引き離す力はどこにもあるはずがないでしょうと言っているだけです。わたしたちは神に愛されて、神を愛する者へと造りかえられました。互いに愛し合うことが始まれば、プロポーズはどちらが先だったかは問題でなくなります。
私は自分で自分が「神に選ばれた人間である」と言い張るつもりはありません。しかし、これまで生きてきた人生の中で「神がわたしを愛してくださっている」ということを十分に信じるだけの十分な根拠を何度も繰り返し与えてくださいました。そのことだけは言えます。
これは私だけの話ではないと思うのです。みなさんも同じだと思うのです。「私が神に愛されていると思えたためしは、いまだかつて一度もありません」とおっしゃる方が、あるいはおられるかもしれませんし、実際にそのような叫び声を聴いたことがあります。最も身近なところで。
その叫び声に私はどのように答えればよいかが分かりません。私に申し上げることができるのは、私自身も決して順風満帆で生きてきたわけではないということです。何もかもすべて良いことばかりで、悩みも苦しみもない人生を生きてきたわけではありません。
しかし、苦労も含めて、嘆きも悲しみも含めて、「神がわたしを愛してくださっている」ということを信じる根拠として十分すぎるほどでした。
(2019年3月10日、日本キリスト教団昭島教会 主日礼拝)